嘉永期に入ると、日本各地沿岸の海防体制については、既にその防衛体制に組み込まれている諸藩や沿岸農民は勿論だが、その他の武士、在野の知識人、全国各地の豪農や商人などにとっても、強い関心事となっている。その意味において、当時の江戸湾海辺、特に三浦半島には、海防体制視察の目的をもって、多くの人々が訪れ、何らかの書き物を残したと思われ、おそらく「海岸紀行」もその中のひとつであったと推測される。
今後また、新たな史料が発見され、それらの解読を通じて、『船橋本』の成立時期や、相馬某が何者であったかなどが、解明されることを期待したい。