小金原御鹿狩絵図

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寛政七年きのとのう弥生五日
大樹家齊公下総國小金の原に御しゝかり
の事有其前の夜よりして吉田侍従伊豆守
松平〔本姓/長沢〕信明朝臣を初メ兵部少輔井伊直朗
出雲守立花種周遠江守加納久周美濃守
平岡頼長ハ御先江参りけり𢪤御供にハ摂津守
堀田正敦肥後守林忠篤を初各供奉したり
ける遥かなる御道なれハとて子の時計りに
御供を揃へ夫ゟ大手の御橋より 出御有本町
の通両国の河に向はせ給ひて御舟に召れ御舩
手には向井某〔呼名/将監〕を初罷出たりけり大川の
うちはいまたよふかくして水戸橋ゟ上らせ
玉ふ松戸の河にハ舟橋を懸ケ是を渡らせ玉ふ
同しき所にしはしの御休らひ所を定て是に
入らせ玉へは夜も明たりける
小金の御狩塲にいらせ給ひてまつ御塲の
さまをも
上覧ありて中の御立塲にハ巳の刻過る
頃入らせ給ふ兼て
金吾斎(ママ)匡卿戸部斎(ママ)敦卿にも御とも
なひありて此両卿の御方々も御先江まから
せ玉ふ
御立塲ハ凡高さ三丈計なるを三段に築
たて上たるを御座と定中なるにハ御両卿
の御方居させ給ひ下なるには信明朝臣祗
候したりけるさて御立塲にハ御吹貫を
たてらるその吹なかせる布は白して
三丈計なるに赤く葵の御紋を染ぬき
たしにはこかねの幣五尺はかりもたれ
たるを立て日かけにかゝやき遠く隔
たる所ゟもよそめまかはさりけりその
かたはらには白熊の御槍二筋と常の
御長刀なと立ならへたり
さて御しゝかりはしまり勢子なるものは
御小姓組御書院番を初新御番大御番の
番士なり皆々其組々の母衣或はさしものゝ
色を羽織にいろとりたり各騎馬にていて
たれと禄のすこしきとて小十人の番士
にハ御ゆるしありて歩行せことそきはめ
玉ふその外農士のもの勢子に出たるは
近き里ハ申もさらなり遠くよりも兼て
出居凡十万の人数ともミへたりける遠
くは野火をかけてゐのしゝかのしゝなと
あまた追出したり
其外御前には諸々の司々祗候南の方
にハ御狩の御弓御鉄砲の者の組頭とも
あるひは百人組の組頭とも御供弓の番士
御鷹方御徒士御庭のものまても立きりたり
農士勢子鯨波の声をはつして数多御塲の
なかへ追入て貝太皷又大筒なとの相圖あ
り御塲近くハしゝあミを張たりこのめく
り凡一里計りも有なむと也竹もかり一
手に五人とさためて番士の人々騎馬にて
出たる中にも小手行騰したるもあり或は
射とめあるハ鉄砲にてうつも有て御狩
数多ありけり
御狩も申の時過頃すミて
還御の御催しあり前のことく松戸の駅の御
やすらひところに入らせ玉ひて夫ゟ御舟に
めされ両国の河より上らせ給ひ
御城へは亥刻過る頃いらせ玉ふ御供には
兵部少輔井伊直朗大和守本郷恭行を初
各供奉したりける御物員は百五十余御拳
も五つとそ其ほかにも十五はかりも突
留あり
斯御狩も済たりけれは三日の程は御狩塲
も其侭なし置て御ゆるしありたうとき
もいやしきも老たるも若きもうちむれて
遠き里々より是をミんと市をなせるかことく
行かよひけりとなむ
こたひ御しゝかりの御事司りける信明
朝臣を初若年寄には出雲守立花種周
大目付大和守安藤惟徳御小納戸頭取駿河守
亀井清容日向守大久保某御郡代丹後守
久世廣民御目付石川忠房〔呼名/将監〕成瀬正定
〔呼名/吉右衛門〕御使番巨勢某〔呼名/六左衛門〕朽木某〔呼名/左京〕御勘定組
頭金沢千秋〔呼名/瀬兵衛〕其外御勘定四人奥御右筆
田中某〔呼名/吉蔵〕都築某〔呼名/市兵衛〕あるひは番頭奥向
御馬預御代官または御鳥見なとまても数
多の禄をそ玉はせける
此一巻ハ兼而養川院法印惟信か筆のうつして
予持ゐたりけるを梶野規満のぬしの望
にまかせかしたりけれは丸山故辰にうつさせ
給ふかくて其繪の間々にそのことはりを
あからさまにしるし侍りけれハ規満のぬしも
兼て其事を聞書し侍りけるとあはせて
ことはにつらねよとの需によりてかくは
書つらねたり
                    大塚長桓
右梶埜大人より借得て三男重政をして臨画せしむる者也
     文政二卯年三月    志賀理斎
 
嘉永二己酉のとし弥生十八日
大樹家慶公小金の原の御狩有し頃出渕盛愛
より寛政なる御狩の軸物借得給ふこたひ
の御狩も此御例に習はせ給ふよしなれハ
女画史文雪をして写しゑかゝせ給ふ筆は
            山川和成とりぬ