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(印)
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  房総志料
 
 
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房総志料
  安房(印)
一 順和名抄に養老二年割上総国四郡置安房国といふ事ミゆ、然とも此一事続日本紀元正帝紀に見へす、又、聖武帝紀を考に丙戌安房国并上総とあり、かくあれハ始養老中安房国を置、再ひ旧に復せしとミゆ、又、万葉集を閲に上総の郡名に長狭・朝夷二郡を載るを見る時ハ此頃迄ハ未た一国に立さると見ゆ、万葉集ハ孝謙帝に起り平城帝に至り撰集なる、正しく一国となりしハ嵯峨帝以後のことと見へたり
 
 
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一 本邦の輿地考へかたし、如何となれハ海湾迂曲広狭幾といふことさたかならす、大抵東小湊浦ゟ西洲崎迄十二三里許もありぬへし、南北ハ妻郎の鼻ゟ鋸山迄七八里許といへとも是又山道険悪の地なれハ詳なることしるへからす
一 本邦の地気大略紀州・豆州なとにひとし、其地橘柚によろし、然とも今に一株も栽るものなし、如何となれハ彼土俗素漁猟を以要利とすれハ也、山民といへとも其ならひに染、かゝることハ興利第一の要務、領主皇正(里カ)なと意をかたむくへきこと也
一 本邦の地艾草多、道に塞地に布て生す、然共味苦くして不耐口故、山民境を超上総の地に至り採去る、此物石地に宜しからさるにや
一 本邦の絶て鯉魚なし、或云ふ、鯉魚ハ諸魚の冠たる物なれハ一州十郡に充さる地には産せすと、思ふに彼豈郡の多少に拘らんや、陸奥の地鯉魚なきにて知へし、又、甲州にも鯉魚なしと、按に奥佐房甲倶に金を産す、凡物の愛憎知るへからさるも諸魚中独鯉魚而已金の液臭を忌るなるへし
一 本邦の山は極て高くしてさかし、然とも上総より望
 
 
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に独清澄山のミ見ゆ、其他ハミへす、如何となれハ彼土上総より一帯低けれハなり、房総の界市ケ坂ゟ彼地方直下に見ゆるにて知へし
一 本邦の地苦竹(マタケ)稀也、村落毎に美竹(メタケ)のミ多し、苦竹ハ石地に宜しからさるものにや、或いふ長狭郡の山中にハ産すと
一 本邦四郡に産する所の米計に一年の糧二月の料ならてハなく(し)、如何となれハ地狭隘にして漁家多けれハ也、故に年々穀を他邦に仰くと
一 本邦の地菅なし、故に農夫多ハ笋(タケノコ)笠を蒙る、或いふ蓮なしと、然とも朝夷郡麻呂の池沼往々産すと
一 本邦の俗、秋、社に海藻を神籬にかく、叢祠といふ(へ)ともしかり、按に延喜式神料に海藻を載、左氏に所謂蘋蘩藻菜これなり
一 本邦諺に倒寒といふこといへり、晩寒のこと也、彼土冬日温煖にして菜茄を生し霜雪をしらす、春に至りぬれハやうやく寒し、故倒寒の名ありと、按に是時候の遅速に与らす、如何となれハ凡て海潮三冬温にして春に至り却て冷なり、彼地山を背にし海を帯且地方南に面しぬれハ海気充溢して泄さす、
 
 
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  故に冬月寒を知らさるにてあるへし
一 本邦の諺に妻良の千枚畑といふこといへり、彼土海辺の民山足ゟ絶頂迄山を禿にし力を尽してうかちて畑とす、崔巍無遺地其形階の如し、譬ハ畑毎に麦二合或ハ三合其最大なる畑なといへるものハ五合許も種を下すと、或一人にて畑五十枚の主たり、又ハ百枚の主なといへるものハ彼地の大農と称す、然とも自余の農の一段にも足らぬほとのこと也と、糞汁抔洒けるも女の業にて小桶に盛頭に載幾ともなく山を上下す、甚労せることなりと
一 日蓮師ハ本邦の産なれハ素日家の寺多からんと思ひしに彼土の古刹ハ多ハ真言派なり、かゝる事にても古俗の存せることしるへし
一 本邦の地方四郡のうち土地沃壌なるハ長狭を第一とす、次ハ安房郡、其次ハ平郡、朝夷ハ負海の地也と
一 本邦の海小湊より洲崎迄を南海といふ、洲崎ゟ金谷まてを北海といふ
一 本邦の海辺浜木綿といへるものを産すと彼土の人語り、形状未親見万葉集に三熊(野脱カ)の浦の浜木綿百重なると人麿が歌に詠する所是なり、暖(ダン)土なれハ
 
 
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さも有ぬへし
一 本邦の地方東條北條南條の称あれと西條なしと土人かたれり、東條ハ長狭郡濱萩(荻)天津辺をいふ、北條ハ安房郡大街の地、南條ハ舘山より十五町許東の地をいふと
一 日蓮の事記せしものに西條華英の郡といふこと書り、西ハ東字の誤にや、華英ハ東條の地なれハなり、亦花英郡名にてハなし、按に長狭の地東の方小湊辺迄を東條といふ(へ)ハ花英辺より西の方を西條と云しにや、猶考へし
一 安房ハ淡なり、日本紀景行紀に、冬十月天皇至上総国従海路渡淡水門、是則今の上総の地方天羽郡より本邦の地平郡の海をいふ也、古へ此地陸を離るゝ事数十歩にして海面に屏風の如く山峙其間を舟行せしとミゆ、かくありぬれハ涛波平にして湖水の如なれハ淡水門とハいひたるなるへし、後世いつとなく山崩海と等(ヒトシ)くなりぬれと、潮涸る時ハ礁石一道波涛を截せるにてしらる
一 延喜式を考に安房郡[大二坐此郡ノ条リニ詳 ナリ、今于茲不贅]朝夷郡[小四 坐]天神社・莫越山神社・下立松原神社・高家神社、按るに
 
 
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天神社ハ長狭郡加茂神社なるにや、然とも郡名異也、莫越山・下立松原其地分明ならす、又高家神社は安房郡に高家村あり、彼地、古、神社祠ありや未知、又、郡名も異也、猶又考ゆへし
一 安房郡大井、平郡の達良・穂田抔ハ和名抄載所の県名なり
一 東鑑に治承四年八月廿五(九)日の下に武衛相具實平、棹扁舟令著于安房国平北郡獵嶋、北條殿以下迎之云々、按に獵嶋、今、龍嶋に作る、方音近けれハなり、此言の如くなる時ハ頼朝着船の地ハ洲崎にてはなかりし也」同九月一日の下に、武衛可有渡御于上総介廣常許之由、被仰合云々」同三日の下に、自平北郡赴廣常居所、臨昏黒之間、止宿于路次民屋、当国住人長狭六郎常伴、襲御旅舘、三浦義澄遮之、常伴敗北云々、按るに平郡龍嶋ゟ長狭郡に赴順路ハ龍嶋・砂田・大録・芳濱・穂田、其ゟ樵蹊にかゝり鎗水・大久礼なといふ嶮しき山路を越、長狭郡小塚不動の山下に至る、大抵龍嶋ゟ不動の山下迄七里許ありと、又、瀧田通りといふ路あり、飯野坂にかゝり瀧田村を経て小塚に至る、是又、行程相似りと、再按に東鑑頼朝旅舘の
 
 
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地其名を闕、姑土人の語に拠るに頼朝真名鶴より土肥次郎實平とともに漁船に乗し平郡龍嶋に著と[按ニ此説東鑑ニ合、 信スルニ足レリ]其ゟ彼土を発し長狭郡東條にかゝり上総介廣常か舘へ赴せ給ふ、時に日すてに黄昏にせまり、ますまといふ所に至り民家を求て宿を乞、主其体を怪み拒む、然とも強て乞に任す、時に主の寝所に数席を重置り、實平一枚を乞、主のいへら、是ハ平時用る席に非す、賓莚またハ正月ならてハ不用といひて仮さす、公も實平もやむことを得す卒につぶねす、其ゟ彼孫なるもの今に至る迄席を敷事かなハす、独其孫のミにあらす一村凡てしかり、或ハ強て用る時ハ其家必災ありと、怪しきこと也、此言の如くなる時ハ公の旅舘ハますまなる事知るへし[按ニ龍嶋ヨリ飯野坂ニカヽリ山中ヲ経テマスマニ至ル行程五里許ト、マスマハ瀧田村ニ接ス、又、マ スマヨリ長狭不動ヘ二里、不動ヨリ東條ヘ三里余アリ、マスマ・瀧田トモニ平郡ノ地ナリ]同四日の下に、頼朝被遺和田太郎義盛於廣常之許云々、按土人のかた(り脱カ)しハ長狭郡前原浦と濱萩(荻)との界に川あり、此地に待崎といふ処あり、相伝頼朝此地に於て後軍を待せ給ふ、故に待崎の名ありと、側に白旗の神祠あり、又、社樹に、古、松一株有、是又、相伝て旗掛松といふと、再按に頼朝此の所に
 
 
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旗舘を設、義盛して廣常か舘へ遺せしと見ゆ、公廣常か報を待、故に待崎の名ありと見ゆ」同五日の下に頼朝有御参洲崎明神奉御願書云々、按に公始著船の地龍嶋にして洲崎に非る事知るへし」同六日の下に、及晩義盛参申云、談千葉介常胤之後可参上之由、廣常申之云々、按に義盛長狭郡に発し廣常か舘まて行程一日にして赴、再ひ長狭に帰り公の不在により直に洲崎に至り往来三日にして其舘あるを見に、上総夷灊郡夷南の地布施村益廣常か故墟なること証とすへし、今廣常かこと姑土人の口伝に存せるのミにして知人まれ也、然とも長狭の地より一日程にして上総に赴の地布施村ならて外に廣常か故墟といふへき地なし、上総布施村の条に載する所と照し見つへし、再按に東鑑に公義盛をして廣常か許に使とありて地名を洩しぬ、姑、今を以考に前に記せる天津濱荻に接せる待崎とあ(な)して見つへし、如何となれハ彼土ゟ布施村迄馬行十里に不充、一日程なること知へし、濱萩(荻)ゟ布施村まての順路左ニ載す濱萩(荻)・天津・内浦・小湊[以上本邦長狭 郡ノ地]・市ケ坂[房総ノ界ナリ、坂ヲ登レハ 上総ノ地夷灊郡ナリ]・䑓宿・上野・勾屋・山田・ゑひ山・もかみ坂・大樟・羽賀・舘山・
 
 
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小幡・布施、是也、又、海辺の道あれと山坂けわしくして却て廻り也、漁猟の場開けしより往還の道とハなりぬ、古の道にてハなき也、古の往来ハ前に記せし如く䑓宿・上野を順路とす、然とも羽賀・舘山の道多岐、村夫を倩ひ嚮導となすに非されハ迷ひやすし、直に大樟ゟ新戸といへる村里に赴を順とす
一 義経記に頼朝洲崎を立て坂東・坂西にかゝり、まのゝ舘を出小湊のわたりして那古の観音を伏拝ミ、雀嶋の明神に神楽まいらせ猟嶋に着と、按に此紀行地名倒置す、坂東ハ長狭の地池田・竹平に接す東條への順路也、又、坂西ハ坂東に対する時ハ長狭不動山を限り西の方平郡瀧田・犬懸辺をいふなるにや、まのゝ舘其地知へからさるも東鑑に拠に、安西三郎景益か舘へ頼朝至り給ふこと見ゆ[安西ハ安房 郡ニ隷ス]恐ハ景益か舘の建し地名なるへし、又小湊のわたりハ鏡浦を訛れる也、洲崎ゟ那古迄の海湾を鏡浦といふ、此渡り[海上三 里ニ近シ]して那古の観音へ至る、雀嶋・猟嶋ハ上総天羽郡へ赴の順路なり、義経記の如くハ越に行ものゝ轅を北にせるに等し
一 夜討曽我の舞に下総の国にハ安西・金鞠・丸・東條といへるハ本邦を訛れるなり
 
 
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一 義経記に安房国住人まちの太郎・あんないの太夫源氏に附と、按にまちハ別に記せる長狭郡小町村のことと見ゆ、又、あんないハ安西を誤れるにや、かくあれ者安西三郎景益かことなるへし、或いふ朝夷郡に安倍(アンハイ)といふ村あり、是なるにやと
一 東鑑に、頼朝長狭郡に至り給ふ時、安西三郎景益参上御旅亭、といふことミゆ、景益ハ創業功臣の先鞭といつへし
一 東鑑に、武衛巡見安房国丸御厨、丸五郎信俊為案内者、かくあれハ信俊・景益ハ数世彼国の強族と見へたり
一 里見記といへるもの数本ありと、彼土府中本織村に里見氏の墳寺あり、延命寺といふ禅院也、彼寺ニ里見氏興廃の始末其他戦国の比の古文書等あまた蔵すと、しかれとも猥に人をして窺見せしめすと、今、予かこゝに抄略せるものハ数本中の其一なるへし、文章拙して見るに不足も正しく彼土人の記せしものなれハ近く証とするに足れり、北条五代記なといふものに里見氏のことまゝ記せと、他国の人不案内にて書たるものなれハ年代地里姓名等の訛少なからす、観者詳なり
一 里見氏先ハ義家の三男義国より十二世刑部少輔
 
 
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  家基と云、嘉吉元年鎌(カマ)倉持氏男春王・安王結城に寓公たり、此時家基結城に加り戦死す、男義實相の三浦へ落、其ゟ房州白濱へ渡と、按に東鑑載、新田介源義重[法名上西 義国男]引籠上野国寺尾城、挟て(ママ)自立志、又云、上西孫子里見太郎義成、自京都参上、属源氏云々、此則源姓にして里見氏を称するの始也
一 嘉吉年間、神餘某か臣山下作左衛門定兼といふもの主君を殺し神餘の主となる、是よりして神餘を山下郷といふ、按土人の説に山下ハ安房郡の地、平郡瀧田に近しと
一 麻呂某・安西某、山下作左衛門か無道を悪ミ、ともに山下を討、彼地を二人して領す、其後安西再ひ麻呂を亡し山下の主となる、按るに麻呂某者ハ麻呂五郎信俊か余裔、又、安西某者ハ安西三郎景益か孫なり、ともに頼朝創業功臣の末なり
一 麻呂・神餘党、里見義実を将とし安西を攻んとて白濱を発し千䑓村に屯す、按に千臺村、今、千田に作る、朝夷郡のうち也、千田・平礒・川口と接す、六ヶ浦の内なり
一 義實安西を攻の日、千䑓村に至り、此時彼土の兵五十
 
 
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騎加る、是よりして彼地の橋を五十騎橋といふ、按に別載所の府中の千騎橋、朝夷郡の千騎原ともに頼朝のことなるを後人訛伝て義實かこととす、茲に記せる五十騎橋も亦然と、彼土人かたれり
一 義實兵を大田木に進む、正木大膳くたる、長亨三年のこと也、按に正木氏家譜大田木圓照寺といふ禅院にありと、考見つへし
一 義實長享三年に卒し、菩提院ハ白濵也、按に白濱村に義實三浦より渡海の始住し所ありと、彼土人語れり、菩提院寺号可考
一 二世義成、稲村に遷る、明応二年社家様[生實御所義 明公事持氏ノ裔]義成を将とし房総の兵を率ひ下総木ノ内氏を討、同三年万木・勝浦・東金・大田木、義成を将とし社家様御殿を上総の八幡に建[八省院公方ト称 スルコトコヽニモトツク]按に里見氏稲村の称あること、茲にもとつく、又、稲村ハ安房郡長須賀を去こと東南一里許を隔と、其地末考
一 三世義通、在城稲村、弟義堯をして宮本城を護せしむと、社家様とともに下総・武蔵・常陸所々の戦止時なし、永正十七年卒す、菩提院ハ瀧田、按に平郡二郡につゝける白坂・大根を過て宮本の古墟ありと、彼土
 
 
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人かたれり、菩提院可考
一 四世實堯、義成の二男、義通の弟也、始宮本の城主たり、其後上総久留里城へ遷る、永正中兄義通卒す、其ゟ稲村に遷る、大永中安房・上総・下総三ヶ国の兵を率ひ相州三浦を攻て戦勝、同六年鎌倉合戦に再勝、始永正十七年兄義通卒す、竹若とて七歳の男子を弟実堯に附す、竹若成人の後実堯房総をわたさす、依之竹若方実堯方とて国中二ツに別る、天文二年実堯稲村の軍敗れて自殺す、竹若立、是を義豊といふ里見家の内難これなり
一 五世義豊、竹若の事也、天文三年實堯の男義堯兵を起し戦ひ勝、義豊遂に久留里城に戦死す
一 六世義堯、天文三年義堯父の仇義豊を討て立、天文七年七月八幡御所と高野䑓にて北条父子と戦負、社家様滅亡[按ニ一説ニ天文 七年国府䑓戦敗 レ、同十五年丙午社家様滅亡、是ヨリ シテ上総ノ諸城多ク小田原ニ属セリ]天文二十一年上総椎津真里谷信政里見氏に反す、義堯討之、是より再上総の地手に属す、其後天正二年義卒す、菩提院ハ本織村延命寺なり
一 七世義弘、弘治二年義弘父子北条氏と三浦にて戦ひ、万木土岐氏・大田木正木氏勇を振ひ小田原方戦負、
 
 
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三浦四拾余郷を責とる、此時在城ハ上総の佐貫なり、又、永禄七年義弘国府䑓に戦、始ハ小田原方負、里見勢敵勢かえすへきとハ知す、姑休ミ居たる所に小田原勢取てかへし新手を入かへ不意を討、於此房州勢大に乱れ落行、正木大膳殿して敵五十騎討取、万木ハ備を固め不戦、是より下総取かえすことかなわす、剰万木も小田原に属する意あり、按に里見氏、北条氏と国府䑓戦二度有、始ハ天文七年戊戌八幡御所滅亡の年也、諸家の記には永禄七年の一事とするハ非也
一 八世義頼 在城ハ鬼本也、天正五年大田木正木大膳反す、此年小田原と相和し氏政の女義頼へ嫁、同六年義弘卒すと聞、正木大膳軍を起し濱萩沓ヶ崎の城代角田丹波を討て長狭の地へ攻入、鬼本勢来ると聞、軍を班す、按に鬼本其地未考、又、文亀三年の下に三浦の兵常に多々羅・正木浦を渡り攻、故に鬼本城を築と、かくあれハ鬼本ハ平郡の地と見ゆ、多々羅は舟形川名那古に接す、又、正木ハ那古ゟ東二三町も隔、此辺のことなるへし
一 九世義康、在城館山、天正十八年小田原城陥、同十九年上総にある所北条家の領太閤より里見に賜り、三浦の
 
 
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地替地となる、又、両国の大将となる、慶長三年国替とて上総を取あけらる、同五年源大君関ヶ原御一戦以後鹿嶋にて三万石を領す、按に太閤記文禄の役ニ名護屋在陣諸将のうちに安房侍従とあるハ義康の事也、又、元和の役に里見氏のこと所見なし、別に記せるもの有とミヘたり
一 十世忠義、元和元年大坂落城以後九月中旬故有て忠義伯州へ配流、正木大膳ことハ備前国へ御預ケとなる[按ニ忠義室ハ大久保 相州侯ノ女ナリ]此時家老杉倉・堀内・印東・荒川四人斬首、又、忠義安房国八幡へ大祖義實納し刀を守家の刀と引替納む、其夜社殿鳴動することおひたゝし、又、忠義江戸発足の日明星といふ馬故なくして死す、これ則亡国の兆なるへし、又、忠義室ハ代官町へかくる、上より百俵ツヽ賜る、其後四歳の女子を乳母に附(九脱カ)し鎌倉尼寺にかくる、忠義事ハ元和八年六月十九日二十歳にして伯州に於て卒す、按に里見氏国を除ハ也、亦北条五代記に載、里見義豊者上州之産也、房州に至り一国を平均し六世にして 台徳君の為に国除る、六世ハ義豊・義弘・義高・義頼・義康・忠義、是也、按北条五代記里見氏九世を六世とし、且義豊を以て
 
 
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始祖とするハ他邦の人伝聞の失、深考さるの弊なり、又、甲陽軍鑑に里見義弘か子義高とあり、是又、北条五代記と同しく義堯を訛て義高に作る、且義弘か子義高となす、是又、父子倒せる也、又戦国のこと記せしものに安房守義隆とあるも同しく義堯を訛れる也、又、北条五代記に載、天正五年里見義高小田原と和睦す、此時より始て他国を見ならい大国に臣服し安堵の国たりと、按天正五年義頼小田原と和義とゝのひ、氏政の女義頼へ嫁す、義堯と云るなと非也、年代たがえり、義堯一世ハ義弘と共に三浦の地を争ひ、且国府䑓の役あり
一 里見記の中に諸士の知行割のこと記せし処に、御一門の正木は里見、家中の正木は大田木といふこと見ゆ、按、同文安三年の下に里見始祖義實東條六郎を攻、正木大膳東條を援く、東條戦負、正木大膳大田木に帰ると、又、長亨三年の下に里見義実兵を大田木に進、正木大膳降ると則家中の正木をいふ也、又、一家の正木なるものハ永正十三年の下に長狭郡山の城主正木大膳道種死と、是又、一家の里見氏なるもの正木氏を冒せるなり、按に上総正木ことハ数世同名にして其名諸侯に
 
 
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聞ゆ、故に安房にても其器に当りたる者を撰ミ、正木氏を名のらせ軍を発する毎に正木氏先鋒たることを他国の人に知らしめん為也、又、弘治二年の下に正木大膳、里見義弘とともに三浦に渡海し四十余郷を掠、又、永禄七年義弘とともに国府䑓にて北条氏と対し、戦負て殿し、敵兵五十騎を討取と、又、天正六年義弘死と聞、濱荻の地を攻、角田丹後といへるものを討取、比時かへり忠のもの有て率(卒カ)に部下に殺さる、茲に至て大田木正木氏ハ終る、其後安房にて、里見義頼の二男正木弥九郎と云人に再正木氏を冒さす、此人舘山にて一万石を領す、是又、一家の正木の其一也、上総夷隅郡大田木の条に載所と照し可見[按ニ元和ノ役終リ、里見氏国除セラレ備前国ヘ御預 トナリシ、正木大膳ハ此人ノコトナルコト知ルヘシ]再按に甲陽軍鑑に十三将のうち正木大膳といふもの幼少にて馬を習に、片手綱にて騎ことを好と、按に茲に一家の正木大膳とあれハ安房の正木氏とミゆ、しかれとも大田木正木氏かことなるへし、如何となれハ大田木正木ことハ三浦・国府䑓の戦に其名を発す、故に甲陽軍鑑此事に及へり、安房の正木氏にてハあらさること知るへし[按ニ大田木正木大膳事里見記ニ顕ルコト文安三 年ヲ始トス、其ヨリ天正六年ニ至リ部下ニ殺サ ルヽ、相距ルコト百三十有余年ニ及ヘリ、此年間数世同名タルコト知ルヘシ、 天正六年以後ノ正木氏 ナルモノハ安房一家ノ正木氏ナルコト是亦知ルヘシ]
 
 
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一 里見記に載、義堯公御法躰につき、御家老中申上けるハ、古より大将の御法躰にいろ〳〵ありといへとも大方ハよろしからす、清盛・高時是也、其地(他カ)ハ大将威勢これなきにより法躰となるあり、いかゝ思召候哉と一同に申上けれハ義堯公聞たまひ、我義豊を討こと父の仇なれ
ハ是非なくして討しなり、然といへとも嫡子方を討事我大将となりしことよろこはしからさることゆへ法躰せり、されとも両国を他人に取れんこと不孝の第一なり、自今ハ義弘を大将とし各忠をはけみ給へと、御涙を流させ給ふと、これより義堯公ハ後見の為に御出陣あり、大将ハ義弘公と御定めなされけると
一 里見記に載、里見義弘家中に佐久間源四郎といふものあり、末期におよひ弟源左衛門といへるものに一子源五郎を属す、此者十五歳にもならハ御奉公勤さすへし、夫まてハ其方へ家をも預置事なりと云ひて死去す、其後源左衛門国府䑓戦敗れし時多賀蔵人と池和田城に籠り比類なき働し、又、三船山合戦にも軍功ありけれハ知行も一倍になりぬ、さて兄の遺言にまかせ、甥源五郎十五歳にもなりしかハ家督相渡しへき旨親類へも達しけれハ、源五郎申けるハかく
 
 
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家の繁盛になりゆきしも叔父数度軍功あるによれり、ふしきに命たすかり、今まてかく某を養育せられしことなれハ家督ハ不残実子にゆつりたまへといふ、源左衛門聞てなか〳〵合点せす、両方親類他人の意見をも不聞程になりしかハ此事殿へも聞へけれハ扨〳〵両方ともに見事なること共也、去なから源左衛門事兄の知行五一ハ元より定りたること、其上彼者一身の働にて取たる知行なれハ、加増の分ハ不残源左衛門所知すへきとのことゆへ其通申聞せけれハ、源左衛門云けるハ、我等事兄の代官にて取たる知行なれハ惣高にて五分一は申請へしと云、又、源五郎ことハ本領半分ならてハ請ましきとの事にて埒明さることなりしか、やう〳〵殿の仰の通に定りたりと、世に珍敷こと也と此頃の人評判せりと
(一脱カ) 義弘卒して義頼に至り知行割のこと記せし中に、上総長柄郡高根郷・一松郷本須賀等を載、かくとあれハ此地方ハ東金領にてハなかりしなり
一 里見家十世義實[室ハ眞里谷入道女、按城地不祥、疑クハ白濱ノ地ナルヘシ、白濱ハ始三浦ヨリ渡海ノ地ナレハナリ]・義成[室万木左近大夫女、稲村城]・義通[室上総介女、稲村城]・實堯[室正木大膳女、宮本城]・義豊[室闕、宮本城]・義堯[室万木少弼女、宮本城]・義弘[室小弓御所女、佐貫城]・義頼[室北条氏政女、又、正木大膳女、鬼本城]・義康[室織田信長姪、館山城]・忠義[室大久保相州侯女、館山城]按に里見九代記、自
 
 
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義實至于忠義所抜萃如右、後人訂有差者、補所漏者可謂幸甚矣
一 土気酒井家譜といへるものゝ中に文明中酒井の祖酒井小太郎定隆といふもの有、遠州の産にして数世将種たり、密に房州へ赴里見義豊に対し、上方関東弓矢の沙汰諸国の物語に及ふ、義豊甚意に叶ひ此人ならて藩屏に置へき人あらしと、二総の界中墅村に居らしめ敵地の通路を塞くと、按に此説義豊に作るものは義實を訛れる也、義豊となす時ハ年代大に異なり
一 亦云、永禄中武州岩付城主太田美濃守[三楽 齊コト]小田原勢にかこまれ籠城支かたくミへしかハ里見氏へ兵糧のこと頼れしに、里見氏やかて土気東金の兵を催し駄荷ともに一千余騎さしつかはす、小田原方江戸城主遠山左衛門其外加勢の人数市川を渡り散々に戦、始小田原方引色に見へけるか再ひ取て返し荒手を入替責しかハ里見方大に敗北す、此時酒井胤治馳来再ひ軍をもりかへし義弘・美濃守を相とのなひ椎津の城へうつし入る、其後里見家より下総のうち闕所の地太田氏へ賜ると、按に此戦ハ永禄七年国府䑓にてのことなるへし
一 又云、北條氏康国府䑓の戦に勝利を得池和田城を
 
 
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攻破る、此時氏康ゟ使者を以て胤治へ申越るゝハ、其元先祖と早雲事たかひに旧交をむすハるゝ事人皆知る所也、早く此方へ一味せられ候へと再三申越るゝに付、是非なく是より里見を(ヲ)背小田原方と成、按に此時万木へも間使来る、土岐氏是よりして小田原に属す
一 里見記に載、里見氏目見の儀式ハ、御一門ハ諸茶の礼とて大将と御目見衆と両方へ茶出る、家老・物頭ハ片茶の礼也、又、御盃の礼ハ御一門のうちに七度の礼、五度の礼とてわけあり、大老・城代三度の礼、中老・番頭には一度の礼、組頭の類は御盃下さるゝ計也、礼なきハ御さしなかし也、按里見氏の家俗といへとも義實白濱渡海以後に新に制せる礼にてもあらし、思ふに鎌倉北条氏、又ハ、室町家初年の古俗と見へたり、かゝることの彼土にのミ残れるも、素、質朴僻邑の民旧を守り、他国の交もなく、数百年来漢あるを知すと云余俗を伝しなるへし
一 里見九代記に拠に里見家の分限ハ、義堯・義弘へ譲る所の地安房・上総并下総半国、又、三浦にて四十余郷也、今ゟして考之るに安房の地九万石余、上総の地三十八万石に充す、下総ハ三十九万石余、これを半にする時ハ
 
 
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二十万石に不充、三浦ハ二万三千石の地たり、計るに七十万石に不充、彼土人の説に里見家領する所二百二十七石なり(万脱カ)と、何にもとつきいへることにや
一 里見氏の印ハ三面の大黒なりと、按に九世同印にてもあらし
一 里見氏盛なりし頃ハ永楽銭にて采地の割有しと、永楽一貫文には十石に充と
一 里見氏国除するの日、側室の男あり、此人の孫間部侯始越前鯖江へ封せらるゝの日寓公たりしか、今ハ三百石を領すと
一 本邦の人語りしハ里見氏盛なりし頃、彼地の神社仏院へ附する所地凡八十有余に及へりと
 
    平郡
一 平郡は鋸山を過て元名浦より海辺那古・川崎に至て極る、又、山中ハ瀧田・犬懸・平郡なといふ所を経て長狭郡に至る
一 鋸山[上総天 羽郡]を越ぬれハ安房の地平郡なり、是より元名・穂田・芳濱・大録・砂田[大録村 ニ属ス]龍島[此間ニ小川アリ、昔頼 朝着船ノ東鑑龍作猟、説別見ユ]・勝山・飯野坂[小川アリ、是ヨリ 府中ヘノ間道アリ]・市部・入うます・高崎町[入ウマス ニ属ス]・木の根坂[半ハ入ウマス、半ハ二部ニ属ス]・二部・深野・白坂・船方・川名・那古[是マテ上総百首ノ地 ヨリ行程七里ニ近シ]
一 木の根坂に至て険難、懸崖如削五丁開に似り、往来
 
 
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たやすからす、故に行人多ハ、なむや・甲羅の二道にかゝる
一 なむや道ハ入うます・甲羅・獅子口・なむや坂なといふ所を下り、坂下・小太郎・坂本・達良(タヽラ)、其より船方・川名・那古にいたる
一 甲羅道ハ海に傍道なり、入うます・甲羅・小濱・塩入・岡本・達良・船方・川名・那古に至る
一 本郡をへくりと唱しハ音を省るなり、里ハ余声なり、又、東鑑、平北郡に作れるも同し、又、地方に拠に本郡ハ北に当れハなり
一 本郡穂田山中に先年銀を掘たる坑とてあり、側の谷に銀をふくめる石屑、今に多しと、其地銀所々にありと、然とも牙苗柔しと
一 穂田・芳濱の漁家門戸に奇状の蟹殻をかく、土俗云悪鬼を避るましないなりと、其殻甚大にして蹙皺芒刺五雑俎、本草所載虎蟳、是なり、かかる俗ハ中華関中なとにも有こと也、沈存中筆談に見ゆ
一 穂田・芳濱辺の路傍に水仙多し、暖土なるゆへ花を著ること最早し、東武の花肆に出る処のもの是也
一 芳濱の海中に小島あり、土俗浮嶋といふ、島中に美竹(メタケ)を生す、𤄃節堅緻、村童きりて牧笛とす
 
 
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一 砂田と勝山との間に龍嶋といふあり、神明の森とて海辺にあり、いつれの神を祭れるにや、砂場に怪石そばたち甚佳景の地也、按に東鑑に治承年間頼朝土井の杉山より實平とともに扁舟に乗し、安房の国猟嶋に着とあるハ此地の事也、又、曽我物語、龍崎に作る、再按に義経記・源平盛衰記等にハ洲崎に着船すとあり、然とも東鑑に拠るに頼朝猟嶋著船の日八月二十九日のことなり、又、九月五日の下に云ふ頼朝有御参洲崎明神云々、かくあれば東鑑を以正とすへし
一 本郡達良の海中に大房(タイフサ)といふ山尖出す、海面に屏風を立たるかことくミゆ、島にてハなし、陸につゝけり、此山の鼻と洲の崎の山と相対す、山上に不動を祭れり、滝あり、絶頂より落
一 義経記に頼朝雀嶋の明神の御前にて御神楽まいらせ給ふと云ことミゆ、是則大房の側にある処の小島、今ハ僅に名のミ存せり、神祠抔建へき島にてハなし、春になりぬれハ小鳥群飛し石間に巣る、雀嶋の名蓋こゝにもとつく
一 義経記にさハらの十郎栗濱の浦ゟ三百余人龍嶋に来、源氏につくと[栗濱 未考]
 
 
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一 本郡船方村に船方の観音堂あり、山を背にし片廡に建たる堂也、怪厳堂上に望、至りてあやうし、前と左右は深谿也、相伝、古、飛驒の匠くさひ一まいにてかためしと、此地より那古洲崎の海眼下にミゆ
一 本郡那古の観音堂ハ南に面す、所謂坂東三十三所の其一、近ころ土木の功終りしとミゆ、いまた華構の(本ノママ)綿に及はす、寺領三百石、此地ゟ洲崎未申に当る
一 那古の海を鏡か浦といふ、海湾三里、西の方大房の山足と南の方洲嵜の山足かこひぬる形、円くして鏡の如なれハ也
一 那古の海中に二島有、一は鷹の嶋と云、弁財天の祠あり、此地奥羽等の賈船止宿の所也、宮城・大賀へ近し、一ハ奥の嶋といふ、仲嶋明神の小祠あり、何れの神を祭るにや、此島、見物・濱田へ近し
一 那古の海、古より海権なしと、大漁猟の地也
一 那古の人かたりしハ此辺の海を墅嶋か崎といふと、按に千載集顕輔か歌に、東路の野嶋か崎の浜風にわかひもゆいし妹かかほのミ面影に見ゆ、又、風雅集に、近江路や墅嶋の崎のはま風なとよめりかくあれハ近江にも同名ありとミゆ、猶又、考へし
 
 
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一 那古の海に桑の児(コ)といふ介(貝)あり、他月ハなし、独正月十四日の夜のミありと、此宵海人潮の涸を待て採ると、土俗相伝て此宵を介の嫁する夜といふ、其状蛤蜊に似て小也、殻に横文あり、或ハ青、或赤、又、斜に煙霞の状をなすあり、其味蛤蜊にまされりと、是恐本草載る所の文蛤なるへし、又、浪の児といふ介あり、彼土の名産也と
一 義経記に、頼朝小湊の渡りして那古の観音をふし拝ミ、雀嶋の明神にまいり、夫ゟ龍嶋に着と、按に小湊ハ東の方東條の地誕生寺と云日蓮派の前の海湾をいふ、那古ハ西の方本郡の地、相距ること十許里(十里許カ)、此記を書る人伝聞の誤なり、又、雀島・龍嶋ハ洲嵜より上総天羽郡に赴路なり
一 那古ゟ洲崎へ赴海辺の順路、那古[平郡 ナリ]・河崎[同郡此間ニ川アリ、湊川ト云、河原ハ同郡荒川ヨリナカル]・八幡[是ヨリ洲崎マテ安房郡也]・北條・長須賀・舘山[此間ニ川アリ、館山川ト云]・柏崎・宮城・大賀・香谷・見物・濱田・塩見・はさま・はんた・洲崎[那古ヨリ洲嵜 マテ行程三里]
一 本郡平郡村に天神の社有、神領五石、府中宝珠院三百石の内なりと、社僧のかたりしハ室町のころ細川氏大檀那となり、此地に菅神の社をきつく寺宝ハ細川の祈願書一軸あり、又、里見氏の白旗一竿、古仮面三
 
 
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筒ありと、細川ハ数世室町の執権たれハいつれか詳ならす
一 平群村天神の建し後の山、形勢雄偉、巨霊手を加るに似り、数峰剣頭の如く崇峻にして攀かたし、恨らくハ其名を聞洩せし、土人云峯岡牧につゝくと
一 本郡荒川辺の民、大農ハ牛二頭に馬一疋、小農ハ牛一頭なり、いかんとなれハ彼土ハ尽く山田なれハなり、日の夕に及ぬれハ山中所々犢牛を呼声喧し
一 荒川の流ハ北より南につゝき那古の海へ流る、又、荒川と小塚村との堺ゟ流るゝ水ハ東の方前原と磯村との間へ流て海に宗す
一 順和名抄に朝夷郡健田とあり、今、瀧田に作る、本郡に并す
一 本郡瀧田辺のひとハ上総鹿野山を北山と呼、地方よりハ北に当れハなり
一 瀧田山中を五月の始つかた通りし人のかたりしハ、彼土谿間岐流毎に香魚の苗二三寸許なるか流に従ひ浮泳す、童部集り石を塁、流を截し遊へるを見るに、曽て香魚に意あらす、真意をとへハ長せざれハとらずと、准南所謂季子不欲取魚也といふに等し、かゝる
 
 
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ことにて民情ハ知へきことなり
一 東鏡に載、安房国大工参上、屋宇立柱上棟と、按に、古、飛騨の匠なといへるに等しく、彼土よりも良匠を出せりとミゆ、予か本郡童部の諺に、ひたのたくみかたけ田のばんじよ、といふこといへり、彼土瀧田なとをいふにや
一 順和名抄に長狭郡壬生とあり、今、本郡に并す
一 本郡いりうますと高崎とのあたりに、古、貧修験あり、頼朝就起の日、道にして旗竿料に竹二箇を献す、公大に喜ひ、異日其報あらんことを約す、修験対云、貧道素地の望なく、幸に楊弓の矢勢のいたらん程の恩賜の地あらハ余年を終んと、公笑て、又、量して其土を授と、或云年後其孫なるもの数世将軍家へ竹二箇を献せしか、元禄のころにや主僧労煩をいとひ、それより例を闕と、此頃まてハ長囲節間相等き竹二箇ツヽ雙生すと、即酒間地名と寺名とを聞洩しぬ、重て考ゆへし
一 本郡峯岡牧の麓貝須村と云所に、峯岡山東照寺と云真言派の寺あり、山側に温湯あり、打撲或外症等に俗し(浴カ)て験ありと、然とも絶て硫黄の気を為さす
 
 
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と、又、同郡高崎の山中にも温泉沸出す、これハ硫黄の気ありと
 
    安房郡
一 安房郡ハ湊川を過、八幡・北條より陸は府中辺につゝき、それより海辺洲崎・川名・布良・川下にいたる
一 安西は本郡のうちなりと
一 金鞠は本郡のうちなりと
一 本郡八幡村に八幡神社あり、社領七十石[那古寺三百石 ノウチナリ]、社地広さ十町許、うるハしき松林也
一 八幡の社中に無銘の破鐘あり、其製古式、相伝鎌倉のころのものなりと
 
 
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一 本郡長須賀と館山との堺の川は、長須賀より十五六町東南に当り、南條の女せきといふ池沼より流る、其他ハ水田の余流なりと
一 館山より東南に館山城の古墟あり、山上に浅間の神社有、又、千畳舗なと云所存せり、今ハ尽耕地となりぬ、見者麦秀の感を発す、又、大手の門柱近き比迄残りしか、今ハさなくらといふ所の道の側に倒ると
一 本郡柏崎村に観音堂あり、土俗ほつけの観音と云
一 本郡濱田と塩見の堺に手斧ぎり明神といふあり、旧伝稲田姫を祭ると、道をへたてゝ左右に二社あり、上の祠・下の祠と云上の祠の側に大なる石窟あり、昔手斧きりの明神、使神をして霊区を求、使神此地の霊なる愛し窟に隠れて復命せす、主神大に怒、来り責れとも卒に窟を不出、故に主神止事を得す今の下祠を領すと
一 手斧きり明神の窟滝口明神の社中迄行程三里か間ぬけ通れりと、近ころ一修験あり、窟の広狭遠近を極め見んとて、犬をともなひ炬を持し窟中に入、三日を経て犬ハかへり修験ハ死てかへらすと、此説に拠ときは窟中迂遠し幾曲といふ事を
 
 
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しらす、あやしき事なり
一 手斧きり明神の社僧の説に、寺宝に長さ二間許木を窬て造れる船あり、何の木といふこと不詳、相伝水府中のものと思ふにかくいふことにてもあらじ、蝦夷より漂流せるものなるへし、如何となれハ蝦夷志といへるものゝ中に其舟楫小者刳木、如大古(本ママ)之といふ事ミゆ、かゝるもの成へし
一 同し説に手斧きり明神、始、窟をうかちし時の手斧、何れのころの社僧にや、洲崎明神の社僧となり、移転の日彼寺の什器とすと、今に彼土養老寺に伝ふ
一 那古の観音より南に当り海面へ出たる山は、ばんだはさまの山也、洲崎神社の建し山ハ那古ゟハミへす、ばんだの山の後なり、明神の建し山ハ西に面せり
一 洲崎神社ハ后神天比理の咩命を祭り、延喜式に見ゆ
一 洲崎の山ハ南に当れり、然とも山の鼻ハ斜ニ北にむかへり
一 洲崎神社の別当を吉祥院といふ、真言派なり、寺宝に頼朝、明神に通夜(ヤ)ありてよませたまふ歌の(欠字本ノママ)筆の草ありと
一 洲崎明神の社僧ハ養老寺といふ、真言派なり、相伝
 
 
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元正帝養老年間の開基なりと、今、寺領五石あり、甚だ衰たり
一 洲崎明神の社領、鎌倉のころにハ、まさき村といふ所まて十二村一千町寄附の地たりと、今ハ微に五石の神領を存す
一 洲崎神社の昔の神司ハ太郎坊といふと
一 洲崎神社ハ日蓮の深く崇敬せしと云ことにて、今に彼一派信すること他に異なり
一 洲崎神社の社僧養老寺の山足に石窟あり、窟中、役処士の一石像を置、精工不凡、後世のものにハあらす、側に涌泉ありて奔出す、独鈷水と名と、相伝処士の呪する所旱天にも涸れずと、按に続日本記文(ママ)武帝紀に役君小角流干伊豆嶋と云ことミゆ、此地大嶋を距てること海面十八里、思うに此地昔処士遊歴の地とミゆ、故に後人此所に石像を置とミゆ
一 洲崎と大房と相の三浦の山形、鼎足の如く相対す、舟行のもの呼て三ツか(本ノマヽ)以の瀬といふ
一 洲崎の長ハ渡部氏なり、今の里長迄二十二世里長たりと、珍らしきことなり
一 洲崎の里長の説に、頼朝土井の杉山ゟ洲嵜着船の
 
 
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地ハ洲崎の側の平嶋と云所なりと、此時佐々木一人隋従す、三浦か党ハ遥あとより来ると、按に此時頼朝同船せしハ土井実平なり、東鑑に見ゆ口伝と異れり
一 同し説に三浦か党同しく跡より着船す、洲崎は土井・真名鶴なとゝ対しぬれハ、火光の洩れんことをはゝかり、女良の地嶋崎といふ所にて炊飯し飢をたすけ頼朝を迎ふと
一 頼朝洲崎明神にてよませ給ふ歌に、源はおなし流そ石清水せきあけてたへ雲の上まて、此歌源平盛衰記にミゆ、然とも歌の意に拠る鏡浦の八幡にてよみ給ひしやう也[鏡浦八幡 別ニ見ユ]此盛衰記に彼洲崎の明神と申ハ八幡大菩薩を祝なりしと有も誤なり、延喜式見つへし[説別ニ 詳ナリ]
一 義経記に頼朝安房国洲崎といふ所に御船をはせあけ、其夜ハたきくちの大明神に御通宵ありて、夜を共にきせひをそ申されけるに明神一首をそ示し給ふ、源ハ同し流そ石清水たゝせきあけよ雲の上迄、兵衛佐殿三度拝し奉り、源は同し流そ石清水せきあけてたへ雲の上まてとあり、按に瀧口明神は
 
 
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[或小高明 神トモ云]安房郡瀧口村に建[瀧口七浦 ニ近シ]洲崎を距る事三里許、此説恐ハ非也
一 洲崎ゟ外浦の順路左に録
洲崎・川名・伊戸・ひつた・相ノ濱・女良(メラ)[洲崎ヨリ女郎マテ此 間三里、漁事ナシト云]根本・砂取・川下[以上安房 郡ナリ]・嶋崎・小戸・原・塩浦・白間津・千田[或作 仙臺]・平磯・川口・忽戸[コツトノ鼻ト云アリ、大凡洲嵜ヨリコツトマテ七八里バカリアリト]・平舘・千倉・瀬戸・松田・和田・ゑみ・天面・太夫崎[以上朝夷 郡ナリ]・浪太・磯村・前原・天津・濱荻・内浦・小湊[以上長狭 郡ナリ]
一 洲崎の人語りしハ洲崎と紀州の難地(那智)と相対すと、先年彼土の蜒人陸を離ること数十許里にして北風に放たる、陸を顧るに洲崎の山打綿のことくミゆ、又、南に当りて霞の如き高き山ミゆ、何れの地といふことしらす、時に浪華の賈舶進ミ近く、幸ひにして相ともに浦賀に至り郷に帰りぬ、此時賈舶の語りしハ霞のことくみへしハ紀州の難地、洲崎と海面相距ることやうやく百里に不充と、かくあれハ難地は遥に南海へ突出せる地とミへたり
一 洲崎ゟ伊豆へ水面十八里、大嶋へも同し、ともに洲崎よりハ未申に当る
 
 
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一 洲崎の漁夫の説に大嶋四郡に割と、南北五里東西三里許ありと、或いふ大嶋ハ牛のミありて絶て馬なしと、又、大嶋の側に小島二ツ見ゆ、一ハとしま、一ハ飯嶋と云、ともに大嶋に比するに大さ拳の如く見ゆ、然とも大嶋よりハ遥に大なりと
一 洲崎ゟ三浦へ七里、尉ケ嶋の列松抔ハ数ふへきか如く見ゆ
一 洲崎ゟ富士酉戌・伊豆箱根戌亥・大磯戌・石尊同・榎嶋亥子・鎌倉同・尉ケ嶋戌亥・三浦同・三崎同、其他土井・杉山・真名鶴・伊豆権現・熱海・網代・伊東・下田辺の地、快晴の日一望に尽く、地図左に載す
 
 
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   (絵図)
 
 
 
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一 洲﨑ゟ府中へ三里、府中ゟ長狭不動へ四里余、順路左に載、府中[安房郡]・瀧田・下瀧田・犬懸・下村・中村・平郡・荒川[平郡]・小塚・長狭不動[長狭郡]、此地山中といへとも民家次亡(本ノママ)し、行旅たへす
一 府中ハ地名にてハなし、安房の国府といふ事なり、順和名抄に安房国府在平郡と、然とも、今、本郡に隷す、又、府中を国中といへるも国府なれハ也
一 府中に宝珠院といふ真言派の大刹あり、里見氏の祈願所也、寺領三百石を附す、或いふ三百石の内五
 
 
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十石ハ末寺領となると
一 府中の河原に毎年三月廿一日より四月朔日迄十日の市あり、安房一州、古より市街を置す、故に諸州の商賈群衆し、遊手莵輩往来日夜梭の如しと
一 府中辺の民家さんこしゆといへる木を栽て梢頭を一様に刈、籬とす、又、麦田の堺に植て堵とす、此もの実赤色葉厚くして青榕樹(ユツリハ)に似り、四時青翠、枝をきりて挿ハ生活す、煖土にあらされハ栄えすと、上総なとにハ絶てなきもの也、漢名末考
一 府中元織村延命寺と云禅院あり、里見氏数世の墳寺也、寺領三百石、里見九世の記載古文書其他兵器等什宝となりてありと、又、九世の影像もありと、主僧に乞て見つへし
一 延命寺の山門に草書にて長谷山と書し額あり、月舟筆と、月舟ハ室町の代建仁寺僧也
一 府中の人の説に彼土近きあたりに千騎橋といふあり[地名ヲ 聞洩ス]相伝、古、頼朝の兵此所にて千騎になると、又朝夷郡のうちに朝夷素村といふ処に千騎原といふあり、説、前の千騎村に同じ、後人誤て里見氏開国のこととせるハ非なりと
 
 
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一 府中ゟ長狭郡大山寺へ行道に冨山と云所有、彼山へ登らんとすれハ犬懸ゟ左へ転す、冨山正面ゟ登れは甚峻し、よしひ村にかゝれハ五六町もまわりなれとも道峻しからす、冨山ハ彼土第一の高山にて那古・洲﨑・七浦等の海直下に見ゆ、又、冨山を下りて平郡村の天神へ行には伊豫か嶽を左にして行[按ニ平郡村ノ天神ノ後ニ峻シキ 山ミユ是則伊与ケ嶽ナルヘシ]此山も冨士山におとらぬ高山なり、山の形甚奇也、鹿野山よりも見ゆ、又、平郡村より長狭不動へ行に峯岡山をも通る、荒川通よりハ少しまわり也、冨山山上に観音の堂あり[予此日憊ルコト甚シ、直路ニ従ヒ長狭不動ニ至ル、恨クハ冨山ノ勝ヲ洩シヌルコ トヲ、姑嚮導ノ談ニモトツキ其一二ヲ茲ニ記ス、按ニ平郡村天神ヨリ望ニ峻シ キ山ミユ、是恐ハ伊豫ヶ 嶽ナルヘシ、猶又、可考]
一 府中延命寺ゟ長狭の地不動へハ北に面して行、また荒川辺ゟハ東南に折[行程 五里余]又、不動ゟ東條・濱荻へハ正東なり[行程 四里余]
一 府中ゟ長狭不動へ行道に荒川といふ石川あり、此川を前とし又ハ、背とし、或右、或左に転し、幾ともなく越て不動の麓長狭郡小塚村に至る
一 府中より瀧田通と云道あり、平郡瀧田を過て一部・飯野坂・勝山を越、夫より金谷を経て上総天羽郡天神山に至る
 
 
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一 平郡瀧田より一里許南本郡の地にゑひしきといふ村有、彼地の山中に古墳あり、相伝六代禅師の塚なりと、又、側の草間に古墳数多あり、是又、禅師従卒の塚なりと、土民中元に至りぬれハ塚上に香花を供すと、滝田村の僧のかたれり、按に平家物語を閲るに六代高雄におわしけるを、鎌倉殿、さる人の子なり、さるもの弟子なり、めし取て失ふへきよし武士に仰て関東へくたし、相模国たこひ川の端にて卒に切られにけりと[予先年鎌倉ニ遊ブノ日、多古江川ニ至ル、彼地ニ御最後川ト 云アリ、側ニ塚アリ、六代最後ノ地ナリト嚮導ノモノカタレリ]然とも六代高雄にて東士に獲られたるにはあらし、疑くハ鎌倉に寓居の日のことならん、如何となれハ六代頼朝の嫌猜漸萌せるを察し、ひそかに其難を避るかために従卒と供に安房の地に遁るの日、鎌倉の追兵尾するに及脱するに術なく卒に自殺せると見ゆ、此時鎌倉へ伝る処の首を多古江川の端に葬しなるべし、又、彼土にある処の塚ハ土民葬に委(本ノママ)する処の屍を収瘞(ヱイウツム)し地と見ゆ、首足処を異にせるなれハかく二所あるにて有へし、又、鎌倉志を考に多古江川の条下に載、平家異本平家保暦間記等にハ六代斬られぬる地諸説異なれとも此所に塚あれハ正と
 
 
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すへしと、右二書可重考[再按ニ東鑑源平盛衰記 等ノ書六代終ノコト無所見]
一 本郡に国分寺村といふ有、北條より東の方一里はかりも隔といふ、此地に国分寺建りと
一 瀧口明神ハ本郡瀧口村に建、或小高明神とも云、社領七石、神宝に天国の刀一口ありと、七浦の内砂取・川下抔いふ所凡そ八百石の地、産土の神とし崇敬すと
一 白濵浦に数世同名木曽右衛門といふ人あり、相伝木曽義仲の孫なりと
 
   朝夷郡(印)
一 朝夷郡ハ七浦のうち嶋崎を登辺より白児・松田・和田・恵美・太夫崎、陸は竹原などいふ辺をいふ也
一 朝夷郡の夷の字をいなととなへしハひなり、田舎の人後世誤てな字を加るものハ非也
一 東鑑に麻呂御厨といふことミゆ、麻呂ハ本郡にあり、上世方物を奉りし官厨也、延喜式(シキ)に東鰒魚とあるも此地の産をいふ也
一 麻呂ハ本郡のうち横田・瀬戸・白子辺をいふと、順和名抄に載所の県名なり
 
 
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一 麻呂の地石井村に石堂寺といふ名刹あり、寺領百五十石、上総夷隅郡萩原村行元寺の末寺也
一 七浦と称せし地ハ、川下・岩目[嶋嵜ト一浦 ナルヘシ]小戸・原・塩浦・乙濱・白間津、是也
一 六ケ浦といへる地ハ、千田・平磯・川口・忽戸・平舘・千倉、是なり
一 七浦うちの塩浦ハ和名抄に載所安房郡の県名なり、今、本郡に并す
一 七浦に岩目といふ所有、小戸浦に接すと、彼土漁人の語りしハ陸を離るゝこと十許里ありて巽に当り遥に一島ミゆ、豆州に附する所の諸島にてもなし、疑ハ八丈嶋ならんと
一 白濵ハ本郡の地、順和名抄に載所の県名也、瀧口村に近しと、又、土人の説に古ハ凡て七浦を白濵と云と、さもありぬへし、又、七浦の内に横須賀・大木・下沢・名倉なといへる小浦ありと
一 新湊ハ七浦のうち乙濱辺にありと
一 七浦辺の俗に小児三歳の髪置のいわひあり、上総周准郡人見辺の僧(俗カ)に同し
一 七浦に接せる古津渡・千倉といふ濱あり、此地石花菜
 
 
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を産す、奥地の海賈多く載去る、里正厳制ありて定日の外猥にとらしめすと
一 本郡和田・白児なとに接し、安東村あり、安房郡の安西に対せし名なるへし
一 和田・白児の海ハ大夫崎より三里余の湾なり
一 和田・白児の海ゟ那古の海の辺まて陸路二里許もありと、和田・白児の海ハ三里余陸へ入込たれハなり
一 本郡大夫崎といふ所あり、義経ひよ鳥越に駕する所大夫黒といへる馬ハ此地の産なりと、太夫崎の上は官牧峯岡につゝけり
一 本郡に竹原といふ所あり、山王の神祠あり、大なる森なり、毎年重九に競馬の祭礼有、里見氏開国以前の古俗なりと
一 東鑑、治承四年九月十一日下に、武衛巡見安房国丸御厨、当所者豫洲禅門平東夷之昔最初朝恩也、左典厩令清(請カ)延尉禅門御譲給時、又最初之地也而為被祈申武衛御昇進事以御敷地、而今懐旧之餘更催数行哀涙、按に本郡相の浜より四町許陸に大神宮村といふあり、此地に伊勢大廟鎮座まします、此地のことなりと
 
 
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一 大神宮勢大廟の宮料瀧口村にて十二石の御朱印ありしか、其地今烏有となると、然とも彼村より毎年米八籏つゝ神具料を出す
 
   長狭郡(印)
一 長狭郡ハ平塚・小塚・大山不動より東につゝき濱荻・磯村・浪太、それより東の方小湊に至て極る
一 本郡小塚村より上総鹿野山へ行路に木の根と云絶頂あり、是則房総の界也、夫より下りて上総の地天羽郡関村と云所に至る[行程 二里]、関村ハ本邦ゟ上総の地天神山への路也、関村駅あり、是より鹿野山迄二里
一 小塚ゟ大くれ・やり水なといふ所を経、平郡・穂田・芳濱への小径あり、岐路多くして迷ひやすし、大抵三里余
 
 
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ありと
一 本郡の地よりさゝ通といひて上総天羽郡に出る樵路あり、又、同国望陀郡亀山領なとへ近きことなりと
一 長狭不動ハ高蔵山大山寺と号す、堂ハ東に面せり、殿宇鉅麗、聖武帝神亀元年の開基、良弁僧正の彫刻にして相の大山寺の不動と同木同作なりと
一 不動の祭ハ七月七日也、ふりうといひて村々の組合ありて、二十七番とわかち、何れも越後獅子を蒙り舞と、ふりうハ風流と書と
一 不動の祭に角力市といひて、九月廿八日東西を別ち、勝負を決す、里見氏以前の俗なりと
一 不動の石階を下れハ左の方に酒肆あり、側に井有、上に土俗呼て加々木と称するもの有、其木滑にして皮なし、紫微花に似り、中心白色、実大サ豆の如く、熟する時ハ紫黒、葉ハこならに似たり、又、四季毎に花さくと、恨しくハ花聞洩せり、猶又、考ゆへし
一 不動の石階の側に滝あり、石刻の竜首水を吐、前に樟、樹の大さ十四抱なるあり
一 大山寺ゟ濱荻への道ハ東へ向て行也、順路左ニ載、
  大山寺・奈良井・狭野・釜沼・奈良井・原・安国寺・
 
 
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松王子・きつほ・花輪・面上・小町・池田・坂東・竹平・打黒(墨)・大日・やらい・花房・浦脇・上人塚・東條・濱荻 [行程 四里余]
一 大山寺ゟ濱荻の道に大日村といふ所有、彼地に大日堂あり、別当を本乗寺といふ、真言派也、土人かたりしハ堂の建し地ハ打黒(墨)、寺はやらいの地なりと
一 大山寺ゟ濱荻へ下る道に[地名 失ス]流を前にせる処に、大刹の禅苑有、布川山長安寺といふ、寺領二百五十石を附す
一 東條ハ本郡花房辺ゟ濱荻・小湊迄の地をいふ也
一 東條・花房辺の民家に数世真言派たるものあり、日蓮の書きしもの数多蔵せしを、上総夷隅郡奥津浦妙覚寺といふ日蓮派の僧、乞て寺宝とす、近頃のことなり
一 花房村に経恩(忍)寺といふ日蓮派の寺あり、寺領三十石、文永中日蓮の弟子経忍坊といふ僧、東條の主左衛門景信といふものゝ郎従にうたれし地也、日蓮の事記せしものに詳なり
一 経恩(忍)寺の末寺桂松寺といふ寺あり、是又、文永中景信日蓮にせまりし時、日蓮傍の松に袈裟かけし
 
 
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を後人名つけて袈裟かけ松と呼しを、近比彼木をきり、日蓮の像をつくり堂中に安す、寺となりしハ実に享保中のこと也、始ハ四壁の草堂也
一 本郡千光山清澄寺ハ寺領二百石附す、神武帝の時天冨尊を崇し霊場と、彼寺の縁起に見ゆ、古語拾遺を考に、天冨尊至阿波国殖麻榖、又分阿波齋部往東土殖麻榖、阿波忌部所居便名安房郡、天冨尊則於其地立太玉尊社、今安房社是也と、かくあれハ天冨尊を祭れるにてハなく、天冨尊ハ安房郡の地に太玉尊を祭れる也、旧事記に載る処も、又、しかり、按に旧事記・古語拾遺所説ともに安房郡とあり、然とも、今、清澄山の地長狭郡にして安房郡にあらす、是又、いふかしき、再按に、古書所載自今見る時ハあやし、然とも、古ハ安房の地未た一国に不立以前ハ上総に隷せるなれハ、上代に普く安房一州を指て、安房郡といひしとミゆ、安房ハ日本紀に拠に、安房淡水門ゟ出タる名なれハかく書しとミゆ、又、延喜式にも、安房郡安房坐神社とあるも古書に本つきてのことなり
一 清澄山の縁起を見るに、光仁帝宝亀三年草創と
 
 
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あり、思ふに此ころよりして虚空蔵菩薩を安すと見へたり
一 清澄山の寺宝数多、今、姑一二を挙
  涅槃像[昆首鞨 磨作]・法花経一巻頌[管丞 相筆]・四会曼荼羅[唐筆]・不動画[明澤 筆]・法華経八軸[紺紙金泥 書日蓮筆]、其他古画古像こゝに略す
一 清澄山の堂ハ上総夷隅地、寺ハ本郡の地也と、華表の建し所より堂まて一里あり
一 清澄山地、西北の方ハ上総望陀・夷隅の地也、又、縁起に房総二州の鎮守とあれと、今は却て安房にうばゝる
一 清澄山の領せる地山中三里四方ありと
一 清澄山の祭ハ九月十三日也、房総の二州東西を別ち角力を争、其地の観場山中にあまねし
一 清澄山の人語りしハ、享保年間彼土の民、野に樵して帰る路に卦土あり、塚状をなす、崇三尺計、此辺を過る毎に馬鳴跼して前ます、其人怪、卦中を啓く、石函一箇あり、中に骸骨を置、傍に鏽刀一口あり、腐蝕して質なし、又、奇状の陶器一箇あり、其質灰黒にして色沢なく、極て麁厚く底円くして座せす、
 
 
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物に寄る時は坐す、後世の製作薬物を塗滑澤なるか如ならす、水を容ること一升六合、半八合なる時は正し、満る時ハ覆す、減する時ハ傾く、何人の遺器といふことしらす、是恐、魯桓公廟中に在所、古に所謂宥坐の器なといへるものを模作せるにやと、其図左に載
     高一尺一分余
  (図)口径三寸二分
     腹圍一尺八寸二分余
按に、上総夷隅郡日在村の地城山と言所の山足より出たる陶器なりとて、彼土の民家にて見たりしに、質觕にして底円く、水を盛ること一升三合、減すれハ正し、しからざれハ或ハ傾或ハ倒る、又、近時同郡守屋浦の漁家石窟を発く、其内骸骨十二を存す、側ニ陶器二箇を置、是亦、日在村の民家にある所と等し、按に、古霊状(牀)の傍に設し器と見ゆ、蔬果(或ハ脱カ)霊飯杯を盛たるものなるべし、今も、勢州にてハかゝるものを葬具に備と、又、底を円くせるものハ、凶器なれハ常用の器と異にせるとミゆ、前にいへる如き宥坐の器なといふへきものにハあらし、其図左に具
 
 
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    長六寸五分
 (図)口径四寸六分
    腹圍二尺
一 清澄山中に風蘭を産す、腐木の枝間に寄生す、好事小竹籃に盛て机上の翫に備ふ、屢水をそゝけハよく活す、土人いふ花黄白の二色ありと、按に陳扶揺か、花鏡に、風蘭懸根而生、本小而葉最短、勁有類瓦松、不用砂土種植、惟取小竹藍、懸於有露無日所、毎日洒水夏初開小白花、将萎時其色転黄而香、頗類乎蘭、亦一小景中之奇者云々、按に此のもの花黄白の二品あるに非す、始、白花を開、差衰る時は黄色に変せる也[按ニ上総山辺郡餅木村 ノ山中ニモ往々此物ヲ産ス]
一 清澄山ゟ上総夷北の地大田喜まて行程六里、順路は清澄山・横瀬・大田臺・紙鋪・板屋・西部田・大田木、此間清礫の小流織かことく、幾曲といふことしらす、土俗呼て四十八瀬といふ[按ニ此地ノ山中処々 多著蕷香魚ヲ産ス]
一 本郡天津浦ハ漁猟の壇場、蜓戸鱗次す、相の小田原といへとも及ハす、下総釣子浦漁場其右に出るの地なしといへとも、彼土ハ専海鰛を漁するの所、厨膳の鮮物ハ天津浦の饒なるにハしかし、夏月浜行のもの
 
 
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鼻を掩て過、しかれとも魚肆絶てなし、淮南所謂、湖上不鬻魚、是なり
一 天津辺の地、担魚児なし、女の業に、諸魚或ハ海藻なと籃に盛て頭にいたゝき、山中をめぐり米穀と交易す、男ハ盡く釣徒なれハなり
一 天津の海、淡(本ノママ)菜を産す、延喜式載所の貽貝(イカイ)是なり、此物肉中有毛、初生の栗毬のことし、本草形状不典といへるに合す、上総の海なと此のものあるやしらす
一 東條人語りしハ、天津辺に斎宮の跡、今に残れりと
一 天津の地に古ゟ獅子舞の徒有、所由ありて他の徒を入るゝことを禁すと、思ふに、是則大神宮村に祭る所の勢大廟の神に事、祀を司し、巫祝の祀典廃して後、衰し人の孫なるべし
一 本郡小湊浦に高光山誕生寺といふ日蓮派の大刹あり、寺領七十石、日蓮誕生の地也、寺の側に誕生水と云あり、又、日蓮のこと記せしものに、日蓮父ハ遠江国の主貫名重忠といふ冠族也、母ハ清原氏、此地に配せらるゝの後、(後脱カ)堀川帝貞応元年に日蓮生る、名は薬王丸、十二才にして清澄山道善坊の弟子となると、按に、今、誕生寺の建し地ハ流人重忠か居宅の地なるべし
 
 
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一 小湊浦より東武まて海路二十八里、此間舟行難渋なしと
一 順和名抄を考に、加茂ハ本郡の縣名也、加茂神社彼
  土にあり
一 享保年間、台命ありて、本郡加茂の社中へ龍眼果樹を栽しむ、此物南方炎熱の地産、安房ハ暖土なれハ也、其頃培養の役夫常に其樹を護すと、今、栄枯しらす
一 本郡浪太浦の海中に一島有、陸を距ること三町許、島主を仁右衛門と云、数世島主たりと、島の側にあしか島とて有、此島を限、島主の領せる海なりと、里見氏の頃より領せしなるへし
一 浪太村に上総万木の城主土岐氏の裔、今に在、土岐吉郎右衛門と云人なり、数世同名なり
一 浪太村の漁家、戸々屋上にいわれんけといふもの、葺たることく自然に生す、此もの状景天草の初生に似り、葉厚くして長寸に不充、数葉相囲畳かことし、又、微に松実の形に近し、按、近代物産の書、引草木譜云、石蓮菜蓮(葉カ)似蓮花、粘著石上、三四月擢穂、開小白花と、則此ものなること知べし
一 浪太浦ゟ平舘浦まて行程五里ありと
 
 
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一 同浦の山中に古墳あり、上に合抱の松一株有、いづれのころにや彼土の匠松樹を伐て薪とせんとす、鋸開半ならさるに忽絶死すと、近ころ山頽、石槨を顕す、村民啓見んとせしを里正制しとゝむと、冥漠君の古塚知る人なきも、大裏屋敷の條と照らし見つべし、大裏屋敷、浪太浦・前原浦を去ること近し
一 前原浦より二十町許隔て、大山寺へ行道の側に大裏村といふ所有、彼土に大塚あり、大裏塚といふ、山上に、古、神祠あり、土俗聖権現と称す、此辺往来のもの、神の咎め給ふと言て、彼土を過る時ハ馬よりおるゝと、又、近頃彼土の里正領主の穀倉を此所に建しか、一夜故なふして頽る、古より大裏屋敷とのみ言て事実を知る人なしと、地名もいふかしく且聖権現の名も、又、あやし、按に上総望陀郡の條下載る所同郡にして、大友皇子官軍に襲れ自殺し給ひし時、幸する処の官婦余孫を襁負し、密に此地にかくれ給ふ(へ)るを、土人いつとなく王孫なる事を知て、大裏屋敷と称せしか地名をなせるにてありぬへし、また此辺の流れを加茂川といふ、わけあるへきことなり
 
 
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一 前原浦待崎と云処に飛梅山福生院といへる真言派(流)の寺あり、境内に、古、梅一株あり、毎枝下に向て垂る、他梅と異なりと、相伝頼朝此地に赴せ給ふの日、路にて梅枝を折て杖とす、験に将来を生枯に託し此所に挿む、不日にして此(杖脱カ)枝葉を発すと、按に、上総夷隅郡布施村の條下に載所の二本杉、これ又、公飯後に挿所の箸なりと、彼土人のいへるに等し、かゝる事にてもあらし、再按に、陳扶揺花鏡載照水梅云、花開朶々向下香濃、亦梅中奇品と、恐ハ此物なるべし
一 里見記に載濱荻葛崎の城代角田丹後とあり、又、一本葛作沓、按に沓崎似有本拠、如何となれハ此所大裏屋敷を去事近し、古、王孫逍遥の地なるべし、前に載所の大裏屋敷の條と照し見つへし
一 本郡磯村浦の海中に、陸を去る事少し許有て小島有、上に天女祠あり、弥生のうちなと村童潮の涸るをまちて海苔、又ハ、鰒魚(アワビ)とこふし等をうかちとる、甚佳景の地也
一 本郡に川代といふ所有、毎年上巳に市ありと
一 本郡に壌を接せる上総の郡ハ、夷隅・望陀・天羽の
 
 
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三郡なり、天羽の地、平郡にも接す
一 本郡峯岡山ハ官牧の地也、東ハ磯村・太夫崎に起り、西ハ平塚辺の山まて、東西三里余南北壱里許
ありと、又、峯岡のうちに野尻・あしや木なといふ牧の名ありと、又、西南の方ハ朝夷郡の地也と
一 峯岡の牧に白牛を産す、白牛ハ目出度もの也といへり、毎年江戸の官府へ引て乳汁をとり、白牛酪を製し上の養薬に備ふと
一 峯岡の牧馬ハ鬣間短くして蹄堅し、如何となれハ、石土に産し仰て嶮難の草を噛す、故にしかり、其地平原の産ハ俯て砂場の結縷を噛す、故に鬣間長しと
一 峯岡の馬をゑらめる日ハ春分を節とす、彼地は海辺ゆへ暖気充塞せること他土ゟ早けれハ、百草芽を発し、料草繁くして馬肥、或春分を過れハ、気力盛にして馭しかたしと、下総桜野ハ北土ゆへ八九月比を節とすと
一 峯岡辺にてハ牧師を上上様と呼、かたくななることと人の笑へと、山民淳朴の情見つへし
一 峯岡の牧馬ハ冬月に至りぬれハ葛の枯葉を食と
 
 
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す、牧場冬月の料なき地は牧師の甚た患る所と
 
 
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                 第一一〇三八号
                 昭和二七.八.一四