真間紀行

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天保十年光徳しるす(※註1)
  真間(記)紀行
 
註1 光徳しるす=著者光徳は不詳。
 
 
 
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真間(※註1)紀行
笹分ハ袖こそやれめ(※註2)なと聞こへし利根川(※註3)の石ふみ
見むと、兼てより友垣の心へたてぬ陽上の昌盈・
松岡の奉矩(※註4)なといさなひ、葉月朔日(※註5)卯の皷打ころ(※註6)
宿りを立出、秋の夜の猶明やらて九段なといふ坂(※註7)の辺ハ
またしのゝめの道たと〳〵しき(※註8)に雰さへこめて、むね〳〵
しき(※註9)瓦家ともゝいとほのか也、浅草のミくら(※註10)の前より
駒形堂(※註11)を右にミなして川つらに出れは、よふ〳〵
ほのかに朝日さしのほりぬ、けふハ蝕(※註12)なりといへとそらハ
殊に晴渡りて心に懸る雲へ見へす、浅草橋を渡り
押上を行程(※註13)、日の立常のことにかゝやけは、はや蝕も終ぬと
 
註1 真間
 現在の市川市の中央西部真間・市川の一帯は古くは「真間の磯部」(「万葉集」巻十四)といわれていたように、かっては東京湾が深く湾入していて、江戸川(往時は太日川といった)左岸河口の入江(海浜)であったと考えられる。この入江には真間川(現在は江戸川の支流)が注ぎ、また当地に北に続く国府台の台地上には古代下総国府が、その東の国分台には下総国分寺・同尼寺が置かれていた。
 水陸交通の結節点として重きをなした当地は真間手児奈の伝承や歌名所真間継橋の所在地として古くから都人にも知られていた。
 また空海開基を伝える古刹真間山弘法寺は十三世紀末には日蓮宗に改宗、やがて同宗の有力寺院に発展、十五世紀になるとその門前には真間宿とよばれるような町場も形成されるようになっていた。
                          ―『千葉県の地名』―
註2 笹分ハ袖こそやれめ=笹を分けて行けば袖が破れる
 「篠分けば袖こそ破れめ利根川の石は踏むともいざ川原よりいざ川原より」(『神楽歌』篠の末歌)
註3 利根川
 江戸川のことで、利根川の派川。現在の流路は関宿の北で利根川から分流し、千葉県と埼玉県および東京都との境を南下して東京湾に流入する。近世にはほぼ下総国と武蔵国の境で、流頭は権現堂川と逆川に分かれて利根川に接していた。寛永(1624~44)末年頃、渡良瀬川と合流した利根川の本流は当川筋を流下したので利根川と呼ばれたが、赤堀川の拡削により利根川本流が東に移ったため、のちに江戸川とよばれるようになった。
註4 陽上の昌盈・松岡の奉矩=同行者の人名と思われるが不詳。
註5 葉月朔日=陰暦八月一日
註6 卯の皷打つころ=卯(明け六つ、午前六時頃)を報せる江戸城の太鼓。
 「江戸城では昼夜十二刻を打ったが、これがすべての標準時になっていた。太鼓を打つ役はお城坊主である。(中略)登城その他、公辺の時間は、すべて此の太鼓に依らなければならない。明け六ツの太鼓が鳴ると、見附々々の門を開け、暮六ツの太鼓が鳴ると、見附々々の門を閉めることになっていた」(岸井良衛編『岡本綺堂 江戸に就ての話』)。
註7 九段なといふ坂
 九段坂は靖国神社から地下鉄九段下駅に下る坂。はじめ飯田坂といった。
「九段阪(註、=坂)は、富士見町の通りより、飯田町に下る長阪をいふ。むかし御用屋敷の長屋九段に立し故、之を九段長屋といひしより此坂を九段阪といひしなり。
今は斜めに平らなる阪となれるも、もとは石を以て横に階を成すこと九層にして、且つ急嶮なりし故に、車馬は通すことなかりし」(「新撰東京名所図会」)。
註8 たど〳〵しき=ぼんやりしている、はっきりしない
註9 むね〳〵しき=しっかりしている
註10 浅草のミくら
 江戸幕府の米蔵。隅田川右岸を埋立て、約3万6千坪の敷地を築造し、51棟(後に67棟まで増築)の蔵が建てられた。各地の幕府直轄領から送られてくる年貢米はここで陸揚げして収納され、また幕臣団の俸給である禄米もここで支給された。
註11 駒形堂
 隅田川に架かる駒形橋西詰北側にある堂。天慶5(943)年、安房守平公雅が浅草観音堂を造営する際、円仁作の馬頭観音を祀るための堂として建てたという。
註12 蝕
 江戸時代の1839年(註、天保10年)には、金環食が発生した。幕府の役人は従来の中国式の予測時刻と伝来したばかりの西洋式の金環食の予測時刻、2種類の計算を行い、築地の海岸で観測を行った。西洋の方法での予測が的中し、見える位置、時刻ともに正確であった。以降、西洋の天文学が日本で急速に広まっていった。
                        ―「ウキペディア」―
註13 浅草橋を渡り押上を行程
 「浅草のミくらの前より駒形堂を右にミなして川つらに出れば」、つまり隅田川右岸を川に沿って上流方向に向かい、「浅草橋を渡り押上を行程」とある。神田川を渡る浅草橋では逆方向となる。この浅草橋は吾妻橋と思われる。
 吾妻橋は江戸時代の正式名称は「大川橋」(『御府内備考』)で、東橋・吾妻橋は俗称。「塵塚談」(文化十一年・1814・小川顕道著)には「浅草大橋(俗に云う吾妻橋)」とある。ここでは吾妻橋の古称「浅草大橋」を略して「浅草橋」としたと思われる。

 
 
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しらる、柳嶋の妙見堂(※註1)なとゆくてに拝みて、吾妻の森(※註2)
のこなたなる小橋を渡りて、はるく(※註3)の堤に出、右も左りも
打開たる畑道の露分行も身にしむこゝちす、行々て
広き川有、こハ中川(※註4)の水上とそ、小村井(※註5)なといふわたり、
すへて松とも岸辺に茂りて、世捨人共のわさとかまへたる
園生(※註6)のさま也、此所を平井の渡り(※註7)といふ、里人の船まち
つけて、かなたこなたに行かふさまも賑ハし、川よりあなたに
燈明寺(※註8)といへる歓喜天(※註9)の祠有、願事いちしるき御神とて
江府(※註10)よりも日毎に詣くる人こゝら(※註11)有とか、けに宮ゐもいつくし(※註12)
華表(※註13)も数多ミゆめり、此渡しにて乗合し翁の
市川(※註14)の辺にかへると言はくはよきしるへそ、かの利根川の
 
辺まてともなへかしといへはうけかひ(※註15)頷く、さらは道の
案内申さんと先立行もたのもし、角田川(※註16)ならねは
ことゝふ鳥もなきをいとうれしとて人々よろこふ、やかて
田つらに出れハ千町の稲ハかりしほ(※註17)に立付わたり、
朝露おもけにミたれ合たる、豊とし(※註18)のけはひいとしるし、
畔道を分行程かゝる所ハ心おくへき人もあらねは
かたみにまさなことのゝしりつゝ(※註19)、はるけき道のうさもなく
小岩村といふ所に至れは、あなひの翁か家もまちかく
と言、さらはとて道しるへの労をあつくねきらひわかれ
を告るに、猶行先をもつはらにおしえて立さりぬ、
こゝより左りへ折てゆく道いとはるかなるこゝちす、此村ハ
家ゐもしけく酒餅ゐくたものなとうる家とも多し、
 
註1 柳島の妙見堂
 柳島村にある法性寺の妙見堂。本尊妙見菩薩は霊験があるとして参詣する人が多かった。
註2 吾妻の森
 亀戸村にある吾妻権現社の森。雀の森(深川黒船社稲荷の森、数知れないほどの雀がいた)などとともに神社の森として知られていた。
註3 はるく(晴く・霽く)=晴れる。開く。
註4 中川
 「隅田川と利根川(註、現在の江戸川)の間に夾りて流るゝ故に中川の号ありといへり、荒川の分流熊谷の辺よりはしめて遠く埼玉と足立との両郡の合(あいだ)を流れ、利根川の分流も川俣よりはしまり、二水猿の俣の辺にて合し、飯塚・大谷・亀有・新宿等の地に添て青戸・奥戸・平井・木下川及ひ小村井・逆井を経て海に入」(『江戸名所図会』)
註5 小村井(おむらい)
 武蔵国葛飾郡小村井村、現東京都墨田区文花・京島・東墨田・立花の辺り。
註6 園生(そのう)=木を植える庭
註7 平井の渡り
 中川右岸の葛西川村と左岸の下平井村を結ぶ渡船(平井渡)があった。同渡は行徳と浅草を結ぶ道(通称行徳道)が中川を渡る渡しで、正保期(1644~48)にはあったという。明治三十二(1899)年に平井橋が架橋されその役割を終えた。
註8 燈明寺
 下平井村にある。平安時代の創建とされ、開山元暁が歓喜天の霊夢を感じて一宇を建立したと伝える。平井聖天と通称され、境内に聖天堂がある。また、鷹狩に訪れた将軍吉宗の機縁を得て享保十二年に御膳所となり、以後代々の将軍も立ち寄った。境内の聖天堂は妻沼聖天(現埼玉県妻沼町)、待乳山聖天(現台東区)と合わせて関東三聖天のひとつとして知られる。
註9 歓喜天(かんぎてん)
 仏教守護の神。頭は象、身体は人間にかたどられ、単身と双身とがある。祈れば病悩・賊難を解脱し、夫婦和合、子を与えるという。
註10 江府(こうふ)=江戸
註11 こゝら(幾許)=あまた、多く
註12 いつくし(厳し)=いかめしい。おごそか。
註13 華表(かひょう)=神社の鳥居
註14 市川=現在の千葉県市川市
註15 うけかひ(肯ひ)=承知すること。承諾。
註16 角田川(すみだがわ)=隅田川の当て字。
註17 かりしほ(刈しお)=稲・麦などを刈るに適当な季節
註18 豊とし=豊年
註19 かたみにまさなことのゝしりつゝ
 互いに他愛ないことをがやがやと云い騒ぎながら。

 
 
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いたうからし(※註1)たれはしはしあくら(※註2)に休らふとはかり有て、
又十町はかりも直なる道を行て市川に至りぬ、此わたり(※註3)にハ
公より関をすへて其事承給る伊奈某(※註4)か下司とも
往来の人を改るさまいミしう厳なり、河原におりて遥に
望は世に坂東太郎(※註5)とかよふめる利根川の下流瀬々に
分れて、ミなきる水の勢ひ、けに関東一の大河と知らる、
水上ハ信野・上野の国々より出て諸流落合、此武蔵の
はら郡(※註6)にて一河となり、又栗橋(※註7)にてふた川に分れ、一流ハ
関宿(※註8)・木颪(※註9)にそひて常陸の銚子に落、一流ハ武さし
しもつふさの境をめくりて此行徳にて海に入とそ、又
真間・国分の台(※註10)間近くそひへたる麓に、民の家ゐも茂く
ミゆ、川上のかたハ遠く山つゝきて只杉松にのみ黒ミ渡り、
赤壁のもとをしら波の打そゝきたるも只ならす、あしまの
鷺のむれ立程たとへるにものなし、たれも〳〵詠にあかて
たゝすミ居るに、渡し守の船さし寄て、とく渡れといそけハ、
皆うちのるものから、流早くていとあやふき心ちす、岸
につく程かくなん
  水なれさほ(※註11)さして思ひし程よりもわたるハ安き
利根の川舟先ハ総寧寺(※註12)にとて根本橋(※註13)といふを渡り
坂路(※註14)をのほるに、木立茂りていとおくらし(※註15)、からうして
少し広らか成所に出、としふりたる松の雲をしのく
まて生茂りたる中をはるかに行て石の碑あり、下
馬といふ文字さたかにミゆれと、年経し程も知られて
 
註1 からし(辛し)=苦しい。つらい。
註2 あくら(胡床)=背に鳥居のようなよりかかりを立てた腰掛
註3 此わたり
 江戸川の西岸武蔵国伊予田村と東岸下総国市川村を結ぶ渡船。元和2(1616)年、幕府は利根川水系16カ所の渡場を人改の場として関所(市川関所)を置き、これ以外での渡河を禁じた。この渡しは小岩・市川渡、関所は小岩・市川関所とも呼ばれた。渡船の運航は市川村支配代官の管轄で、同村内に番小屋一軒が置かれ、船頭一〇人がいて、これにあたった。
註4 伊奈某
 『船橋市西図書館所蔵資料集第3集 御用留(下総国曽谷村)』によれば当地の支配代官は山田茂左衛門が天保一〇年三月に退役して以降、伊奈半左衛門と中村八太夫の二人の代官の支配となっている。
註5 坂東太郎(ばんどうたろう)=利根川の異称
註6 はら郡(幡羅郡)
 武蔵国幡羅郡。現在の埼玉県妻沼町と深谷市の一部にあたる。
註7 栗橋
 下総国  郡栗橋村、現埼玉県久喜市栗橋。江戸時代は日光道中7番目の宿場・栗橋宿が置かれた。次の宿・中田宿との間に利根川があり、当宿には渡船場(房川(ぼうせん)渡)と関所があり、交通の要所であった。
註8 関宿(せきやど)
 江戸時代の関宿藩の城下町、現千葉県野田市関宿。北を利根川、西を江戸川に挟まれ、江戸川沿いに関宿河岸が置かれた。銚子湊から利根川を遡上して関宿で江戸川に入り、江戸へ物資を送る水運の結節点として重要な地であった。
註9 木颪(きおろし)=木下
 下総国印旛郡竹袋村内木下、現千葉県印西市木下辺り。利根川南岸に位置し、木下河岸が置かれた。江戸から常陸・下利根川筋へ向かう起点とされ、行徳―<木下道>―木下―<銚子道>―銚子を結ぶ交通の要所であった。
銚子から鮮魚を乗せた船(なま船)は、木下などの河岸に着き、そこで馬の背に積み替えられ、行徳まで駄送、再び船積みされ江戸日本橋魚市に運ばれた。
註10 国分の台=1頁註二参照
註11 水なれさほ(水馴棹)=水によく馴れた棹。
註12 総寧寺
 千葉県市川市国府台にある曹洞宗の寺。安国山と号する。永徳三年(一三八三)佐々木氏頼が通幻寂霊を開山として、近江国新庄樫原郷に一寺を建てたのに始まる。のち兵火により遠江の垂安寺、常陸の玄勝院に移り、天正三年(一五七五)北条氏政によって下総国関宿に再建された。徳川秀忠によって関宿内町に、同家綱によって当地に移された。
註13 根本橋
 「市河(註、市川)の渡口より総寧寺へ行く間の小川に架す、此地を根本村というより号とす、橋下を永るゝハ真間の入江の旧跡より発する所の水流なり」(『江戸名所図会』)
註14 坂路
 総寧寺の古文書に、「境内入口之坂、古来より法皇坂と申伝候」とある。本当は、国府神社すなわち鳳凰明神に由来して、鳳凰坂と書くのが正しいのである。
            ―千野原靖方『江戸川ライン歴史散歩』(崙書房)―
註15 おくらし(小暗し)=うすぐらい。ほのぐらい。

 
 
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いと苔ふかし、大門にハ安国山といふ偏額をかく、此寺ハ
曹洞の禅林にして関東僧録司(※註1)三箇の一員也とそ、
天正のころハ武蔵の関宿に有しを、洪水のうれい有とて
寛文の頃此所へ移されしとか、本堂・客殿・学寮・禅堂
なといと広大にして寂莫たる禅屈(窟カ)なり、堂の左りに
太田道漢(灌)のミつから植られたる梅の老木たてり、まつ
庫裏に音なひて境内の旧跡をとハまほしとこへは、
やかて黒衣の僧出来て案内す、左りの小門をひらき
内に伴ひ、天守台・石櫃・古墳・ぬけ穴・羅漢か井(※註2)・鏡か渕
なとつはらに(※註3)教ゆ、そも〳〵文明の昔、持資か陣営として
北総の一揆を攻ほろほしける(※註4)程の地なれはようかい尤かたかるへし、
其後御弓の御所(※註5)の居城となりしか、御所潜に小田原を
攻んとせし謀事あらわれて、天文の冬北條父子小田原ゟ
起りて此城をせむ、御所のいくさ利なくして義明父子
舎弟基頼共にあへなく討死せしとそ、又文録(永禄)ニは太田
康資小田原を背き、入道三楽斎をよひ里見義弘等
この地にたむろしけるか、是も終に軍破れて敗走し
たる事なと誰も知る事なれと、けふ此古地をふミて
そゝろに袖をぬらし、かついにしへを思ふのあまりに、いさゝか
聞所をしるし置もかたはらいたしや、鐘か渕(※註6)といふより見
おろせは、岸打波に白うミへ(え)てあしもたまらす目くるめき、
こは里見の陣鐘この渕にしつミしよりの名なりとそ、
此岸の上少し広らか成所にあつまややうの草舎あり、爰ゟ
 
註1 関東僧録司(そうろくし)
 僧尼の登録、住持の任免など僧事を総轄する役職を僧録といい、僧録または僧録の役所を僧録司ともいう。
 唐の元和・長慶年間(806~24)に設けられたのが最初である。わが国では、寺院統制のため禅律方が室町幕府によって設置され、僧録司と呼ばれるようなった。
 曹洞宗では、天正十一(1583)年、遠江可睡斎が駿河・遠江・三河の東海僧録に、ついで慶長十七(1629)年六月、下総総寧寺・武蔵竜穏寺・下野大中寺の関三刹が関東僧録に任じられた。
註2 羅漢か井
 弘法大師空海が東国巡錫のとき、当地の里人が飲料水に困っていたため、羅漢をまつって念仏を唱え、錫杖を突いて清水を得たという。この「弘法清水」の伝説は、各地に伝えられている。戦国時代には、里見氏が国府台城の井戸としてこの「羅漢井」を使用したとか、戦闘の際に毒石をいれたとか云い伝える。一方、『総寧寺由来記』によると、寛文七年(一六六七)夏、総寧寺には三〇〇人の僧侶がいたが、当寺には井戸がなく、また掘れども水が出ず、古くからの水の溜りでは不足していたので、そこで祖峯禅師が十六羅漢に祈願し、羅漢供養をしたならば甘泉湧出したという。
                           ―千野原靖方『江戸川ライン歴史散歩』(崙書房)―
註3 つはらに=つまびらかに
註4 持資か陣営として北総の一揆をほろぼしける
 『鎌倉大草紙』によると、文明十(1478)年に扇谷上杉家の家宰・太田道灌(持資)が「下総国国府台に陣取り、かりの陣城をかまえける」と伝えている。十二月十日、道灌はこの国府台の陣城から出陣して、千葉氏・原氏・木内氏の軍勢と境根原(柏市酒井根付近)で合戦し、これを打ち破った。現在の里見公園内に、単廓の二重土塁跡がわずかに残っている。
                          ―千野原靖方『江戸川ライン歴史散歩』(崙書房)―
註5 御弓か御所云々
 天文七(1538)年十月、房総の里見氏・武田氏らを率いた小弓(御弓)公方足利義明と、古河公方足利晴氏から小弓御退治を命じられた小田原の北条氏綱との合戦が、相模台及び国府台で行われた。天文の国府台合戦と云われている。
 小弓公方義明・その子義純、義明の弟基頼らは本陣を国府台に置き、戦ったが、義明及び義純・基頼ら子弟は討死、里見軍は房州へ敗走した。
 次いで、永禄六(1563)年と翌七年の正月に、北条氏康・氏政と里見義弘・太田資正(すけまさ)(注、入道三楽斎)らの戦いがあった。里見・太田軍は総崩れとなって、義弘・資正らは房州へ敗走している。
                         ―千野原靖方『江戸川ライン歴史散歩』(崙書房)―
註6 鐘か渕
 「同所(註、江戸川)断岸の下、利根川の水流を号(なつ)く、伝云、里見氏の陣鐘、此淵に沈没す、故に号とすと、其鐘、今も此地の水底に存すといへり、或人云、此鐘が淵といふハ豊島刑部左衛門秀鏡か陳鐘の水中に落入しゆゑなりと、此鐘ハ船橋慈雲寺の鐘なりけるを此地へ持来れるとなり」(『江戸名所図会』)

 
 
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見わたせは西南のかつしかの村々、江戸の市町、はるか成甲相の
群山まて雲につらなり、東は房総の海はら遠く、北は
利根の流屈曲して実に一目千里の風景こゝに尽せり、
船のゆきゝをミて
  むれて飛ふあしへの鷺とみしハみな真帆に入くる
利根の川舟また此台のむかしを思ひて
  梓弓引分れつゝますら男か名を流したる水の
哀さかくて寺僧に別れを告、此寺のうら道を立
出て東の方畑中を行、つゝら下り(※註1)をくたりて国分寺
(※註2)に出、はるかに山を登りて金常(光)明寺(※註3)に至る、こは其かミ
聖武帝の御願にして国毎に立置るゝ国分寺(※註4)の第一
にして本尊ハ薬師仏、十二将神(神将)・堂内鬚頭盧(※註5)の像、尤
古彫の台(レイ)像也、釈迦堂ハ右ニ有、本尊座像にして左右の
二天共に上古の木仏なりとミゆ、是も同しミかとのミつから
大般若経一部つゝ写し給ひて、丈六の仏像を国ことに
おかるといふ、此御ほとけも其ひとつにや、楼門にも古仏の像
あり、皆開創時世のものなるへし、かたへに銅像の不動尊
立せ給ふ、其もとに五尺あまりの大石数多積置たり、こハ
そのかミ大伽藍の礎にして石面の古立ものふかし(※註6)、こゝより
南にたとり真間山弘法寺(※註7)に至る、爰ハ日蓮大士弘法の
地にして六門家と称する一員とか、麓(フモト)より切石坂を遥く
登りて祖師堂有、釈迦堂ともに双てまた常唱堂
ハ左りに有、右のかたに二もとの楓あり、これなむよの人の
 
註1 つゝら下り(葛折下り)=甚だしく折れ曲がった坂道。九十九折。
註2 国分寺村
 国分村の誤りか。国分寺が置かれたことに由来する村名だが、残された史料は「国分村」となっている。
註3 金光明寺→次項「国分寺」参照
註4 国分寺
 奈良時代、聖武天皇の詔によって各国の国府所在地に建立された一国一寺の官寺である。その後、火災にあったが再建され、江戸時代には「国分山金光明寺」と号したが、明治二十四年火災により不動堂・地蔵堂及び鐘楼などを焼失した。
註5 髪頭盧(びんずる)→賓頭盧とも表記する
 仏弟子。十六羅漢の一つ。わが国では俗間にこの像を宝珠で撫で、疾病の快癒を祈る迷信がある。また、この像は行基の作といわれている。
註6 ものふかし(物深し)=おくゆかしい
註7 真間山弘法寺(ぐぼうじ)
 奈良時代の天平九(737)年、行基が当地を訪れ、一宇を建立し「求法寺」となし、手児奈を供養したのにはじまるとされる。平安時代に入って弘仁十三(822)年に空海(弘法大師)によって七堂が造営され、真言密教の寺院となり、「真間山弘法寺」と号し、その後、天台宗に転じ、さらに日蓮宗に改宗した。
                        ―千野原靖方『江戸川ライン歴史散歩』(崙書房)―

 
 
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青葉のもミちと称するなるへし、けに大木にして軒(幹カ)ゟ
枝わかれ、幾本といふ数不知茂り合たるもめつらかなり
  秋きても青葉のまゝの木のもとはしくれやよきて
ふる寺の庭方丈の左りの山に扁(遍)覧亭(※註1)といふ草庵
あり、こゝもまた同し山つゝきにて、河原遥にミわたしたる
さま、いはんかたなし、楼門(※註2)の金剛力士ハ運慶の作
れるとか、全躰黒色にして他にことなり、まことや此寺
真言の刹なりしを、日蓮教士此地遊行のころ、寺僧と
宗意を論し、終に大士の化導に帰依して宗風
を改転すとか、猶委敷事ハ、宗徒のものハ知りぬへし、
坂道を下りて前なる門田の渡りをいにしへの真間の
(※註3)とか、入江にかけし継橋(※註4)ハ、弘法寺の大門石はしの元
 
なる二つの橋の中なるを言とそ
  夕塩の入江のあしに波よせてあきかせ渡る真間
の継はし東の方畑道を行は手児名(※註5)の社有、女を守の
御神と言伝ふ、今ハおさな子のもかさ(※註6)の病いのりていちしるし
とか、此社の名のことハ、楢の葉の名にあふ宮の古事(※註7)よりして、
代々の言の葉にも数多なれは、しるすに及ハす、水を汲てん
てこなし思ふ、とよめる真間の井(※註8)も、此宮のうしろ鈴木院(※註9)
いふ庵室のかたハらに有、こゝより菅野(※註10)といふ所を過て
八幡の駅(※註11)に出、ここらハ梨(※註12)を植て賤か業とす、花さく春
ハ雪をも分るこゝち(※註13)すへし、園ことに棚をもふけ、折から枝も
たはゝに実のりたるいとめつらし、冠ならねと人やとかめんと
小笠かたふきなからとく過ぬ、家毎に莚にならへ、あるは
 
註1 遍覧亭
 『江戸名所図絵』によると、享保期(一七一六~三六)には八代吉宗将軍が訪れ、その風光のすぐれているのを喜び、南庭にあった小亭を「遍覧亭」名づけたと記している。一方この茶室については、元禄八年(一六九五)に弘法寺の第十七代日貞上人が造築し、折から水戸光圀が来詣して、その景勝を賞して「遍覧亭」と名づけたという伝えもある。現在の遍覧亭の建物は、昭和二十九年に完成したものである。
                       ―千野原靖方『市川歴史探訪‐下総国府の周辺‐』―
註2 楼門
 弘法寺は、明治二十一年火災により、全山、悉く灰燼に帰し、現在の諸堂は明治二十三年に再建されたもの、助かったのは、鐘楼と仁王門のみ、と同寺の案内(「弘法寺H・P」)にある、
 しかし、現在の仁王門と称する楼門は、明治二十三年に、松戸市馬橋にある万満寺より、寄進されたものであり、江戸時代の建造物という。その仁王門の左右に、黒色の金剛力士像が、安置されているが、火災当時の記録が無く、それが当『真間紀行』の作者が見た像と同じ物であるか否かは、不明である。
註3 真間の浦
 「弘法寺の前の水田の地をいふ、勝鹿の浦といふも此所の事を云なるへし」(『江戸名所図会』)
註4 継橋
 「真間の継橋」は、『万葉集』にある山辺赤人による「真間の手児奈」の古話に美しく語り継がれ、心ときめくあこがれの地名として詠われ歌枕となる。
   「足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋止まず通はむ」
                    (万葉集巻十四―三三八七)
 『万葉集』の中で「真間の継橋」が出てくるのは、この一首であるが、その後、多くの高名な歌人たちにより、中世の和歌の名所として詠み継がれ、数多く遺されている。
                    ―『房総風雅史古代中世編』―
註5 手児名(手児奈とも)
 真間に住んでいたという伝説上の美少女で「万葉集」巻九には「勝鹿の真間娘子を詠む」として高橋虫麻呂の歌一首と「勝鹿の真間の井を見れば立ち平し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」という反歌がみえ、また同集巻三には山部赤人が「勝鹿の真間娘子の墓を過ぐる時」に詠んだ歌一首と「われ見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名が奥津城処」「葛飾の真間の入江にうちなびく玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ」の反歌二首が載る。
 手児名は粗末な麻衣に青い襟を付け、髪もけずらず沓も履かない貧しい少女がったが、美貌の持ち主であったため多くの男たちから求婚され、身の処し方に困惑して入江に入水して果てたとされる。この伝説は手児名がいつも水を汲んだという真間井(継井)、男たちがやまず通ったという真間継橋なども合わせて早くに流布していたと思われ、「万葉集」巻十四東歌には下総国の歌として手児名や継橋を詠んだ短歌三首もみえる。中世には特に継橋を読み込んだ歌が盛んに作られ、治承三(1179)年十月十八日の右大臣兼実家歌合で源頼政が「東路を朝たち行は葛飾やまゝのつき橋かすみわたれり」と詠じているのをはじめ、「千載集」「金槐集」「菟玖波集」など多くの中世和歌に継橋を詠んだ歌が載る。
 江戸時代後期には継橋・真間井など手児名旧蹟として名所となっていた。「江戸名所図会」では継橋の東に接して手児名の墓跡と称する地があり、手児名明神として安産や疱瘡治癒に霊験があるとされている。現在は弘法寺がある台地の南裾の小溝に架かる朱塗の橋を継橋の旧跡とし、周辺に手児奈霊堂(手児名明神)や真間井(日蓮宗亀井院の裏庭)などがある。
                     ―『千葉県の地名』―
註6 もかさ=疱瘡(天然痘)
註7 楢の葉の名にあふ宮の古事
  古今和歌集巻第十八 雑歌下
  貞観御時、万葉集はいつばかりつくれるぞと、とはせ給ひければよみたてまつりける     文屋ありすゑ
     九九七 神な月時雨ふりけるならのはの
               なにおふ宮のふることぞこれ
                ―『新編国歌大観第一巻』(角川書店)―
註8 真間の井
 「同所北の山際、鈴木院といふ草庵の傍にあり、手児奈か汲ける井なりと云伝ふ、中古、此井より霊亀出現せし故に亀井ともいふとなり」(『江戸名所図会』)
註9 鈴木(れいぼく)院
 手児名が、毎日水を汲みに来たといわれる、真間の井の傍に有り現在では「亀井院」と呼ばれている。
 寛永の頃、弘法寺十一世日立上人の隠居所として建立され、当初は湧水が瓶に水を湛えた様に満ちていた様から「瓶井坊」と称されたが、元禄九年(一六九六)弘法寺大檀那鈴木長常が、「瓶井坊」に葬られた折、その子長頼が坊を修復し、以後「鈴木院」と呼ばれるようになった。宝永二年(一七〇五)幕府作事奉行であった長頼が、日光東照宮の石を、「鈴木院」の石段に流用したとの罪に問われ切腹、その後「亀井院」と改称した。「亀井」は井戸に霊亀が出現するとの伝説からきている。
                 ―「ウキペディア」―
註10 菅野
 菅野村、現市川市菅野辺り。当地近辺は梨の産地。
註11 八幡の駅
 佐倉道の宿場で、江戸から五里三三三町、新宿から二里六町、次宿船橋へは一里十五町あった。天保十四年(一八四三)の調査によれば、八幡宿では字中宿に人馬継問屋があり、宿役人として問屋一人・年寄二人・馬指二人が居り、問屋場へは問屋・年寄・馬指各一人が毎日詰めており、重要な通行があるときには、宿役人全部が出動した。宿の往還は、平田村境から鬼越村境まで長さ一〇町二〇間で、この道幅は三間~六間であった。また、宿の往還には、並木なく、一里塚などもなかった。
                      ―『市川市史』第二巻―
註12 梨
 「八幡梨」として著名。江戸時代の末には、日に三〇〇〇籠(一籠六貫=二二・五kg)江戸に出荷され、将軍家にも献上された。梨栽培を広めたのは、八幡の川上善六(一七四二~一八二九)で、当時の八幡は、市川砂洲上にあって、北部は真間の入江の湿地が広がる地域で、穀物の栽培には適さない土地柄であったが、善六は江戸市民向けの梨栽培を思い立ち、当時梨栽培が盛んであった尾張・美濃に調査に赴き、尾張藩の許しを得て、梨の接穂を持帰り、八幡宮の別当、法漸寺境内で接木した。その後、同寺境内二千坪を借り梨園を開く。これが数年後には立派な果実をつけ、江戸の市場で取引されるようになると、善六は進んで村人たちにその方法を教えたので、八幡を中心として周辺農家に梨栽培が広まり、「八幡梨」として市場を賑わすようになったという。
                     ―『市川の歴史を尋ねて』―
註13 花さく春は雪をも分るここち
 『江戸名所図会』梨園に、「二月の花盛りは雪を欺くに似たり。李太白の詩に、「李花白雪香ばし」と賦したるも諾なりかし」とある。「宮中行楽詞八首 其二」に、李白の名句の一つとされている「柳色黄金にして嫩(やわ)か、梨花白雪にして香ばし」との表現がある。柳色は玄宗皇帝、梨花は楊貴妃といわれている。

 
 
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篭に入てはこひありくも、やかて江戸の市路にひさく(※註1)成へし、
八幡の宮(※註2)ゐハ、昔建久の頃鎌倉将軍家修造ありて、いと
壮麗たりしか、はるかに星霜をつみて今ハ老樹の松杉
深くいミしう神さひたり、世にいふ八幡しらすの森(※註3)ハこの駅の
辺り木竹茂れる林也、人あやまりて此内へいれは、かならす
此神のたゝり有と言伝ふとそ、厳に垣を結廻らし
たり、又承平の将門か徒、この森にいり跡をかくしたるか、
いかつちの為に破壊せしよりこのかた、地をふむものハ祟有
なと、里の翁かかたらふもいとうけられす、或ハ、此森行徳の
地にして林のめくり八幡に屬せは、此村に入あふといへ共
他の地なるゆへ、八幡しらすの森とあさなせしともいふ、
中山なる法華経寺(※註4)もこゝよりハ程近けれと甲の(申カ)こく(※註5)
近けれは、けふハ強て歩、上妙典(※註6)なと言所過、からうして
行徳の駅に至る、徳願寺(※註7)といふはこゝらあたりの大寺にして
本堂山門鐘楼なといらかをならへ、方丈庫表(裏)いと広ら
かなり、その大徳(※註8)いみしき行ひ人にて世の人普くたうとみ
詣くるとそ、伴ひし奉矩も此聖にたいめせん事をこひて
やかておくまりたる所へいさなはれぬ、おのれらハ道のつかれに
たえてかたハらなるすのこに休らひ、いさゝかねむりを
催したるほと、老僧のしはふき(※註9)出て茗(※註10)くたものなとすゝめ
もてなすさまも、所からけしきことにミゆ、とかくする程
日もはや西にかたむき、日くらしの声しはしすれハ、かくてハと
思ふ折ふし奉矩も立出て、例の大とこ(※註11)にいとまつけて
此寺を立出て船場をさしていそく、此辺の浜伝ひの
 
註1 ひさく(鬻ぐ)=売る。あきなう。
註2 八幡の宮
 「葛飾八幡宮。真間より一里余り東の方八幡村にあり常陸并房総の海道にして駅なり、鳥居ハ道はたにあり別当ハ天台宗にして八幡山法漸寺と号す、本地堂にして阿弥陀如来を安置し、二王門にハ表の左右に金剛密迹の像、裏にハ多聞大黒の二天を置たり、神前右の脇に銀杏の大樹あり、神木とす此木のうつろの中に常に小蛇栖めり、毎年八月十五日祭礼の時音楽を奏す、其時数万の小蛇枝上に顕れ出つ、衆人見てこれを奇なりとす」(『江戸名所図会』)
註3 八幡しらずの森
 葛飾八幡宮の南、現在の国道14号(旧佐倉道)に面して八幡不知(しらず)森・八幡の藪知らずなどと呼ばれる小さな森があり、古くからこの森に入ることは禁忌とされていた。禁忌となった由来として幾つかの伝承が残されており、代表的なものは平将門の乱に関連するもので、以下のような話である。
 平貞盛はこの地に陣を布いて将門を平定したが、このとき貞盛は里人に死門の一角を残したので、以後この森に入れば祟りがあると言い残した。この話を聞いた徳川光圀が馬鹿げた話と藪に入ったところ、現れた老人の怒りを被り、光圀も里人も禁を決して犯してはならぬと伝えたというものである
 『江戸名所図会』は同所付近が八幡村地内にありながら行徳の入会地であったため藪知らずの呼称が生じたとの説を載せ、これに賛意を表している。
                   ―『千葉県の地名』―
註4 中山法華経寺
 千葉県市川市中山にある日蓮宗四大本山の一。日蓮順錫の故地。五重塔・法華経堂四脚門は有名。
註5 申のこく=午後4時頃
註6 上妙典
 上妙典村、現千葉県市川市妙典辺り。佐倉道に沿って集落を形成する。
註7 徳願寺=市川市本行徳にある真言宗豊山派の寺。
 慶長五年(一六〇〇)創建と伝え、江戸時代には寺領朱印地高一〇石を有していた。「江戸名所図会」によると、武蔵国鴻巣の勝願寺末で、古くは普光庵という草庵であったという。同寺本尊の阿弥陀如来はかって江戸城三の丸に安置されていたもので、朱印地は三代将軍家光のとき本尊供養料として与えられた。
                   ―『千葉県の地名』―
註8 大徳(だいとく)=徳の高い僧、高僧
註9 しはふき=咳払い
註10 茗(めい)=茶
註11 大とこ(大徳)=「だいとく」の転

 
 
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道にて塩やの烟(※註1)いくむらとなくなひきあひたり、海は
すこし遠けれと浦こく船のミるめもめつらかに、
いつくハあれと(※註2)ゝ聞こへし塩かまのうらもかくやと思ひ
やらる、此里の名をとへは伊勢宿(※註3)とこたふ
  こゝもまたいせをの蜑(※註4)の宿の名に立やもしほのうち
けふる空行徳の舟場(※註5)ハ殊に家居もしけく、日毎に江戸ニ
往来ふ船数多有とそ、いとからしたれはまたものくひ抔す、
舟人共のかしましうのゝしるを聞は、中川は関所有(※註6)、火とも
す頃は舟のゆきゝもなりかたかるへし、暮ぬ間にかの関
こき通るへし、とくのり給へといそかしたつれは、心あわ
たゝしくて船に乗ぬ、こゝハ利根川の下にて海も近く、
今井(※註7)・長嶋(※註8)なと言、只よし芦茂りたる、遥あなたに洲先の
 
よふにさし出たるハ妙見嶋(※註9)とか、いと広き島あり、是を
左にミなし横川(※註10)に船こき行、右には二の江(※註11)・舟堀(※註12)あり、
ひたりハ宇喜田(※註13)・小松川(※註14)なとはなく過て、やかて中川に出ぬ、
舟人棹の雫もそふ計汗しとゝになりて暮ぬ間といそ
きし甲斐有て、関は事なく越来ぬ、小奈木川(※註15)の堤
の上にも船改る家あれと、舟人の力にてこゝをも暮
ぬ間に過ぬ、砂村(※註16)・猿江(※註17)なと過る頃やふ〳〵河つらの家ゐに
灯かゝくるさまなり、からうして大川(※註18)に漕出、川上をミれは
両国の橋(※註19)のあたりかゝけつゝけし灯火のてり合て暮
るもわかぬ水の上なり、今しも秋の半過たれと、此辺ハ
猶涼とる夏川のなこり(※註20)したふにやあらむ、ものゝ音なま
めきたる舟とも多くうかひて賑々し、中洲の辺より
 
註1 塩やの烟
 「塩浜は同所(註、本行徳)海浜十八箇村に渉れりと云、風光幽趣あり、土人去此塩浜の権輿は最久しく、其始をしらすといへり、然に天正十八年関東御入国の後、南総東金へ御遊猟の頃、此塩浜を見そなはせられ、船橋御殿へ塩焼の賤の男を召し、製作の事を具に聞し召れ御感悦のあまり御金若干を賜り、猶末永く塩釜の煙絶えす営て天か下の宝とすへき旨欽命ありしより、以来寛永の頃迄ハ大樹(註、将軍のこと)東金御遊猟の砌ハ御金抔賜り、其後、風浪の災ありし頃も修理を加へ給ハるといへり事跡合考に云、此地に塩を焼事ハ凡一千有余年にあまれりと、又、同書に天正十八年御入国の後、日あらす此行徳の塩浜への船路を開かせらるゝ由ミゆ、今の小奈木川、是なり此地の塩鍋ハ其製、他を越、堅強にして保事久しとそ、東八州悉く是を用ひて食料の用とす」(『江戸名所図会』)
註2 いつくハあれと
   かすみともはなともいはじはるのかげ
 いづくはあれどしほがまのうら
               藤原定家(「夫木和歌抄」巻第二十五雑部七)
註3 伊勢宿
 武蔵国葛飾郡伊勢宿村、現千葉県市川市伊勢宿辺り。江戸川の左岸に位置し、家並みは佐倉道に沿って形成された。近世初頭から製塩を行っていた。
註4 いせをの蜑(あま)(伊勢をの海人)=伊勢国の漁師。歌語。「を」は感動の助詞。
註5 行徳の舟場
 「行徳四町目の河岸なり、土人、新河岸と唱ふ、旅舎ありて賑ハへり、江戸小網町三丁目の河岸より此地迄船路三里八町あり、此所はすへて房総・常陸等の国々への街道なり
大江戸小網三丁目行徳河岸といへるより、此地まで船路三里八丁あり、房総の駅路にして旅亭あり、故に行人絡繹として繁盛の地なり、殊更正・五・九月ハ成田不動尊へ参詣の人夥しく賑ひ大方ならす」(『江戸名所図会』)
註6 中川は関所有
 中川番所。江戸日本橋と江戸川を結ぶ小名木川、それと中川が交差する地点の中川右岸(東京都江東区)にあった川の関所。番所前を通過する川船の荷物と人を取り締りの対象とした。
                   ―利根川文化研究会編「利根川荒川事典」国書刊行会―
註7 今井
 近世は上今井村と下今井村に分かれているが、中世はともに今井村とよばれた。村の南東を江戸川が南流し、対岸の欠真間村との間に今井渡があり、下総国行徳領に至る道(通称行徳道)が通っていた。
註8 長嶋
 長島村、現江戸川区東葛西辺り。漁業が盛んであった。
註9 妙見嶋
 江戸川に浮かぶ島で、南北の幅は約700メートル、東西の幅は200メートル、島の北部に妙見神社があり、島の北は行徳船の航路になっており、江戸の庶民にとってなじみ深い地域だった。
註10 横川
 船堀川・行徳川ともいう。江戸川から中川へ、船堀と宇喜田の間を東西に横断する川。寛永6(1629)年、通船の便を図るため二之江村字三角渡し以東から江戸川まで新川を開削した。以後、船堀川を新川と呼ぶ。
            ―鈴木和明『明解行徳の歴史大事典』(文芸社)―
註11 二の江
 二之江村、現江戸川区二之江辺り。当村も漁業が盛んであった。
註12 船堀
 船堀村、現江戸川区船堀辺り。行徳と結ぶ通船があった。
註13 宇喜田
 東宇喜田村と西宇喜田村に分かれており、現在は江戸川区内。
註14 小松川
 小松川村は、現在は江戸川区内、且つ船堀川の右にあたるが、左には飛地があった。小松菜の産地。
 「享保四年(一七一九)に吉宗公が鷹狩りに来られた時、御膳所となったのが西小松川村の間々井の森の香取社で、時の神主・亀井和泉守が、餅の清(す)まし汁に冬菜を添えて差し上げたところ、将軍はその冬菜の香味を喜ばれた。未だこの葉に名がなかったことから、小松川の里の菜ゆえ『小松菜』と命名されたと伝えられている。以来、鷹狩りの際にはいつもおみやげとして、地元の村から小松菜が献上されたという」(亀井千歩子『小松菜と江戸のお鷹狩り』)。
註15 小奈木(おなぎ)川(小名木川とも)
 江東区の中央を東西に横切り、中川と隅田川を結ぶ運河。江戸時代の規模は長さおよそ一里十町、川幅は中川口で十四間、墨田川口で二十間。天正十八(1590)年徳川家康が江戸へ入府後、行徳(現千葉県市川市)の塩を運ぶ目的で開削したという。また小名木川と船堀川を合せて行徳川ともよぶ。河川交通路上の江戸への出入り口として、中川口に番所が設置された(別のところにあった番所を移設)。
註16 砂村=砂村は明治二十二年に成立した村。不詳。
註17 猿江=小名木川北岸の村。現江東区猿江辺り。
註18 大川=隅田川下流の異称
註19 両国の橋=隅田川に架かる橋。万治二(1659)年完成。
 「この橋は、丁酉の年大火事(註、明暦の大火、明暦三(1657)年)の時、下町の者どもその風下に逃れんと、浅草の見付へ車長持、惣て諸道具を引きのけたる故、道つかへて数多の人焼け死にたるを不便に思し召し、もし重ねて大火事あるとも、人の損せざるようにとて、下総国本所へ江戸浅草より百余間の橋も懸けさせらるる。武蔵下総両国へかかりたる橋なる故、両国橋と名付くるなり。この橋の上からの眺望、心言葉も及ばれず。」(戸田茂睡「紫の一本」(新編日本古典文学全集『近世随想集』所収)
註20 涼とる夏川のなこり
 納涼のなかでも、最もぜいたくな夕涼みは、隅田川での船遊びである。夕方になると、船宿から屋形船や屋根船などがくり出された。屋形船は、大型の屋形を船上に設けたもので、江戸中期に江戸で100艘を越えたが、寛政改革のぜいたく禁止の影響で、享和3年(1803)には31艘に減った。
 一方、屋根船の方は小船に小さな屋形を載せたもので、日除け船とも呼ばれ、庶民的な船遊びの船として享和3年には603艘にものぼった。船に乗って涼しい川風をいっぱいに受けながら、三味線の音を聞き、うまい料理に舌つづみをうつ。それに花火が上がったら申し分なし。隅田川の夏は遊興の世界でもあった。
                     ―竹内誠「両国盛り場論」(江戸東京博物館『両国地域の歴史と文化』所収)―

 
 
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箱崎川にいる(※註1)ころ、かなたこなたの芦間かくれに四ツ手
(※註2)ひくかゝり火たきつらねたるさま、網代の思ひ
ミえていとおもしろし、かくて戌のこく(※註3)過るころ
日本橋の辺に船つきて(※註4)、こゝよりはなしの道をたとり
寝よとの鐘の音(※註5)つるゝ(※註6)ころおの宿りに帰ぬ
  天保十といふとしの葉月    光徳しるす
 
註1 中洲(なかず)の辺りより箱崎川にいる
 中洲は大川(隅田川)の三叉付近にあり、明和八年(1771)に埋め立て工事が行われ、出島が出来上がり、人家・茶屋・湯屋が並び繁栄したが、あまりの賑わいのため寛政改革の一環として寛政元年(1789)大川筋修築の際取り払われて、もとの水面に戻された。
 隅田川は、この中洲で分流し、箱崎川となり、南西に流れ、崩橋下で日本橋川に合流する。延長555間(約1km)の短い川。
註2 四ツ手網=四隅を竹で張拡げた方形の網。
註3 戌のこく=夜八時頃
註4 日本橋の辺に船つきて
 日本橋小網町三丁目の行徳河岸に着船した。この行徳河岸と下総国行徳を結ぶ船を行徳船とよんだ。
註5 寝よとの鐘の音=亥刻(夜十時頃)
 「皆人を寝よとの鐘は打つなれど君をし思えば寐ねかてぬかも」(『万葉集』大伴家持)
註6 つるゝ(連る)=つらなる