天保十年(1839)八月一日、光徳と友人二人は、下総国の市川真間方面に向かって、歌枕(古歌に詠みこまれた諸国の名所)を廻る日帰り旅行に出かけた。
一行は町中から郊外の農村に入り稲田の豊作を喜び、歌枕では歌を詠み、寺社仏閣を巡り、寺僧に話を聞き、帰路は舟旅を楽しんだ
出立の日は日の出から金環日食が始まっていた。一行は霧でしっとりしたほの暗い家並みの中を、午前六時頃九段坂の上の方から歩き始めて、太陽の欠ける様子などは興味なさそうだが、押上を通る頃蝕が終わったという。推測するところ押上通過は午前八時前後かと思われる。
北十間川沿いに歩き、対岸に燈明寺が見える平井の渡しで中川を越え、元佐倉道で人改めの厳しい小岩・市川関所に至った。平坦で長い直線の道程も互いに冗談を言い合って歩き、退屈した様子もなく、旅の高揚した気分が伝わってくる。
渡船場では、低地と台地の境を流れる利根川(江戸川)と断崖上の国府台の風光に感動し歌を詠む。市川に渡ると起伏の多い道を、精力的に寺を巡り、古をしのびここでも歌を詠む。国府台の総寧寺・国分の金光明寺・真間の弘法寺・真間の継橋・手児名の社・真間の井などを見る。
八幡の梨園では「李下に冠を正さず」の故事を思い、小笠を片手で傾けて、「梨を盗んでいませんよ」のしぐさをして急いで通り過ぎる。一行がたわわに実った梨を見て、はしゃいでいる様子が感じられる。
午後四時近くになっていたので道を急ぎ、行徳の徳願寺に寄り、連れの一人が老僧と対面し、光徳ともう一人は休憩する。ひぐらしの声を聞き聖にいとまを告げ、製塩の煙を見ながら行徳の渡船場へと急いだ。
利根川(江戸川)から横川(新川)に入り、暮れぬ間に中川の番所を無事通過し小菜(名)木川に入り、大川(隅田川)に出た。大川の夜景を楽しみ箱崎川に入り午後八時過ぎに日本橋行徳河岸に着き、十時頃帰宅した。
訪れた国府台の総寧寺は嘉永三年(1850)頃焼失し伽藍のほとんどを失い再興されたが、明治維新後寺領が新政府により上知された。この『真間紀行』では焼失前の壮大な伽藍を描写している。また国分の金光明寺(現在国分山国分寺)や真間の弘法寺も明治に入って焼失の憂き目に遭い再建されている。手児奈霊神堂は棟札から文政七年(1824)七月の修築である。行徳の徳願寺の本堂は安政三年(1856)に焼失したが再建され、安永四年(1775)建立の山門と鐘楼は現存している。
一行が歩いた道筋は、大正から昭和にかけて掘削された、荒川・中川・新中川と江戸川の川床になった部分を除いて、現在車道になっているがほぼたどれそうだ。
日本橋小網町と本行徳との間には「行徳船」が往来していた。この水路を利用した旅は江戸庶民に最も親しまれた交通路であり、成田参詣客にも利用され賑わっていた。今はこの地に定期旅客船など不用となった。
国府台・真間付近や順路等について『真間紀行』より早い年代に書かれた紀行文を少し引用してみよう。
(1)『房総志料』の著者中村国香は明和二年(1765)四月、牧馬の払い下げの件で小金中野牧の金ケ作へ赴いた帰路を『金ケさく紀行』として記した。四月五日松戸から国府台に至り、総寧寺の裏門から入って寺僧の説明を受けながら境内を巡った。遠望は「東武の御城・東叡山・
祈年宮等、眼下に見ゆ」とある。国分寺には雨後のぬかるみのため行けなかったが「弘法寺に大楓樹あり。(中略)霜葉の時、東都の士女輩群をなすと」「手兒名明神は、鈴木院の前、南の方の池沼中に建つ小さき神祠なり」「八幡村に応神祠あり、神領、聞くを失す。社樹に五抱の銀杏一株あり。鎌倉府応神祠石階の側にある処のものと伯仲す」とある。
(2)寛政二年(1790)十月に刊行された『真間中山詣』では総寧寺からの眺めを「西のかた遥に望めば江都、東叡山根本中堂の棟、雲に聳え…」とある。
(3)文政六年(1823)四月六日、雅人守黙庵と雅友五人が江戸市中から市川を巡り、船橋宿で一泊する旅をして『船橋紀行』を著している。
総寧寺・弘法寺・真間の継橋など見て歩き、歌を詠み、俳句を作り、詩を物している。「弘法寺の二葉の楓は己に枯倒して、今、代ふるに他樹を以てし、尚その名を存すと云ふ」、手兒奈では「今は唯さゝやかなる祠ばかりぞ残りたる」「中山に赴く道すがらは、池を廻り、畝をつたひ、やがて梨園を出で抜けて、又梨園に入る。このわたりの景色見んと、菅笠を尻にして、又毛穎を労す。梨下に不正冠の戒めも理なれど、未だ熟せざれば、髫髮(うなゐ)乙女を搔き抱きて臥したる思ひにて、罪許さるべくや。」
この一行は、墨多のほとりから小舟に乗り、逆井で下りて、小松川の田植えを見ながら右折して市川の関に進む。四月七日の帰路は、大神宮・勝鹿の祠・葛羅の井を見、行徳から舟に乗り中川の関で下りて陸を帰った。
(4)十返舎一九の『房総道中記』は文政十年(1827)頃の刊行とされている。行徳から船橋に行き、市川・真間付近は通っていない。
「江戸小網町行徳河岸より船にのる。陸路をゆくには両国より本所堅川とほり、逆井の渡しを渡りて行徳にいたる。陸船路とも三里なり。行徳に徳願寺といふ大寺あり。笹屋うどん名物。中山蒟蒻あり。これよりすぐに八幡、真間、国府台、木下への道なり。右のかたは船橋、上総、房州道なり。」
『真間紀行』の一行は天保五年(1834)に刊行された『江戸名所図会』の「七の巻」を旅行案内書にしたようで、文章中にはこの本からの引用が多い。他にも古歌や国府台合戦の軍記物、旅行記、体験談など、さまざまな情報を得て、旅の計画を立てたのだろうか。この『真間紀行』には、時刻や地形、出会った人なども丁寧に書き込まれていて、読者は一緒に旅をしている気分になりそうだ。
(参考文献)
『東京都の地名』 二〇〇二年 平凡社
『2012年5月21日金環日食を見よう』㈱ケンコー・トキナー
『新訂江戸名所図会』「6」「別巻2」 市古夏生・鈴木健一校訂
一九九七年二月 筑摩書房
『市川市史』第六巻下 市川市史編纂委員会昭和四十七年三月
『新編市川歴史探訪』千野原靖方著 2006年9月 崙書房
『行徳歴史街道3』鈴木和明著 2010年3月 文芸社
『十返舎一九の房総道中記』鶴岡節雄校注 昭和五十四年三月 千秋社
『房総叢書』第八巻「紀行及び日記」 昭和16年
『中世以降の市川』市立市川歴史博物館 平成一〇年七月
(加藤喜代子)