解読文

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(朱印)可不盡心守(※註1)
今とし仰ことを蒙りて嶺岡の御牧場にいて立ぬ、比はのちのきさらき(※註2)三日、朝日の影長閑にて門出もいさまし、父君母君にまかり申とて
 のとけしなけふの門出もめくみもて
   行嶺岡のきさらきのみち
かくて 御殿を拝して山下(※註3)まてまかりぬ、立場(※註4)あり
 駒とめてしはしやすらふ山下や
   さとの名残の旅の春かせ
千住(※註5)にて正興(平岡与右衛門)待合ひて是よりともなふ、親しき者かれこれ来れり
 春にけふ出る旅路のこゝまても
   おくるわかれに残ることのは
ふところ紙にかきていたし、暇乞し、故郷よりきたれるものに言伝す、わかれてしはし行程さすか心細し
 ゆくままにはや遠さかる故郷の
   親の心をおもひつゝけて
新宿の渡し(※註6)にて
 渡し船しつけきけふの波かけて
   こゆるもやすき春の河つら
昼の休らひにて正興とものかたりなとして
 いさましく語る中にも思ひやる
   やとの名残はおなし心に
かくて行程に真間鴻の台遥にみる、いにしへの里見氏の古城なりと聞て
 武士の名のみ残りていにしへの
   あととふ人もまれのふるみち
市川の関(※註7)には関守ののりものゝ戸をあけよいふ、戸はあけす、すたれそあけたる、渡し舟おそし、
何人の預り所と尋るに伊奈氏の守る所といへり
 関守も何とか思ふ市川や
   いなにもあらぬおそき舟出は
下総国八幡村(※註8)、爰にやわたのやわたしらすとて藪あり、人いれはなくなるとてあやしけなる垣あり
 あやしけにみゆるあたりの垣の竹
   やわたしらすとなとかいひけん
かくて日も山の端へいるころ船橋の宿(※註9)に着て
 かたむきし日影にいそく旅ころも
   きたる泊りは舟橋のやと
旅ねに三日月をみて
 ふるさとも影やさす覧此ゆふへ
   ならはぬ旅のやとの三日月
 ねられすに海士のかるものかりまくら
   只ふるさとを思ひつゝけて
 一夜たにあかしもはてす舟橋は
   くさのまくらの露ふかくして
四日、この宿を出て行に
 うらゝかにむかふ海辺の朝日影
   さす塩みつる沖つ春かせ
野路にいつ、鶯の遠かたに鳴を聞て
 山遠み朝の野へのうくひすは
   かすみのよそに声の聞ゆる
けみ川村(※註10)の河原を行に、海のうちに鳥井の有をみて
 海つらに実も鳥井のふた柱
   たつやちとせの守り成らん
寒川村白はた大明神(※註11)とて義経を祭りし宮あり
 よに高き名のみ残して神さひぬ
   むかし語りの春の玉かき
袖しか浦(※註12)といふ処はむかひに松山あり、千葉の常胤の城跡(※註13)と聞て
 城跡と聞も袖しか浦かせに
   たひ行道の露のふること
かくて行程に父正利の知る所(※註14)を通り、八幡の社(※註15)へ詣てゝ
 恵あれはおもひかけすも詣つゝ
   ちかゐをちよと頼む行すゑ
拝して社をめくり松の木のもとにしはしやすらひて
 ふりせしな(※註16)社まちかき浦風の
   波しつかなる松の木の本
姉ヶ崎(※註17)の宿に着く
 梅かゝのかほる枕に声たてゝ
   かはつ鳴夜の春もめつらし
五日、明ほの過る頃姉ヶ崎をいてゝ
 梅かゝのうつる計に行かたの
   たひの袂の匂ふ春かせ
 しつかすむ海辺のやとのしは〳〵も
   静なるよの春やたのしき
塩高く水ある渚を通る
 めつらしな波のもくつの渚行
   春日しつけきけさの海つら
くらなみといふ所(※註18)に海のうちに鳥井立り(※註19)、ならひて井筒あり、尋るに八幡の御手洗(※註20)のよし、日てりのときは此辺の民、此井の水を扱(汲)て田にかくるとそ
 海に立鳥井にならふ御手洗に
   かみの心の澄るをそしる
市場の渡し(※註21)、浜に小松多かり
 いく本かみとりにつゝく小松原
   市場の浜の波のうら風
かくて行程海辺は跡になりて賤か田かへすをみる
 やすからす心にこめて小山田の
   賤かつとめのいとまなき比
やう〳〵山路になりぬ、春雨のふり出しかは
 春雨のしつけき空に引かへて
   いそくも遠し旅の山みち
佐貫(※註22)の泊には雨風はけし
 さなきたに草のかりねの山風の
   吹こそまされいとゝ寐られぬ
六日、しのゝめ(※註23)の比より雨風も静になり泊りを出てゆくに、木の根坂といふ所は難所のよし聞ていそく
 雨はれていそく山路の旅衣
   きても木の根の坂(※註24)そ遠けれ
谷へ出てなかれあり、これをわたりて向ひの岸にてみれは、遥なる山より滝のおつるを、所のものにとひしに関(※註25)といふ所のよし、その山の上に関ありと聞て
 滝の糸に深山の清水わきそひて
   おつるもたえぬ関のうらなみ
木の根坂のふもとに着、とり〳〵上り行に凡上る所は四五町なり、けはしき坂にして木の根にすかりて上るゆへ木の根坂といふとなん
 行かたは足も留らぬ木の根坂
   たにを遥にみるもおそまし
山を越、谷をこし、河をわたりて、からうして嶺岡の役所(※註26)に着て、あたりをみれは人家もなし、正興と用意の事とも語り合せ、定のやとり所なれはこゝに廿日余りもとまりぬ、いと物すこき様なり、従者にとかく用意すへきよしを仰せ、所を常に預りし者(※註27)、また所の民とも、其夜は五人ともに留置、明日にもなり所のさまもしれなは、其場をも残らす請取へし、はや夜になりぬれは泊りてをこたらす、火あやうしといひ、めくれなとよく〳〵仰す、みな路に労れたらん休むへしとて
 谷をこえ川をわたりて嶺岡の
   やまの旅ねの夜半のすこさよ
かくてしはしまとろみしに、何となく物音しけるにめさめて見廻らせしにやかて火いてきぬ〳〵とよふ、是よりしてはさはかし(※註28)けれはもらしつ、武具のみ残りてみな烟となりぬ、此夜は嶺の山風に此地の案内はしらす、やみの夜のやるかたなさ幕打へき便りもなくて其侭明さんと思ひしを、しのゝめの頃近き民家よりとく案内あり、かの方へ行ぬ、せんすへなけれは正興とかたらひかはし、謹て文書て江都に告申す、
 いかな覧かゝるつらさをみね岡の
   夜半の烟そうつゝとはなき
かくて昼過になりぬ、細野村(※註29)といふ所へ行、是はもとよりことありしときは、公の事とりはからふ所なり、こゝにて引こもりゐつゝ、彼烟となりし品々しらへしうちに
 夢かとよ烟となりし賄ものゝ
   あとを思ふもやるかたのなき
其夜ふして
 けふ爰におもはぬ草のかり枕
   みしゆめならはあわれ覚てよ
明れは八日のあした、只惘然として
 旅枕あけても覚ぬ心かな
   たゝ故郷の空はなつかし
 いたつらに送る日数のきのふけふ
   旅の思ひのいや増りぬる
あくる九日とてもおなし心にくれまとふ
 かへるへき日数を松のとほそより
   明るもおなし雲そかゝれる
 哀ともしる人あらは春の日の
   なかきつらさのうきを語らん
軒の松をみて
 今更にわふともいはし山里の
   のき端のまつを友とむかひて
かけひの音さひし
 さひしさは只一筋に流れくる
   筧の水の音のみそ聞
夜になりて
 故郷の便りをまつの夜はの風
   ふけゆく侭に猶も寝られす
十日のあした春雨しめやかなり
 いたつらにみ山の住居日をふりて
   かゝるかり寝の床の春雨
 はれやらて日数へにけり山里の
   うき寝の宿の春雨の音
 かくとだにうきを語らん故郷を
   しのふもつらし春雨の比
 夜な〳〵になれてもつらし草枕
   かり寝の山の日数へにけり
十一日、暁の比より雨やみぬ
 故郷の便りいかにと待つかとの
   たひ寝も覚よ明ほのゝそら
 さひしさは山の嵐の音はして
   あかし兼たる長き日の影
かの焼亡のこと、ことゆえなくゆりける(※註30)むね江都(※註31)より仰くたりしをかしこまりて
 待つけてひらくもうれし君か代や
   恵の露のかゝる言のは
 けふよりそ思ひの雲ははれにける
   かさなる山の奥も尋ねん
十二日、山家の桜をみて
 たつ雲のはれ間に匂ふ桜花
   さかりを何と人のとひこぬ
おなし所にて松を
 爰に来て聞もしつけし山住の
   こゝろににたる松風のこゑ
十三日、西の一二の牧の駒捕(※註32)に出て朝路の山を
 わけきつる山はいく重と嶺岡の
   朝路のとけき松の下みち
初て駒捕をみて
 谷みちもはるけき牧に歩きつゝ
   ひとにしたかふ駒のやさしさ
此日志田ヶ尾といふ所にて村雨の降りけるに岸の柳なと見わたす
 したか尾のきしに生そふ青柳の
   糸よりかけてけふるはる雨
同し所にてこの比駒の生れしときけは、まかりてかの駒を撫愛れは、母なる馬の恐れて退ぬるか、暫してかの駒を放すに、人々に随ひまとひて親馬の方へゆかす、人みな退けはまた本のことく一所に寄あひけるを人々あはれかりける
 駒さへも生し始はすくなるを
   ひとの心よ斯そ有へき
嶺岡山(※註33)より夕栄の富士をみて
 夕日さす霞の空のはれて今
   みね岡山にむかふふしのね
所々見廻りてはや暮におよひぬ
 岩ねふみ帰るさ遠し嶺岡や
   しら雲かゝる夕くれのやま
嶺岡山にて春の月をみて
 爰たにもくらからぬ世のしるしそと
   みねおか山の春の月かけ
十四日、東上下の牧の駒とりにいてつ
 いはひつゝよりもつかれぬ荒駒を
   捕手のものゝなれしあつかひ
御牧場のうちに浅間といふ高山(※註34)あり、登りて彼宮に詣つ
 こゝにけふ登りてそしる此山の
   宮居久しき神のみつかき
駒捕もをはりて帰る折から雉子一羽鉄砲にてうち留しとて持来りしを
 鳴きしらすいつこのかたとみるかうちに
   をのか声よりかゝるはかなさ
十五日、雨降れは旅宿に休らふ、此日故郷のたより有ていつものことく庭の花咲しよし告来れは
 春毎に見馴し花のさかりそと
   きゝしに猶も思ふ故郷
十六日、今日は御馬を撰はんとて宿におり
十七日、柱木牧といふ所にまかる、駒とりあり、直に見廻りしに山際の民家に桜の盛なれは
 やま陰は雪や残るとみるまてに
   軒端をうつむ花の一むら
此日はかなたこなたとたとりしまゝ日もくれ、山路の月とともに夜ふかくやとりに帰りけれはいとかたしたり
 今宵しも只いたつらに嶺の月
   さやけき影をふしなからみる
十八日、けふはうへの御れう(※註35)の御馬を望めるかた(※註36)へ下し賜けれは、かしこさのあまり聊捧物なと奉らんと人々いふを物の陰より見て狂歌
 先陣を我も〳〵とするすみ(※註37)
   馬をかはんと踏込にける
十九日、しのゝめの比より旅宿を出て御殿ヶ嶽(※註38)といふ所に行時、狼を捕しを見てたはふれに
 人をおふ狼といふ名にも似す
   ひとに追れて爰に捕れぬ
廿日、旅宿にありていろ〳〵の事とも取調るに、まつかせの音侘けれは
 故郷の便りを日〳〵に松風の
   をともことにそしらへあはせる
廿一日、明はなるゝ比より旅宿をいてゝ東の御牧場を見めくりけるに萩塚といふ所あり、此所に老たる松あり
 いくちとせつきぬ老木も若みとり
   ふりせぬ御世の松の春風
此御牧場よりは荒海近けれは、波の音いとはけしく、遥に見渡すにとまりもなく、いつくのはてとも知られさりしかは
 立波のすゑはいつくとわかなくに
   むかふ海辺の風のはけしさ
是より礒辺に出て
 岩ねふみ見るかた遠きうら海士や
   なみのもくすをかき馴てすむ
廿二日宿にて調物する折から、故郷に植置し菊(※註39)、れいのことく此春も花咲しよしを告来れは
 菊もはや咲ぬと告る故郷に
   かへる日数を待そ久しき
廿三日此日も宿におるに主のかた賑ふさまなり、何そととへは、その子の生れし日とそいふ、やかてたむしやう(※註40)といふ文字を句の上にして
 たのもしくむつましき哉しけりあふ
   やとの春日のうちのにきはひ
白牛(※註41)の乳は御薬になりぬれは、其こゝろみせんと心を尽す
 いそけとも牛のあゆみの遅けれは
   千里のみちをいかゝひくへき
故郷のかたへ引かへらんまても、まつ此所にてその乳の効を試みんとて、夜更ぬるまて色々と調して、からうして漸酪(※註42)の形になしぬ、狂歌
 手を尽し世上の人のたすからは
   これより上のあんらくはなし
廿四日、西の牧残なくみめくりて愛宕の社(※註43)に詣て
 遠方やたつ木も知らぬ山のおくに
   たかくもあふく朱の玉かき
御牧場の公役も悉くはてけれは、かへさ(※註44)に趣くのみ用意す、斯て過ぎにし比聊こゝろ障なる事の有けれは、慎むほと山の浮雲はれぬおもひなりし
 日数へはやかてもはれん山の端に
   おかしもかゝる風のうきくも
廿五日、此日は終日旅宿に休らふ
廿六日、あすははやかへるさの旅に出立んとて、上下皆其用意せしに、なを此宿の草の枕、露の名残おしかりける、されと此ほと御牧場の事、のち〳〵のとり計ひ此所に有しことゝも、年月を経てまたも来りなは其いさをしは見ましと、旅宿の軒端なる松を見て、旅宿松といふを題にて
 十かへりのみとりの春を重ねなは
   また来てとはん宿の松かけ
廿七日、朝とく旅宿を立出ぬれは、空も名残を思ふにや雨いたう降る、さてきのふ故郷の方より慎むへきこと(※註45)もはへれは、帰郷すも 御殿のことは用捨(※註46)有へきとの事なれは、中々勇し(※註47)からて
 故郷の便りの雲も晴やらて
   こゝろほそのゝみちの春雨
なを行程にいと広き河原のいくつともわかす、かなたこなたへ渡りしかと、さのみ時も移らさりけり、あたりの人にとへは佐野村川といふ
 帰るさの心やさすか水はやき
   さのむら河の幾瀬すきけん
かの河原を過、又嶮しき山路を越て
 さかしさ(※註48)をこらえつゝおもふたひ衣
   かさなるみねの跡のしら雲
廿八日、佐貫の宿を出つ、みちの桜をみて
 わくらはに(※註49)みるはめつらし山桜
   いそく旅路のあともかすみて
礒辺にやすらひて
 太山路を越きて礒をみわたせは
   汐路もあらくかへるしらなみ
春風の吹に今井といふ浦(※註50)にて
 かせわたる今井のうらの夕波を
   つはさにかけてかもめ鳴こゑ
姉か崎に泊る
 立帰る海辺の宿のかりまくら
   なみのうきねの夢も結はて
廿九日、とまりを出て
 朝日影うつろふ野辺の露分て
   あかる雲雀の声も長閑し
 あさなきにいとなむ海士の汐けふり
   いつる日影も曇るかとみる
袖しか浦といふ所に、心ありけなる橋あり、あたりの人にとへは橘姫(※註51)の君を待しはしといふ
 うき旅路帰るころそと橋かけて
   袖しかうらに誰か待らん
 うきなから帰さの路にふみそみる
   ふりし袖しか浦の掛はし
八幡の泊りにて供なるものとも、たひ路はつらき事とも多かりけりと申に
 たれもしれうきも日数の程ふれは
   旅のかり寝も今宵のみなる
三月朔日、八幡の宿を出て
 深山にはあらぬ旅路の村すゝめ
   にきはひつれてけふや帰らん
千住の駅に休らひしか慎む事のある故、ふるさとより出むかふ人もなし
 いさましく帰るへき身も慎みの
   心のうちをたれかしるへき
程なく帰郷す、まつ父母の君恙なくあらせ給ふをうかゝひ、礼しはへる