註1 可不盡心守

 「中庸」第三十三章に「学ぶ者は心を盡くさざる可けんや」とある。
 
註2 のちのきさらき(=後の如月)

 如月は陰暦二月の異称。「後の如月」は「閏二月」のこと。
 
註3 山下

 上野の東叡山南麓にあった火除地で、俗に山下と呼ばれ、茶見世や見世物などが出て、両国広小路などと並んで、江戸屈指の盛り場であった。
              ―『東京都の地名』(平凡社)―
(以下地名・神社などについては、特記なき限り平凡社又は角川書店の地名辞典に拠った)
 
註4 立場

 街道で馬方・駕舁・人足などの休息する所。
 
註5 千住

 日光道中の初宿で、江戸四宿の一つ。
 
註6 新宿の渡

 亀有村(現葛飾区亀有)から新宿村に渡る中川の渡し。
 
註7 市川の関

 小岩市川関所。この関所を管轄したのは関東郡代伊奈半左衛門忠尊だが、寛政四年正月に罷免され、同三月に改易された。(『小平市史』)後任は別系統の伊奈氏が三月に赴任。引き継ぐまで前任の伊奈氏がその任にあったと思われる。
註8 八幡村=現市川市八幡。

 
註9 船橋の宿

 現船橋市。佐倉道・上総道・御成街道・行徳道が合流・分岐する交通の要衝であった。
              ―『船橋市史』―
 
註10 検見川村=現千葉市花見川区。

 
註11 寒川村白はた大明神

 現千葉市中央区所在の白旗神社。治承四年(1180)石橋山の合戦に敗れた源頼朝は、再挙を図り千葉城主千葉常胤を頼って千葉を通過する時、結城稲荷の境内に源氏の白旗を立て、その一旒を奉納したことにより白旗(幡)大明神と呼ばれるようになった。
 なお、義経を祀る白旗神社は神奈川県藤沢市にある。混同したと思われる。
 
註12 袖しか浦

 登戸の浜 此のあたりを総て袖しが浦といふなり、海辺より四方十一箇国の山々見ゆ、江戸迄海上の道のり六里あり、晴天の日には品川高輪御殿まで見ゆるなり。
              ―「下総名勝図会」―
 
註13 千葉常胤の城跡

 「千葉常胤は平安末・鎌倉前期の武将で、源頼朝との絆が強く、鎌倉幕府創設の功労者の一人」(『新潮日本人名辞典』より)。亥鼻の舌状台地に城を構え、その居城は亥鼻城または千葉城と呼ばれた。
 
註14 父正利の知る所

 作者正倫の父正利の知行所。解説参照。
 
註15 八幡の社

 現市原市所在の飯香岡八幡宮。
 
註16 ふりせしな(=旧りせしな)

 古くなる、古びる。
 
註17 姉か崎

 現市原市姉崎。房総往還船橋を起点として約三十七㌔で八番目の継場。
 
註18 くらなみといふ所

 現袖ヶ浦市蔵波。
 
註19 海のうちに鳥居立り

 蔵波八幡神社の祭では、神輿は「お浜下り」といって、蔵波海岸の海中にある鳥居まで渡御した。江戸時代に建てられた鳥居は、干拓に伴って昭和四五年、現在地(長浦駅北口公園内)に移されたが、老朽化が激しいため平成二年に解体され今では碑が残っているのみである。
              ―袖ケ浦市郷土博物館『「写真で見る袖ヶ浦の今昔」記録集』より―
 
註20 八幡の御手洗

 「享和二年三月吉日と刻まれた御手洗石が奉納されている」(『袖ヶ浦町史』より)ことから、作者正倫が訪れた時は、まだ、井筒のみであったと推測される。
 
註21 市場の渡し

 坂戸市場村から高柳村に渡る小櫃川の渡し。
 
註22 佐貫

 現富津市佐貫。佐貫藩一万六千石の城下町。房総往還の宿場としても賑い、船橋を起点として約七十七㌔で十二番目の継場であった。
 
註23 しのゝめ(=東雲)

 あけがた、あかつき。
 
註24 木の根坂

 現富津市豊岡。後註四の通り、「木ノ根峠を越え」る難所。下段に「けはしき坂にして木の根にすかりて上る」とある。85頁註参照。
 
註25 関(=関村)

 現富津市関。湊川上流域に位置する。村名は戦国期に関所が置かれていたことに由来するとされ、湊村から関を通り松節村木ノ根峠を越えて安房方面に向かう往還が通る。往還継立場で鹿野山へ通じる往還と三差路になっていた。
 
註26 嶺岡の役所

 嶺岡牧の役所。長狭郡八丁(八町、現鴨川市)に置かれ、八丁会所・八丁陣屋とよばれた。
 
註27 所を常に預りし者

 嶺岡牧を管轄した御馬預り斎藤安栄(百俵五人扶持)。初代三右衛門盛安が嶺岡牧の管理を命ぜられ、代々引き継ぎ安栄は四代目。寛政三(1791)年、家を嗣ぐ。同五年行跡悪く小普請入り。
              ―『富津市史』―
 
註28 さわかしい=忙しい、慌ただしい。

 
註29 細野村

 現鴨川市細野。西二牧の野付村。宝暦十年(1760)当村の牧士である吉野五郎兵衛が牧士触頭に任命されている。
 宿舎としていた嶺岡役所が初日の夜焼亡したため、急処牧士触頭吉野宅へ宿替えした(『松戸市史』)。
 
註30 ことゆえなくゆりける(=事故なく許りける)

 差し障りなく許される。
 
註31 江都=江戸。

 
註32 駒捕

 野馬取りともいう。牧の最大の行事である。嶺岡牧の場合は、冬の二、三月に行われていた。
 野馬取りには、野付・野続村々から追勢子人足が動員され、勢子廻の指揮のもと牧のすみずみから野馬を追い出し、捕込とよばれる捕場に追い込む。
 捕獲された野馬は八丁陣屋にあった厩舎につながれて、良い野馬は江戸に送られ、選抜からもれた野馬は払い下げられた。
              ―『鴨川市史』―
 
註33 嶺岡山

 嶺岡山という山はなく、千葉県最高峰の愛宕山(標高408・2㍍)を中心に、東西方向に延びた標高100~400㍍程度の山地一帯を嶺岡山系という。
 
註34 浅間といふ高山

 現南房総市にある嶺岡浅間(360・2㍍)。愛宕山(408・2㍍)とならぶ嶺岡山系の主峰の一つ。山頂に浅間神社がある。
 
註35 御れう=御料(幕府領のこと)。

 
註36 御馬を望める方へ下し

 天保~嘉永期の野馬払い下げ一頭当たりの代金は約一四両で、代金は五~一〇年の分納であった。
              ―『鴨川市史』―
 
註37 するすみ

 源頼朝にはいけずき・するすみという名馬がおり、するすみを梶原源太景季に与え、いけずきを佐々木四郎高綱に与えた。宇治川の合戦の際、両者はそれぞれの名馬に跨がり、先陣争いを演じ、いけずきが先陣を切った。
              ―「平家物語」巻第九より―
 
註38 御殿ヶ嶽

 南房総市にある御殿山で標高363㍍余。山名の由来は日本武尊が東征し安房を平定したとき、平定地を一望できる山頂に御殿を設けたことによるという。
 
註39 菊

 春菊のことか。
 
註40 たむしやう

 たんしやう(誕生)の意か。
 
註41 白牛

 享保十二(1727)年に第八代将軍徳川吉宗がインド産の白牛三頭を輸入し、嶺岡牧に放って繁殖を進めたと伝えられる。
              ―『鴨川市史』―
 
註42 酪(白牛酪)

 バターのこと。作り方は、牛乳を唐鍋に入れて砂糖を混ぜ、火にかけて丹念にかき混ぜながら、石けんくらいの硬さになるまで煮詰めたもので、亀甲形をしていたといわれている。これは非常に貴重なものとして、病人などはそれを削ってお茶で飲むなどしていた。その薬効は、結核・婦人病・便秘症・中風などに効き目があったといわれている。
              ―『鴨川市史』―
 
註43 愛宕の社

 南房総市の愛宕山にある愛宕神社。明治三九(1903)年の由来取調書によれば神亀元(724)年行基の開創と伝える。「嶺岡五牧鏡」に「西二牧愛宕山有之、毎年七月廿四日祭礼有之、男女参詣多シ、長狭ヨリモ参詣人出ル」とある。
 
註44 かへさ=帰りがけ、帰り道。

 
註45 慎むへきこと

 『寛政重修諸家譜』に、正倫の女子「馬場鋭太郎尚庸に嫁を約し、いまだ婚せずして死す」とある。
 
註46 用捨

 控目にすること。遠慮すること。やめること。
 
註47 勇し

 ①気乗りがする。心が奮い立つ。張り合いがある。②勢いが強い。勇敢である。
 
註48 さかしさ(=嶮しさ)

 山などが険しい、危ない。
 
註49 わくらはに

 たまに、偶然に、まれに。若葉。
 
註50 今井といふ浦=現千葉市今井他。

 
註51 橘姫

 『古事記』に「倭建命が相模から海路上総に渡ろうとした時、海が荒れて船を進めることができなくなった。海神の怒りを解くため、后の弟橘比売命が入水すると、波は穏やかになり船を進めることが可能になった。七日後に、后の御櫛が海辺に着いた」とある。
 しかし、「橘姫の君を待ちし橋といふ」の資料は見出せない。
 なお、千葉市に現存する「君待橋」については以下の通り。
 君待橋は現千葉市中央区港町の、新川と呼ばれる小川に架けられた小さな石橋であったが、昭和五十五年に寒川大橋より二百㍍上流の都川に新しい君待橋が架けられ、元の場所には「君待橋舊跡」という碑が立っている。この橋には千葉市三大伝説といわれた「君待橋伝説」が伝えられている。
 ①長徳年間(995~998)藤原実方が陸奥に赴く途中、此の橋の名前を里人に聞くと「君待橋」という風情のある答がかえってきたので、「寒川や袖師が浦に立つけむり 君をまつ橋身にぞしらるる」と詠んだという。
 ②治承四年(1180)千葉に来た源頼朝を千葉常胤一族が、この橋で出迎えた時、頼朝がこの橋の名を尋ねたのに対し常胤の六男胤頼が「見えかくれ八重の潮路を待つ橋や渡りもあえず帰る舟人」と詠んで答えたという。
 ③昔この橋の近くに美しい乙女がいて、いつも橋の袂にたって対岸からくる若者を待っていた。ある日大雨で橋が流され、茫然として対岸を眺めていると、若者は泳いで渡ろうとしたが、途中力尽きて水中に没した。これを見て乙女は悲しみのあまり、自分も激流に身を投げ恋人の後を追った。この後里人はこの橋を「君待橋」と呼ぶようになった。
              ―岩月忠男『わが町の旧跡を訪ねて』(和泉書房)、NET「コースで巡る千葉市」―