[二]作成者並びに成立時期

 この紀行文の作成者並びに作成年代も前記目録に記されていないが、文中に記されている事柄から考察するに、作成者は江戸幕府旗本岩本石見守正倫(まさとも又はまさとし)、作成年代は寛政四年(1792)と断定できる。以下に詳述する。
 
 (1)作成者
 この紀行文の作成者は、文中に手掛かりとなる二つの材料を提供してくれている。
  ①「平岡与右衛門正興待合ひて是よりともなふ」(1頁上段)
  ②「父正利の知る所を通り、八幡の社へ詣てゝ」(3頁上段)
 の二点である。
 ①は、同行者が平岡与右衛門正興であることを示している。
 平岡与右衛門正興まさふさは『寛政重修諸家譜』の中にその名があり、それによれば蔵米三百俵取りの旗本で、安永五年(1776)に書院番の番士となり、天明四年(1784)十一月小納戸、寛政九年(1797)将軍世継の家慶に付属されて江戸城西の丸に詰めた。
 ②は、作成者の父の名は正利で、八幡の社の近くに知行地があることを示唆している。
 ②が記されている四日の旅程をみると、船橋の宿を立ち、検見川~寒川~袖ヶ浦~千葉城跡を経て、父の「知る所」(=知行地)を通り、八幡の社に詣でて、姉ヶ崎の宿に着いている。千葉を過ぎての八幡の社は、石清水八幡宮別宮の市原八幡宮で、徳川家康から所領百五十石を安堵され、十万石の格式を与えられた飯香岡八幡宮(現千葉県市原市八幡に所在)のことであり、この宮が鎮座するところの八幡村(上総国市原郡)に父正利の知行地があったと読み解くことができる。
 『旧高旧領取調帳』によれば上総国市原郡八幡村は、幕府領・八幡社領・旗本七氏(松本・村上・岩本・水野・永井・河野・佐野)の相給となっている。次いでこの旗本七氏の家系を『寛政重修諸家譜』で調べたところ、岩本氏の家譜で「正利」を見出した。
 岩本氏の先祖は甲斐国巨摩郡岩下村に住し、岩本と称し、次郎左衛門正次の時に紀伊大納言頼宣に仕え、三代目にして正房に至り、享保元年(1716)頼宣の孫吉宗が江戸幕府第八代将軍として江戸城に入るに従い、御家人に列せられ、廩米三百俵の小姓となった。以後、正久~正利と続く。
 正利は、天明二年(1782)に廩米三百俵から二百石加増され五百石となり上野国勢多郡に知行地が与えられ、更に同七年に上野国勢多郡、緑野郡、上総国市原郡三郡の内に五百石の加増があり計千石を知行することとなった。その後更に、寛政九年(1797)に上総国市原、上野国緑野両郡において千石を加えられ、計二千石を知行することとなった。
 正利のこの昇進は十一代将軍徳川家斉との血縁関係が大きく関与している。家斉は一橋治済はるさだの四男で、生母は正利の娘お富の方であった。正利は、将軍家斉の祖父であったのである。
 この両度の加増の際の村名は不詳だが、寛政五年(1793)の村高帳に市原郡八幡村に相給で岩本の名があり(『千葉県の地名』)、天保一二~三年(1841~2)頃に作成されたと考えられる「上総国市原・長柄・埴生・夷隅郡村高帳 乾」(船橋市西図書館所蔵史料集第一集『村高帳(上総)』所収)の八幡村相給の中に岩本石見守(子)の名があり、更に幕末時の『旧高旧領取調帳』の八幡村に岩本内膳正(孫)の名で二百四石余の知行地が記されている。これらのことから、正利が天明七年に上総国市原郡八幡村に知行地を与えられてから幕末まで代々変わらずに知行していたと考えられる。
 これにより本紀行文の作成者は、岩本正利の子、正倫で、父の知行地は上総国市原郡八幡村(相給)であると結論することができる。
 なお、『旧高旧領取調帳』の岩本内膳正は正利の孫正遠と考えられる。更に同書には内膳正の名で市原郡海保村にも一二四石余の知行地が記されている。
 この紀行文作成者である岩本正倫は、小姓組番を経て、安永六年(1777)小納戸(奥向にて将軍の身辺日常の雑務に従事)となり、天明七年(1787)小納戸頭取格、寛政四年(1792)五月には部屋住(家督を継いでいない状態)でありながら小納戸頭取となった。寛政六年に先手鉄炮頭に転じ、寛政十年新番の頭に転ずる。その後、文化三年(1806)に小普請組支配、同年家督を継ぎ、翌年浦賀奉行を経て、文化十年に第十二代将軍家慶の長男竹千代(一歳に満たず夭折)の御側として西丸に詰め、文政四年(1821)に没している。
 「寛政武鑑」(『江戸幕府武鑑編年集成』)の寛政三~六年に、小納戸頭取衆に岩本石見守、小納戸衆に平岡与右衛門が載っており、二人はこの間職務上の上下関係にあった。このことが「千住にて正興待合ひて是よりともなふ」ことになったのである。
 
 (2)成立時期
 旅の出発日は「のちのきさらき三日」である。「きさらぎ(如月)」は陰暦二月の異称で、「のち(後)の如月」は「閏二月」のことであるから「閏二月三日」に旅立ったことになる。
 岩本と平岡が小納戸に同時に奉じていた時期は、天明七(1787)年~寛政六(1794)年までの七年間であり、この期間に閏二月があったのは寛政四年のみである。なお且つ、この紀行文の日程をみると、日付順に記録されており「のちのきさらぎ」廿九日から三月朔日に日付が変り、「三拾日」の記録がない。このことからこの「のちのきさらぎ」は「三拾日」のない「小の月」と思われる。寛政四年閏二月は「小の月」である(野島寿三郎編『日本暦西暦月日対照表』)ことから完全に符号する。
 したがって、この紀行文は寛政四年(1792)に書かれたものであると断定できる。
 
 (3)寛政期の牧の改革と嶺岡牧視察の旅
 松平定信の寛政改革に伴う牧の改革は、牧経営の合理化を進めて独立採算制を完全なものにし、加えて上納金の増収を計る一方、良馬の増産を実現させるというものであった。
 嶺岡牧はもともと効率の悪い牧場で、支出経費が年々増高し、かねてから問題となっていた。松平定信に起用された将軍御側申次加納遠江守久周(ひさのり)は、この嶺岡牧の諸入用経費節減の改正調査方を小納戸頭取格の岩本石見守と平岡与右衛門の両人に命じ、両人は寛政四年閏二月、現地に赴いている(『松戸市史』)。
 まさにこの現地調査のために嶺岡牧を往復したときの紀行文が本文書である。