[三]嶺岡紀行について

 (1)旅行の足取り
 この旅行の足取りを日付順に追うこととする。
 閏二月三日、江戸虎之門内の屋敷を出立し、御城を拝して上野山下まで行き休息し、日光道中初宿の千住で平岡正興と待ち合す。見送りのものもかれこれ来る。ここで見送りのものと別れ、新宿の渡しを渡り昼食。真間・鴻之台を遥かに見て、小岩・市川の関から八幡村を経て船橋に泊まる。四日、野路に鶯の鳴き声を聞き、検見川村の海辺に鳥居二柱建つのを見て、寒川村~袖しか浦~父の知行地八幡村を通り八幡の社に詣で、姉崎に泊る。五日、蔵波でまた海の中の鳥居を見、市場の渡しを渡り、山道にさしかかり、雨風の激しい中、佐貫に泊る。六日、関から木の根坂の難所を経て嶺岡役所(嶺岡牧を管理するための陣屋)に到着した。宿所はこの嶺岡役所で二十余日間宿泊の予定であったが、到着した日の夜、故意か偶然か、出火により嶺岡役所が焼けた。その夜は幕をめぐらす術もなく焼け跡で過ごし、明け方、近くの民家から案内あり世話になる。その後、嶺岡牧牧士もくし触頭である細野村の吉野五郎兵衛宅に宿替えを余儀なくされた。
 七日以降は、幕府への報告、火事の後始末に追われる日々を送るが、十一日に幕府から火事のことは「ことゆえなくゆりけ」られ(差し障りなく許され)、「待つけてひらくもうれし君か代や恵の露のかゝる言のは」とその喜びを詠んでいる。
 十三日から現地での活動を開始し、まずはじめに西一・二牧の駒捕、十四日東上・下牧の駒捕、十五日は雨天にて休息、故郷から例年の通り庭の花が咲いたとの便りが届く。十六日馬撰び、十七日柱木牧の駒捕、十八日馬の払い下げ、と一連の行事を終え、十九日御殿ヶ嶽に登り、二十日は宿にて雑事整理、二十一日東牧視察、二十二日故郷から「植え置いた菊が咲いた」との便りが届く。二十三日は宿舎としている吉野家が子供の誕生日で賑やかなことに寄せて、「たむしやう」(誕生の意か)という文字を句の上にして「たのもしくむつましき哉しけりあふやとの春日のうちのにきはひ」と心温まる歌を詠んでいる。白牛酪(後記)の製造も試みる。二十四日西の牧を視察し、これにて嶺岡牧での業務を悉く終える。
 二十五日宿にて休息、二十六日明日の帰路出立の準備中のところへ、故郷より「つつしむべきこと」の報せが届く。『寛政重修諸家譜』に、正倫の女子「馬場鋭太郎尚庸に嫁を約し、いまだ婚せずして死す」とあるが、このことを指しているや否やは不明である。
 二十七日激しい雨の中を出立、佐貫に泊る。二十八日姉ヶ崎泊まり、二十九日八幡泊まり、三月一日千住宿で休息するが「つつしむべきこと」のため故郷からの迎えすらなく、幕府への復命も出来ず帰宅、父母の恙無きことに安堵し、ほぼ一ヶ月に亘る調査旅行を終える。
 
 (2)旅行の供連れ
 岩本石見守は、旅行を行った寛政四(1792)年の5年前天明七(1787)年に小納戸から小納戸頭取格に昇進しており、それなりの供連れがあったと思われる。紀行文の所々に表れるものを拾うと以下の通り。
  ①駒とめてしはしやすらふ(1頁上段)
  ②市川の関には関守ののりものゝ戸をあけよといふ、戸はあけすすたれそあけたる(1頁中段)
  ③従者にとかくよういすへきよしを仰せ(4頁中段)
  ④武具のみのこりてみな烟となりぬ(5頁上段)
 ①の駒は、乗馬用か荷物運搬の駄馬かははっきりしないが、歌に詠んでいるところから乗馬用と考えたい。②にある通り「のりもの」に乗って市川の関所を通っている。通常の駕籠より高級な駕籠を「乗り物」と呼んでいた時代であり、引き戸付きの駕籠であったろう。③に従者、④に武具とあるところから、鑓持などの従者がいたことが窺える。
 旅行を終えた直後の寛政四年五月に小納戸頭取(千五百石格)となり、同五年に「小金牧・佐倉牧当分御取締取扱い」を命ぜられ、翌六年二月に小金牧の捕馬見分に赴むく際の供連れの記録がある(『松戸市史』)。
  先番 乗掛壱駄 中小姓一人 足軽一人 中間一人 具足三人中小姓四人 徒歩二人 駕籠人足四人 鑓持一人 草履取一人口附二人 両掛人足二人 竹馬人足一人 乗掛馬二疋 その外弓、持傘持など
 人数は二十人余となる。嶺岡への出張は「頭取格」であったが、伴連れには大きな差はなかったと考えられる。更に平岡の伴連れを合わせば一行の人数は三十名程度の旅行団であったと考えられる。
 
 (3)旅行のまとめ
 「仰せことを蒙りて嶺岡の御牧場にいて立」ったが、嶺岡牧に近づいても迎えが来た形跡が見えず、剰え、到着当日の夜に宿舎としていた嶺岡役所が焼失した。その夜は詮方無く焼け跡で過ごし、明け方、近くの民家から案内あり世話になるという変事に遭遇している。今回の旅の目的が「嶺岡牧の諸入用経費節減の改正調査」であったことから、恐らく現地からは歓迎されざるものであったと考えられ、出火も故意と考えられなくもないが確証はない。
 この紀行文には九十三首の歌が詠まれている。故郷(江戸)を離れての二十八日間の慰めは歌を読むことと故郷からの便りであったことがよくわかる。帰る間際に故郷から「慎むべきこと」の便りが齎された。前記の通り、娘の死去の記録が残されているが、このことの可能性は否定出来ない。このため、千住に到着しても迎えの者はなく、御城へ登ることも憚れ、傷心の帰宅であった。