(1)房総三牧(小金・佐倉・嶺岡)の一括支配と施策
寛政(1793)五年十月、嶺岡牧改正に功績のあった石見守は、房総三牧(小金・佐倉・嶺岡)を一括支配することになる。
石見守は、嶺岡牧への旅の後、同牧の諸入用経費節減と馬増殖に務め、成果を挙げた。この仕法を小金牧・佐倉牧にも取り入れ、各牧の経費節減による牧経営の採算向上と、馬売却等による上納金の増収策を計った。
寛政五年の嶺岡五牧牧馬466頭は寛政九年には678頭となり、4年間に212頭殖え、宝永年中(1704~1710)改めた折の、30頭余からみると、大幅な増加であった(『千葉県畜産発達史』)。
また、石見守は嶺岡牧で飼育していた白牛の乳を利用して作った白牛酪を滋養強壮・解熱の薬として家斉に献上し、自ら記した製法をもって製造・販売を上申し、その許可を得た。
更に、嶺岡牧内では松などを炭にして商品化している。石見守による炭商品化政策に基づいて「御用炭」として江戸に送られた炭が御用商人によって販売されていた。
寛政六年二月からは、小金・佐倉牧に十五万本もの松・杉・椚などの苗木が植え付けられるようになり、炭・薪の生産を奨励した。椚を用いた炭は茶道用に使われるほど良質でかつ安価な黒炭「佐倉炭」として知られるようになり、特産物の番付表に取り上げられるまでに評判となり、「佐倉炭」というブランドが生まれるきっかけを作った。
同時に各牧の出入口に野火注意、伐採禁止の樹木保護の制札が建てられた。俳人一茶の「しぐるるや 煙草法度の小金原」という句も、恐らくこの時の制札を見て詠んだものであろう。
このような石見守の牧改革は、寛政の幕政改革の時期と符合しており、その施策も時の改革との同調路線をとっていた。
(2)感恩碑
牧場周辺村々にとっての大きな問題は、野馬が里近くに進出して耕作物を食い荒らすことであった。この対策として石見守は、耕作地続きの牧場原野の開発を許可し、村側が野馬の出入を承認した上での新田、野馬入新田を認めた。もともと広大な山林原野の中に野馬が群れを作り自然繁殖していた場所を牧場としていたため、明確な境界が設定されていたわけではなかったが、この開発により樹木が適度に間伐され野馬の寒暑凌ぎ、あるいは馬糧の涵養地として牧場経営からも極めて好都合であった。村民側からも薪炭、秣場としてのみならず、野馬里入りの緩衝地帯としても好ましいものであったようである。この開発を許可し、農民にとって野馬から耕作物を守るという長年の願いが叶ったことから、石見守への感謝の記念碑である感恩碑が建てられ、今も流山市、野田市に残されている。