(1)幕府直轄の牧場
近世の房総には、幕府が直接管理する小金牧・佐倉牧・嶺岡牧と呼ばれた三つの広大な牧場があった。いずれも戦国大名が軍馬供給のために所有していた牧場から系譜を引くもので、主に幕府の軍馬、つまり江戸城の厩へひき入れる駒(乗馬用)を供給するために設けられたものである。房総以外では寛政八(1796)年に開設された駿河国愛鷹山の愛鷹牧があるが、その規模からいえば、房総の牧場は幕府の主要な牧場であった。
牧場とはいえ、近世の牧場は柵などで囲われ整備された牧草地ではなく、山林原野に野生馬(野馬)を自然放牧し、自然繁殖に頼っており、計画的な馬産には程遠い状態であった。
しかし、まったく人の手を必要としなかったわけではなく、牧場の管理・運営に実に多くの役職が複雑にかかわり、現地には多数の実務担当者が存在し、周辺村落にはさまざまな役負担が課せられた。
(2)嶺岡牧の起源
安房の山地はその大部分が急斜面で馬の放牧に適するところは極めて少ないが、嶺岡山脈一帯は斜面が比較的緩やかで立木少なく青草繁茂し且つ清水が所々に生ずる好条件に恵まれた地域であった。
嶺岡牧は、その前身をなすといわれている鈖師おのしの馬牧(現在の丸山町珠師ヶ谷か)のことが『延喜式』(927年)に記されていることから、相当古くからあったことがわかる。その後いつしか鈖師馬牧は廃止されるようになった。
中世の嶺岡牧は、文安二年(1445)以來、安房国を支配した里見氏が、軍馬育成の目的で開いたと伝えられているが、その創設年代は不明である。
その後、慶長十九年(1614)に里見氏は江戸幕府によって改易された以降は、幕府の管理下に置かれ、代官預りとなった。この代官預り時代には幕府は何ら積極的な経営を行わず、そのため牧は半ば放置状態にあったようで、その後、元禄十六年(1703)十一月の房総沖地震により、嶺岡山付近に尾根続きに長さ三里余りにわたって幅三~六尺の割れ目ができ、岩崩れにより多数の野馬が死滅したため牧は取り払いとなり、中絶するにいたった。
(3)近世の嶺岡牧
これまで全く顧みられなかった嶺岡牧は享保七年(1722)、第八代将軍徳川吉宗によって享保改革の一環として再興された。
再興された嶺岡牧は、享保七年には西ノ牧・東ノ牧の2牧であったが、享保十一年には柱木牧が開かれ3牧となった。享保十二年には管理の都合で、西一牧・西二牧・東上牧・東下牧・柱木牧の五牧に区分され、嶺岡五牧と呼ばれるようになった。総面積1762町歩(約1750㌶)に及ぶ広大な牧場であった。
(4)嶺岡牧の管理
①牧の管理者
再興後の嶺岡牧は、地所は代官の管轄となったが、野馬の管理は馬預(=幕府の馬全般の御用)であった諏訪部文右衛門定軌がこの任にあたった。享保十三年(1728)三月から馬乗(=将軍召馬の飼育・調教)であった斎藤三右衛門盛安にかわり、以後斎藤氏が三代にわたり嶺岡牧を差配した。盛安は馬術に大変優れていたとみえ、吉宗の命により、長崎から召喚したオランダ人に弟子入りし馬術を学び、これを子孫にのみ伝え他家に洩らすことを禁ぜられたという。斎藤氏は常に江戸にあり、通常は書翰で在地の牧士らと連絡を取り、ことあるごとに嶺岡の地へ出役するかたちをとっていた。四代安栄は、寛政五年行跡悪く、小普請となり、出仕をとどめられた。以降、嶺岡牧の管理は岩本石見守の管轄に移ることとなった
②嶺岡役所
牧場管理のために、享保二〇年八丁の地(現鴨川市)に陣屋が建設された。この八丁が選ばれたことは、ここが嶺岡山脈にあって東方に東牧、西方には西牧、南方に柱木の各牧があり、丁度その中央に位置した中心地で、管理上至便の位置を占めていたからにほかならない。
この陣屋へは、幕府役人が、年数回出張してきて、ここで業務の処理にあたり、平素は牧士がここに集まって、管理事務を処理した。
③牧士
牧士は牧場の実務担当者で、近隣村落の有力農民で馬の調教や馬術に優れた者が登用された。
嶺岡牧では再興当初は八人が牧士に任命されたが、安永四年(1775)には増減を経て十四人となり、そのうち一人が「牧士触頭」に任じられた。石見守が訪れた時は細野村の牧士吉野五郎兵衛がその任にあたっていた。
牧士の主たる業務は牧場での野馬の育成である。朝夕に牧場内を見回り、異常がないかを確認し、負傷した野馬やはぐれた子馬を発見した場合、自宅などへ連れ帰り治療・養育した。また野馬を襲う狼・野犬の動きに留意し、これを防ぐため鉄砲も預かった。野馬の逃亡を防ぐための野馬除土手や、野馬捕用の捕込など牧場内外の普請の見分、普請のため周辺村落への御用人足触を行うなど牧場の整備も職務となった。
④駒捕(野馬捕り)
駒捕は、牧の最大の行事であり、嶺岡牧では冬の二、三月に行われた。周辺村落から追勢子人足が動員され、勢子廻の指揮のもとに牧のすみずみから野馬を追い出し、捕込と呼ばれる捕場に追い込み、捕獲される。
捕獲された野馬のうち、良い野馬は江戸に送られ、選抜から漏れた野馬は近隣農民に払い下げられた。種馬として残すべき牡馬及び繁殖用の牝馬・当歳馬は牧へ返された。
⑤払い馬代金
払い下げの野馬頭数と平均代金の推移は次の通り。
払下げ頭 1頭当たり平均代金
寛永八年(1631) 19頭 約1分弐朱
同一四年(1637) 17頭 約2分弐朱
天保二~嘉永二 349頭 約14両
(1831~1849)
代金は5~10年の分納で支払った。
(5)白牛酪
吉宗は、享保十二(1727)年インド産の白牛三頭を輸入し、嶺岡牧に放って繁殖を進めたと伝えられている。岩本石見守が寛政四(1792)年に嶺岡牧に赴いた当時には、白牛は七十頭ほどに繁殖増加している。
この牛の乳で白牛酪を作った。紀行文の中でも、嶺岡牧に滞在中の二十三日に「乳の効を試みんとて、夜更ぬるまて色々と調して、からうして漸酪の形になしぬ」とあり、白牛酪の製造を試みているが、本格的な製造は、江戸の野馬方役所に牛部屋と酪製薬所をもうけたことに始まる。
作り方は、牛乳を唐銅の鍋に入れて砂糖を混ぜ、火にかけて丹念にかき混ぜながら、石鹸くらいの堅さになるまで煮詰めたもので、亀甲形をしていたといわれている。これは非常に貴重なものとして、病人などはそれを削ってお茶で飲むなどしていた。その薬効は、結核・婦人病・便秘症・中風などに効き目があったといわれている。
これらは白牛三薬(白牛酪・玉洞丹・玉蓬水)として、慶応三(1867)年まで製造販売が続いた。
(6)嶺岡牧への経路(22頁地図参照)
江戸から房総へ達する街道はいくつかあるが、公式の街道というべきものは、日本橋から日光道中で千住に至り、千住で水戸道に入り、新宿で水戸道と別れ佐倉道に入り、小岩・市川関所~八幡~船橋に至り、船橋で佐倉道と房総往還に分岐するルートであった。房総の諸大名は参勤交代のとき原則としてこの街道の利用を義務付けられていた。
房総の南部を代表する街道は内房沿いを通る房総往還である。船橋から幕張~検見川~寒川~曽我野~浜野~八幡~五井~姉崎~奈良輪をへて木更津に達し、さらに貞元~佐貫~湊~竹岡~金谷~本郷(保田)そして市部で内房沿いの道と半島内部の道に分かれ、前者は那古を通って北条へ、後者は上滝田~府中を経由して北条~館山に至る。
岩本石見守は、幕府派遣の公式な旅のためこの公式ルートを使い、江戸から千住~新宿を経て最初の宿泊地船橋に着いている。
この公式ルートは房総方面に向かうには遠回りであるため、これとは別にいくつもの近道があった。この第八集に所収の「浜路のつと」並びに「弐笑人成田参詣」に見られる通り、日本橋小網町から行徳船で行徳に上陸し、陸路船橋に入るルートもその一つであった。
「嶺岡五牧鏡」によれば、嶺岡牧に至るルートは四つあったという(地図参照)。
①この旅で辿った道(地図実線のルート)
②姉ヶ崎より小曽根、高倉、鹿野山、関、金束
但し、「天明八年(1781)、木更津から三直・六手村、鹿野山宿の継場を通り、鹿野山から関村を経て嶺岡に向かう街道(嶺岡街道)が開設」(『君津市史』)されており、地図上にはこのルートを点線表示の②とした。
③浜野より潤井戸、長柄山、長南、大多喜、松野、植野、内浦、天津、貝渚、東下牧、これを東道と云った(地図点線③のルート)
④佐貫より天神山、萩生村、金谷、保田、平久里下村、荒川村、これを西道、又は勝山通りと云った(地図点線④のルート)
(7)明治以降の嶺岡牧
嶺岡牧は、明治維新後も政府によって管理が続けられたが、明治十一年(1878)株式会社嶺岡牧社が設立され、馬354頭、牛87頭の払い下げを受けた。その後、安房畜産株式会社等を経て現在の千葉県畜産総合研究センターへつながっている。嶺岡牧跡は、昭和三十八(1963)年に、「日本酪農発祥の地」として県指定史跡に指定された。