読みかえ文

 
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弐笑人成田参詣 全
 
 
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我、世間の人を見るに、遠きを知りて近きを知らず、俗に云う灯台下暗しと云えり、遠き上方の名所を尋ぬる事を知りて、近きに数多の名所ある事を知らず、かるがゆえに行徳より始め成田迄の、近辺の名所を尋ねんと思えども、未だいとま無きより、遊人の朋友、目だ助・谷ぼ八の両人を頼み、彼の地に趣かせて、その様子聞きて、ここにあらまし愚札に述べるのみ、あゝ、この本を□(破損)落度ある時は加筆下さるべく候、猶又後[(破損)]を待つ、時に矢野氏これを述ぶるものなり
 
 
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   一行徳名所の事
   一真間名所の事
   一鴻之台(国府台)名所の事
   一八幡知らずの事
   一舟橋(船橋)名所の事
   一谷津近辺の事
   一臼井・佐倉の事
   一酒々井・成田の事
 
行徳名所の事
雅人は居ながら名所ぞ知るといえども、尋ねずんばその詳しきを得難きといえり、さて又目だ助・谷ぼ八の両人は、江戸っ子育ちにて世間を知らず、いかにしても成田近辺の名所を尋ねんと思いしに、幸いなるかな矢野氏に頼まれ、花のお江戸をあとにして出で行き、先は扇橋に差し掛かれば、後より「舟が出ます」と云われて、いさいかまわず飛び乗りけり、舟は川中に押し出せば、乗合の人々には四方山の噺にほだされてくる内、はや御番所に差し掛かれば、舟頭は棹を止めて「通りたし」と申しければ、御役人は[(破損)]
 
 
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御声により皆々安堵し、それより又、御番□(破損)過ぐれば、種々様々の噺になり、谷ぼ八・目だ助両人は名所を尋ぬる者故、所々目を付けるに、向うに石地蔵のあるを見付け、「あれはいかなればかかる所に地蔵様あるや」と云うに、舟頭答えていわく、「あれは市川はら切地蔵と申します、そのいわれは、ある武士一人の女連れ来たり、その女には男の姿とし、我が大小を差させ、渡舟に入り来たりし故、舟頭も全くの男と心得乗せて、御番所に差し掛かれば、さすがに御役人様ゆえ、にせの男と見て相糺し候所、果して女なり、段々調べければ、子細有りて主人の娘を連れ、追手が掛らん事を思い、余儀なく御関所を破りし事詳しく申上げる故、その者には切腹させ、女は打首として内々助命すとかや彼のこれを感じ、その節句にいわく
   君の為死せる命は惜しまねど
    世に関やぶりと云わるるぞ悔しき
これを聞いて皆々感じける、又ぞろ目だ助の両人は舟頭に向かい「行徳には名所あるや」といわ[(破損)]
 
 
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「何にもなしといえども、中山こんにゃく・笹屋温飩・徳願寺・塩浜・利根の川也」と云うて噺くる内に、はや新河岸に着きにけり、皆々ここより上がり、目だ助・谷ぼ八の両人もぶら〳〵と上がり見るに、数多の茶屋あり、向うには笹屋うんどんという看板ある故、両人「名所うんどんはこれならん」とて両人笹屋へ入れば、女「おはよう御座います」時に両人は「名所うどんを出すべし」と云えば、下女は弐人前持ち来たり、あゝきめふ(奇妙)〳〵と喰事はしたり□なり、代わる事十八杯、「時に勘定の義は、二八にして三百文やるぜ」と云うて、両人立たんとしければ、下女「おや、これではおあしが不足で御座います」と云うに、両人「あしが不足だ、両人では四本あるから不足の事はない」下女「三百文では三本で御座ります」両人の云うのには「わしは少しちんばだから不足でもよんどころねい」下女「おやおやそれで御座りますならば、四百文の所を少しちんばにして、三百七拾弐文まけましょう」「これは通人の姐さんだねい」下女「おや通うは唐と交易すれば横浜には
 
 
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たんとおります」両人いわく「それでは唐人となるねい、それはさておき勘定は二八では三百文になるだろう」下女「いえ、わたし所は名所うんどんである故、一ん二の勘定で御座ります、皆様もわしの所へお寄りなさると、いんに物だと申します」両人これを聞いて止む事を得ず払いけり、いん二の勘定と知らば、こんなに喰わぬものをとあきれ、一句、題していわく
   二八かと思う娘は年まゆえ
    いんにいんにと笹屋のあいてに
両人ここを立ち、塩浜を一見し、それより徳願寺に至り見るに相応の寺なり、両人拝礼しける所へ一人の老僧来しかば、両人問うていわく「この寺には因縁もあるべし、何卒御聞かせ下さるべし」と云えば、老人いわく「別しての事もなきが、当山開山上人は徳本上人と申して名僧なり、諸々修行して当寺を建立なしけるとや」又ここに一人の勇士の塚あり、何人の塚成らんと思えば、「筑前名嶋の城主真兼公の家臣吉岡太郎左衛門の一子宮本武右衛門の養子となりし
 
 
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宮本武蔵兼□(虫損)行楽周遊して後、当寺に至り参詣する処、にわかに心神の不礼(例)しければ、寺僧驚き介抱するといえども、勇士なれども天命は逃れ難き所にや、六十四才を一期と消え行くは残念なれども是非無き次第なり、これに依りて当寺葬り、改名(戒名)をば
正保二乙酉年
玄信二天居士
五月初十九日」
とあれば両人悦び聞けり、真間・鴻之台へかけて成田行く道ありと向いければ、老人いわく「ここより少々あとに戻り角道より行くべし、成田真っすぐに行く時は、行徳より妙典・田尻・原木・二股・山谷海神・舟橋・前原・大和田・臼井・佐倉・酒々井・成田なり、直く道する時はこれなれども、これは新道にして名所なし、然るより街道へ廻るべし」
とよくよく教えければ、両人悦びて老人に別れけり
 
真間名所の事
さても両人徳願寺を立ち、大和田・稲荷木を通りこの村一社[(破損)]これを甲の宮と申す、「何者の
 
 
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甲なる哉」と聞けば、「相馬小太郎平将門、俵藤太秀郷に誅せられし時、甲冑飛んで散乱し首無しで追い来りしとや、江戸神田において、そのからだ倒れしとや、これを祭りて神田太明神と勧請し、いかなれば朝敵の将門を氏神とするや、ある人答えていわく、当将軍様の御先祖新田大井助親氏流浪致せし砌当社参籠し、ふたたび仁田家再興せば城を当地に築き、御尊神は氏神にすべしと誓いければ、不思議や一人の神体現れ、梅の枝を持ち、汝が子孫はかくなるべしとのたまいしかば、はたして御神君様、天下をしろしめし後に氏神と尊びけり、又、この甲は当地落ちし故、甲埋め神とし、甲の宮とはこれなり」と語れば、両人は去りにけり、それより市川に至り、それを過ぎ、真間村に行き見るに、地形他に変り、風立ちせい〳〵として秋色こまやかなり、紅葉は色を競い、年経りの菊花は垣根に満ちみちたり、両人斜め四方見るに
 
 
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一人農夫すきかつきて来たりしかば、両人これを幸いと思い彼の者に向かっていわく、「この土地の名所あれば我々に教えたまい」と申せしかば、農夫答えていわく「当地には種々の名所あり、まずあれ見たまえ、池のほとりに小宮あり、あれが手子奈の宮と申すなり、間崎采女と申す者は里見の家来たりしが、少々の故ありて勘気となり、一人の娘連れ当地に来たりしが、元来この娘美人の聞こえありしかば、若者共は縁を求めば娶らんとする数多なり、その内に当地古代の住人継橋素太夫という者しきりに懇望しける故、余儀無くこの娘を素太夫に嫁せし所、いかなる因縁哉、日ならずして懐妊し、素太夫これを怪しみ疑い、ついには離縁となり、娘大きに歎き、我如何なる因縁哉、かかる身となるこそ口惜しけれ、外に男というは寄り添うた事無きに、夫に疑われ、離縁するといえども、貞女は両夫にまみえず、死してその真をば
 
 
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あらわさんと、あの池の中に身を投げけるに、その怨念池のなかより出で、泣き悲しむ事切なり、近辺の者共夜に入りて眠る事叶わず、継橋家も無罪の貞婦殺せし事哉病死せり、家も退転となりけり、されども幽魂池を離れず、弘法寺来たりて池の内に向かい、汝継橋家退転し、それにても遺恨晴れずやと申せば、その夜夢に弘法寺に告げていわく、我継橋家の退転を悦ぶに非ず、一度夫とせし素太夫を何ぞ恨まん哉、我無実の罪に陥ち入りし者なれば、なにとぞ後世の婦人の守り神とならんとすれども、我を又救う人なし、これを歎き我に一社を賜れば御恩忘れまじと告げるによりてここに一社を立て、これ手子奈神とせり、真間の継橋とは、継橋家退転致し、その跡堀となり、これに橋を架け、後にこれを継橋と伝えり、この弘法寺は元は真言宗なりしが、改
 
 
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宗して日蓮宗となり」「それは如何なる事にて改宗せし」と聞けば、「日常上人という者来たり、問答に及び、愚法寺は一言一句も無く説き伏せられけり、これより改宗せしとかや、それより不思議や、庭にありし紅葉は双葉となりにけり、これは両宗に仕えし故なりとかや、この日常上人とは中山法華経寺の開山と承り、この寺今に奥の院は弘法大師とあり」農夫は一々説きなし、両人に別れけり、両人は農夫に別れ弘法寺に至り見るに、果して双葉の紅葉ありければ、両人は大いに感じ一句していわく
   この度は双葉の紅葉尋きて
    錦の色添う真間のまにまに
両人手打ち笑い悦び鴻之台へ急ぎけり
 
鴻之台名所の事
孫子のいわく、それ勇士は身を戦場に捨てるは常といえども、慎むべき、勇を後にし、
 
 
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知を先立つが大将たるの道なり、まことなるかな、里見上総介義康公は威を東国に振い、勢い過ぎて鴻之台にて死す、両人は鴻之台へ至り見るに、一寺の禅寺あり、両人入り本堂を拝するに、僧来たりしかば、両人も幸いとその者に向うて云うようは、「当寺の御因縁承りたし」と申せば僧答えていわく「まずこれへ来たりたまへ」と両人を伴い本堂の傍らに至り見るに、古戦場と見え数多の墓あり、ことに風景も勝れ、「これなるは里見四郎儀房の塚、傍らにあるは家来三浦近房、この者の先祖は、相州三浦の城主三浦もりづみ入道どんすの子三浦大介、房州に至り里見に仕えしなり、これは父里見安房守義康公の塚なり、その先祖問えば新田の後胤にして、武家の頭領たり、安房守鴻之台に出陣して北条と戦い、両家勇にして戦い
 
 
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果たさず、北条ある夜廻りしところ、川の中に鴻の鳥おりてありしかば、さては浅瀬ある事を察し夜のうちに戦を仕掛けしかば、里見方には不意をうたれ、忽ち亡びしは無残なり、時に天正の十年十一月廿三日の夜(の)事なり、然るを三代将軍様これを御不憫に思し召し一寺立て、これを宗念寺とはこれなり、この寺に里見家の秘蔵の虎の絵賛あり、三代様これを御覧ありて、生きたる如くなりしかば、これを撫でさせ給い(し)より、これを撫で虎と云えり、その節所々御覧のためここに座敷かまへ、これを大悲願堂とは則これなり」聞く事に両人嗟嘆し、
   古戦場を尋ねてみれば塚のあと
    勇知なる人も今は苔のした
両人は句を詠んで老僧に別れ、平田を通り八幡に至り、日も傾けばここに宿りけり
 
 
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八幡不知の事
神儀を聞きては慎むべし、礼を見ては尊むべしとや、さすが天下の宰相、水戸黄門光圀卿様、神儀を恐れ給わずして、八幡知らずの山に入らせられ、大いに迷わせ給いしとかや、さて又、両人は八幡に泊り夜明けんとする故出立して、まず八幡宮に参詣し、ここに竜宮より上りし釣鐘あり、それを見て又半丁ばかり行くに少々の竹山あり、その山には厳重に垣をまわしあり、その傍らに茶を煮て売る老人あり、両人幸いとそれに腰をかけ、何かありげに見えければ、谷ぼ八問うていわく「この山いかなればかくは厳重に致すや」といえば、老人いわく「これは八幡にいて八幡知らずと申し、昔よりこの山に入る者なし、ある頃一人の六部この山に入り遂に帰らず、その後水戸黄門様この山に
 
 
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御入りなさらんとする故、村役人色々申上げれども、お聞き入れなく御入りしところ、たちまち道を失い、歩む事三日三夜、然るところ大いなる道ある故これ幸いと行くに、大川ありて通りがたし、これによって帰らんとしてみる道ははや無くして、天地震動し、さきへ又行かんとすれば川あり、あきれはて茫然としたる所へ、一人の神女現れ、汝天下の宰相にあらずんば帰すがたきを帰してやるにより、よくよく慎むべしとてありし所風来たり、吹き返されしと思いしかば、元の所に出でにけり、これより里人恐れて入る者なしと聞く」両人聞く事に種々の事ありとまずそこを立ちて、鬼越村より中山村に至り見れば大寺あり、行いて見るに正中山法華経寺とあり、この寺は日蓮宗の近辺の本寺なり、これ日常上人の開山なり、両人一句いっていわく
 
 
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   妙法と聞いて鶯飛び来たり
    正中山に法華経を鳴く
心中に笑い催し、船橋名所尋ねんと急ぎけり
 
船橋名所の事
さても、目だ助・谷ぼ八の両人は船橋名所尋ねんと中山村・下宿村・栗原村至りて、宝成寺に参詣し、山野村を過ぎて行かんとするに一人行く者あり、この者風俗は医者躰の者なり、両人これに問わんと欲して、後より声掛け、「もし〳〵先生お前は船橋に居る人なるや」と云えば、その者答えて「然り」と云えり、両人又いわく、「左様なら何卒船橋の名物あらばお聞かせ下さるべく候」と云えば、その者曰く、「我船橋へ行く者なれば同道したまえ、道々語り聞かすべし」とて同道しけり、然るに海神村にさしかかり、「見給えあれなる池にある芋葉は、昔ある一人の老母この辺一人住みけるに、慳貪なる者にてありける所、ある日里芋を煮て
 
 
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いける所へ、一人の老僧来りその芋下されと申せば老女怒り、呉れる為に煮るにあらず、小喧しいと申せども、更に老僧は聞き入れず、老女いよ〳〵怒りこの芋は石なりと答えしかば、不思議やそれ忽ち石となり、しきるに煮ると云えども煮えず、老女呆れその芋あの池へ捨てると直ぐさま芽を出しける故、里人これを尊とんで芋葉神とせり、年々八月里人これ(を)祭りけるとかや」段々噺々くるうちに、船橋に至り見るに上総・佐倉両街道にしてまことに繁華の地なり、両人はその者をつれ茶屋に至り、酒なぞを出してもてなし、船橋名所を聞かんとす、医者いわく、「種々ご馳走有難し、まずあらましを聞かせん、西福寺の石塔に太神宮様の相生の竹、了源寺(の)時鐘、女郎の八兵衛これなり」「西福寺の石塔はこれ何人の塔なり」と聞けば、「当宿開国の人にて舟橋左馬之助唯久など申して、里見の家臣なり、里見滅びし節忠節を守りて
 
 
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死せんとせし時、里見より書状を遣し、存命致しあい女を守り立つべき由、これに依りて左馬助、義ならざれども存命し、当宿を開きしとや、後に死せし時里人(これ)を葬り、舟橋様と唱えりとや、また一寺立てこれを舟橋山西福寺と云えり、我これを按ずるに舟橋左馬助唯久存命して城を守り(し)所は、この後の夏見村という所なるべし、かしこにも種々の小名(小字)あり、舟橋城下なる哉その是なる事は知らず、お宮の相生の竹の事は、我案ずるに海神村のはづれに小水の出る所ありけるが、その所に光り物ありて物凄し、里人行て見るに丸き鏡なり、夕日太神宮と彫り字あり、これ按ずるに、この鏡は千葉介常胤天子様より拝領の品なりし所、千葉家落去の節当地(に)置けるにや、千葉家の子孫もここにかくれ居所その由を聞き、行いてみし所、果していかなる故にこれを受取り持ち帰り、後々これを当宿の氏神と尊っとみ、千葉の末葉たりしかば
 
 
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これを神主とせり、これ又今の大宮司なり、その節夢の告げに宣わく
   われ頼む人を空しくなすならば
    われ日の本の神と云われじ
かく承り宮建立の時、宮の傍らに自然と小竹生え、裏は女にて元は男とかや、かかる不思議もあるものかな」と語り、又「女の事を八兵衛と云う、是いかん」と聞けば、「西行法師鎌倉将軍頼朝公に拝謁奉り、その帰り道にて若者ども女郎に戯れおるを見れば、女郎ども若者に向い、『もしもしお上りないな、その様に又おすましでないよないよ』若者ども『何、すましたら上らずとよかろう』女郎ども『おやおやすまないねえ』『すませば上がるべではないか』中には又『いや帰りにしべい、なになに行きにしべい』大いに揉めて遂には上がりければ、西行呆れ笑いて句にいわく
   往きにしべい帰りにしべいと
    両方合わせて名こそ八兵衛
 
 
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これより八兵衛と云う事洒落に流行りけり、我亦これを按ずるに、遊女のことを女郎とは誤りなるべし、宮仕えの女をさして女郎と云う故に、婚礼の節、嫁を迎えに出る女を待女郎と云えり」然るにおいては「何かために遊女日の本にて女郎とは言い伝えりや」と聞けば、「昔、平家落去の節、官女身やり所なき故その身を往来の人に売り、その日暮らすとかや、今に日向国(に)おいては、女郎緋の袴をはくとや、始めこれを女郎と名付けるを、外に遊女は女郎には非ず、然れどもその真似をして皆女郎と云えりとかや、それはさて置き、船橋の宿の女は女にて八兵衛と言うこそ奇怪なり、さりながら今噺す通り西行の申せし事より流行し、又これに一説もあり、それはと云えば、昔鎌倉将軍頼朝公富士の巻狩りの時、曽我十郎同五郎御陣に押し寄せ、十番切して討死せし時に、大磯の女郎に虎御前という女あり、十郎に深く馴染みし所、十郎死せるにつき虎もその義を立て、自害致すとかや、五月
 
 
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廿八(日)今日雨降り、これを虎が雨と云えり、その時、芭蕉先生虎御前のために一句をその塚に送る、句いわく
   八兵衛も泣かざなるまい虎が雨
かく云いしかば、女郎でも義によって真実泣くはこの虎なるべしと(の)事なり、八兵衛もは、女郎でもと云う心なり、虎と言うは唐の虎を譬え虎と云うものは、義にて涙流すとかや、昔唐の楊香は、父と共に山林に行くところ折節風起こり、虎出て父を噛まんとする、ここによりて、楊香手を広げて、父を喰うなら我を喰うべしと云えば、虎は尾を下げ涙流して逃げ行きしとや、まことなる哉唐にては義虎と云えり、大磯の虎御前も義によって自害し、今になお五月廿八日は虎が雨と云えり、それより女郎の事を大磯・小田原・鎌倉辺にては八兵衛と云えりとや、御神君様東金御成りの時、船橋に御泊り遊ばされ候節、女ども給仕を
 
 
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申し上げせし所、御神君御戯れに宿役人に向い給まい、八兵衛かと仰せられしは、田舎ゆえ女郎どもを八兵衛かと宣まえしとか哉、是より船橋飯盛り女を八兵衛と風聞致すとや、御神君様の御旅館の跡を御殿台今にあり、これに了源寺の時鐘は恐れ多くも八代将軍様御鉄炮稽古のため鎌倉より船橋に移し、所々に陣屋構え、日々御稽古遊ばされしとや、三年にして御引取りなり、その時に至りて時の鐘の儀を願い候所、御聞済ましある事にて拝領の地面もあり、今においても鉄炮台と云うて残りけるとや、その節蜀山人了源寺へ贈りし句には
   煩悩の眠りを覚ます時の鐘
    聞けよ寝覚めに船橋の寺
この寺は元は小田原(に)ある時は天台宗なりしが、今は船橋に至り、浄土真宗なり、先祖は齊藤別当(実盛)と承り」種々を噺して両人に遂に別れをなしけり、両人これによって
 
 
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かの者の教え(し)如く宮へ参りし所、果して相生の竹ありしかば、両人句にいわく
   幾年と契りを込めし相生の
    竹も名所や船橋の宮
両人も遊びにほだされて日も暮れければ、何れに宿らんと、まず名所を尋ぬる故古き家居に泊らんと、そちこち行くに、若者ども冷やかしと見えて、四五人連れ来りしかば、両人問うていわく「昔より古き旅籠屋何れなるや」と問うに、かの者どもいわく「今津屋・橘屋・久助、これなるが、今この橘屋は締となれり、昔承応四年公津の惣五郎直訴の時、この橘屋に泊りしとや承り」両人いわく「今は余義無き次第なれば、今津屋に泊らん」と、今津屋指して行かんとするに、一人笑ていわく、「古人も古きを捨てゝ新しきを知るを、師といふべきやというに、お身たちは、当代盛んの旅籠屋あるに、古きに行くこそおかしけれ」両人笑て句いわく
   倹約にあたらしきを捨てゝ
    古物を尋ぬる名所旧跡
 
 
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若者共は、此句に恥じて赤面して帰りけり、両人は、今は今津屋へぞ心ざしけりとかや、かくて所の名物なれば、八兵衛を買わんと今津屋行くに、女共かけ出で「お早うお着きでござります」まず足を洗い奥に通りける所へ、下女来りて「もしお遊びなさりませ」両人「なに、遊ぶとはどうするのだ」下女「はい女を買ってお酒呑むのさ」両人「おいらは酒も嫌い茶(も)嫌い」下女いわく「おや〳〵しわんぼのお客だね」といえば、目だ助少し怒りの体にて「この宿の女は厚かましとさ」谷ぼ八「なぜ」目だ助いわく「世間歌にこの宿の女郎は
   そこら歩くに股掻きなから
    すぐにその手でつまみ喰い」
下女大いに腹立てければ、谷ぼ八いわく「女、ぶきやべらぼに腹立ったのう」下女なお〳〵憤りけり、去りけり、この所へこの家御職女郎出て来たり、「ようこそ数多の旅籠屋ある所に、私家へ御出とは、近頃かたじけなく存じ奉り候」さもにこやかに申述べければ、両人も元より人形に会い、たちまちこれに気奪われけり、
 
 
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その後より又一人の女来たり、「はい今晩は」と言ってそこに座りけり、今は、両人は止む事をえず女郎を買いけり、谷ぼ八一人の女に盃を指しこれおたかと申す女とや、一人は、はなと申すとや、目だ助谷ぼ八に先に取られければ、不興の体に見えけるところ、又々、句いっていわく、
   お花の色に迷いけるないたづらに
    ぬしの顔なかめても
かく言いけれ、花、返歌していわく
   私の身を思わず惚れたも縁よ
    ぬしの事なら命を捨てゝ
目だ助はこれに迷わされ、今は両人女を相手に酒盛となりけん、あるいは歌、種々の事ありといえどもこれを略し、この宿の女は五百文勤め回しあり、両人酒気ばんで、地獄・極楽とは外にあるまじ、これが則ち極楽なるべし、天女の如き女を相手にし、三味線の音楽を聞くこそ心地よしと、谷ぼ八夜に筆をとり
   極楽はいづくと聞けば酒狂躰
    呑んでいさむところか
 
 
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ほどなく響く遠寺の鐘、谷ぼ八目をさまし、「あゝこの世は夢の如く、楽しみ尽きてはや別れの鐘」女郎いわく、「ほんに仰せの通り、昔、よしこの節にも
ぬしと私は梅に鶯 なぜこのように
好いた梢に塒して 離れともない恋の欲
ままにならぬが浮世のならい
まゝになる身なれば、共に成田迄も行かんものを」と、口説まじりにそら泪、今は、はや夜も明ければ両人立ち出ける、谷津村心ざしにけるなり、
 
谷津村近辺の事
猶又、谷津村へ行く道を見るに、上総海道弓((左))手は土手、馬((右))手は海、ここに甘酒屋あり、上総辺の者は、ここへ休まぬ者は無しと聞けり、両人もここに休み、夫より立ちて行くに、一人老人が茶見世出しおる故に、両人またぞろここに休み、両人いわく「何んとここは谷津村ならん、一榎ありてこれを一本榎と
 
 
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聞けり、藤六松何ぞというは、何んらの訳なるや」と言えば、老人いわく「一本榎の義は、昔、ある女ここに首掛けり所、その怨念残りしや、それより数多この榎にて命を失う者あり、これより世間名が高くなりました、我これを案ずるに、江戸行人坂丸山本妙寺、一人の娘の葬礼ありて、輿には緋縮緬掛け、その縮緬を寺で売るところ、又その縮緬来り、かくの如くする事七度に及びける故、余り不思議に思いて、公儀へ訴え、その上焼き捨て(る)べきにて、本堂の前に火を焚き経を読みて、その縮緬を火に入れるところ、にわかに風おこり、本堂の御拝柱につき、それというより早く丸山火事というて大火なり、まことに古人の云う通り、一婦いかりて千人を害すとは、この事なるべし、この榎も数多の怨霊ある故に、今は枯れけり、又、藤六松とは、昔、里見の臣、藤野六郎繁氏と申す者、谷津村に出丸を構えし所、里見家亡ろびし故に、終に
 
 
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追腹切りしとかや、その塚に松を植え、これを里人言うて藤六松これなり、ここに又、薬師寺あり、瑠璃光山東福寺と申して本尊は薬師如来、行基菩薩の作なり、木曽義仲の守り本尊なり、平家調伏の為に祈りし如来とや承わり、然る尊き御仏なれども、時至らざるこそ残念なり、昔、唐にかか(和氏)といふ者あり、玉を山より採りてその王に奉れば、石を以て我欺くと言うて、足の筋を切られしとや、かか山に泣き悲しむ事しきりなり、ある人これを問うていわく『汝いかなれば、王を欺き足の筋を切られ、これを恨むや』と言えば『我これを恨むにあらず、王真の玉を知らざるを歎く』王これを伝え聞てかの石を磨く、見るに光り輝きし玉なり、今にても唐にては、趙氏連城の玉とあるは、この玉なり、当薬師如来も、見る人無けれハ、世間で知る人無きを悲しむ」と言いければ、両人嗟嘆して
 
 
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やまず、「又ここ次村、久々田村という所あり、その村百姓に、十兵衛という者あり、これは文政の頃の人とかや、この時十兵衛律儀故、ある夜夢に十兵衛一人僧来り、汝は正直者故に物を授ん間、永楽文一貫文持ちて、船橋玉造に来るべし、当村人気荒ければ、済度のためなりと云いしかば、夢はたちまちにさめしかば、正直の十兵衛故、夢の如く疑わず行く所、夢に違わず、箱を十兵衛(へ)渡しけり、十兵衛内に帰り見るに、閻魔大王罪人を戒める絵賛なり、十兵衛不思議に思い、寺に納めし所、寺振動しけるとや、又、十兵衛へ返しけりとや、おまへ方、これより前原に出る道あれば、行きたまえ」と申せば、両人いよいよ感じそこを立ち、一本榎の跡を見るに、風に折られしや、今は跡形もなし、両人歎じ、句にいわく
   万物も死すべきかぎりやあらん
    名得し榎もあとかたもなし
 
 
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それよりそこを立ち、まず矢野氏久しぶりの対面し、東福寺に参り、句にいわく
   だいじよふの光りもるり堂の
    諸人をすくふ薬師てら
かく詠じ久々田村に出て、彼の閻魔の因縁聞き、前原に出れば、頃しも九月の頃なれば、成田参りの人々は、老若男女集いあい、道々の雑談いわんかたなし、子供ども袖にすがり、おんどう者〳〵成田どう者は、銭持ち・金持ち・小金持ち、一貫銭の口を解いて、白鷺何んぞ飛くるように、さらりさっとお撒きなさいとなり付けり、皆々も、又、おもしろく思い、銭を投げけり、前原道を行き過ぎて薬園台新田に差しかゝり、今はこれを、又、正伯村といへり、それを通り大和田の原に至たれば、あまた野馬出で、原の景色も格別なり、句にいわく
   貧窮の人は小金の原で暮らすなら
    不自由なく駒(困)らざりけん
 
 
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この所は大和田新田なり、この裏に萱田村という所に権現の社あり、そこに年々に十二月(に)至りて奉公人の売り買いあると聞く
 
臼井・佐倉の事
さて、後世は車の如し、廻り廻るが世の習い、又、格別もの憂きものは、旅の空知らぬ同志で敵となり、味方なりけるもあり、然るに目だ助・谷ぼ八の両人は大和田を越えんとする時、四五人づれにて行けるが、この者共は道にて鶏が遊び居るを秘かに盗み去りにけり、かゝる所へ両人差しかゝりしかば、所の若者ども五六人駆け来り、胸座取りて「汝ら我が鳥を取りし」と、打たんとするから、両人は「こはけしからざる事をいうものかな、鳥を取りしは先に行きし者なり、我らは名所尋ぬる者にてさような事なし」と云えども聞き入れず所に一人駆け来り、「まず〳〵、皆、静まりたまえ、今、この者共の云うようは名所を尋ぬる者と
 
 
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いふ事なり、さすがの者ならこれ(を)盗まぬ句をよむ時はゆるすべし、これが出来ずんばこれ偽りなり」いうを聞き、谷ぼ八、委細を構わず筆を取り出して、いわく
   子丑より寅亥行もの午未申
    酉戌人を卯きな辰巳に
かく詠めば皆々笑ひ催してゆるしけり、両人は危うき変難を遁れ、さて〳〵、つまらぬ目に逢うものかなと、何卒、先へ行きしやつばら、いで〳〵、恨みを返さんと両人案じ居りける所へ、馬方一人来り、「もし、旦那さん臼井迄弐百文にて馬を召さざるや」と云えば、両人は馬方に向かい「二百が三百でもやるがちょっとそこもとの智を借らんとす」云いければ、彼の者は平生出すぎし者故、これを聞いて「頼むと云えば唐までも行くべし」、両人手をうちて悦び、「まずまず、休みたまえ」と両人ならびに馬方と三人にて、谷ぼ八云うよう「今、道にてかく〳〵の目に逢ひたり、先に行きし者共、
 
 
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未だ遠くへは行くまじ、あと追いかけ仇を報ぜんとするなり、それに付未だ良き計り事なし、これを尊公に問わんとす」、馬方云うは「これやすき事なり、我、先に行き、喧嘩しかけ、その時、我、又、よきに計らうべし」、谷ぼ八考えて「いや待たれ、我、武士の形となり、そこもとの馬に乗り、目だ公はやつらの中へ入り、我に当り事をいうと、我怒り、その者共喧嘩をしかけ、その所で尊公良き計らいにて、盗みし鳥をこの方へ取かえす工夫して三人で呑まん事如何ん」と、「その訳はかよう〳〵」とてささやけば、馬方悦び、「これ良き計り事なり」、まず、目だ助の差しし脇差を取り、我が脇差と二本差し、馬に乗りて行く、目だ助は急ぎ彼等と行かんと急ぐに、大和田宿あづまやの所に腰掛けて居る所行き合いけり、目だ助さあらぬ躰にて休み、目だ助「我は一人にて噺相手もなし困る故、何卒同道仕り度し」と云えば、五人の者「はい〳〵、御同道致しましょう」と云えば、目だ助悦び、まず、そこを立
 
 
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原となり、「皆様この所の原で、昔、祐天上人不動様断食に行かんとしける時、山伏の追剥となり、祐天をはぎ取り、その心を引き見給うとかや」(と)語り、それより段々心安くなり、「時に江戸さん、よい楽しみがあります」、目だ助「それは何になるや」、五人の者「いや外ならず、この前の宿で鳥を取り、うまく呑まんとする手段なり、可笑しさはあとからくる者、慥か三人連れと見へて、そのやつらが宿の者に捕まり謝っておる様子なり、あれが、所謂、肴喰た猫は叩かれずして、皿をなめた猫が打たれるとはこれなるべし」語れば、目だ助は心中怒るといえどもおもてには出さず悦びけり、噺す内に、谷ぼ八馬に乗り来れば、目だ助は時分よしと思い、「時に皆様一つ賭けちょぼいちでもやろうでは御座りませんか」、五人の者「よかるへし」と申すに付、竹の枝を折りて銭かけ、さい取りいたし、それ、たれ五、おれは二、おれは三なんとてしきりにやる所に、
 
 
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谷ぼ八を尻目にかけ、目だ助「おれ、こんどは一と三へはるぞ、それ出たか、三ぴんだ〳〵、田楽も二本さす、それ〳〵焼き豆腐は三本さす」と云えば、谷ぼ八馬より飛び降り目を怒らし、その中の年を取りし者をとらえ「これ〳〵、なんじら我を嘲弄するな」、目だ助進み出て「どう致しまして、あなたを嘲弄なぞとは申しません、どうかすると武士は浪々しますが、長老は禅宗にあります、兵糧、いくさの時の用ひ□(虫損)なり」、谷ぼ八猶々怒り、五人の者共驚きいる所□(虫損)、馬方は木刀かづき出して五人の者に向って、「よくおらが旦那様に無礼をするな」、打たんとしければ、いよいよ驚き、「この者は私共連れにあらず、私共、先から何んとも申しません、この男は先刻より口から先に生まれたようにべら〳〵しゃべり、お武家様へ失礼仕り、私共はゆるしたまへ」と申せば、谷ぼ八いよいよ腹立て「今迄仲良く道連れたりしが、この難を見て見捨すてんとは、こゝの大
 
 
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泥棒ども」と云えば、五人は腹を立てにければ、谷ぼ八少しもひるまじ「汝らはこのあとで鳥を盗み取るには相違なし、あれ、馬子や、五人のやつらを吟味せ」と云えば、馬方は心得たりと飛かかりみるに、はたしてありしかば、谷ぼ八からめ取らんとする時、五人の者共に馬方は理解説きしかば「宜しく取計い下され」と云うに付、馬子は谷ぼ八に謝り、鳥もあまつさえ谷ぼ八に取られ、種々謝り、晩の楽しみと、酒迄そへてわび入るにより、谷ぼ八よう〳〵得度せり、五人の者早□(虫損)躰にて逃げ行く計りに去りにければ、目だ助は、今は、谷ぼ八・馬方と一緒になり来りしかば、五人の者あと振り返り見るに三人にて手を打ち、笑いくる故、五人の者共さては奴等(しゃつら)に勝手喰はれたり、いま〳〵しき目にあうものか哉、いかんぞしてこの敵を取らんと思えども、今は早や、猿猴が月を取るが如しとあきらめ去りけり、然るに、もはや臼井の
 
 
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台町にて宿を見れば絶景なり、目だ助感じ、句いわく
   臼井とは誰が言いふらす紅葉をば
    印旛の川の錦なりけり
笑い催して坂を下り、ここに太田屋といふ茶屋に休み、馬方と三人にてかの鳥を料らせておごりて、馬子は返しけり、両人茶屋の亭主に向ひ、「当宿には名所もあるや」と云えば、亭主答えていわく、「当宿、城で有し時分は山角伊予守と申し、その前には、又、臼井小次郎貞正と申し、後に伊予守に任ぜられ、千葉家の親族なりしが、北条の幕下となり、天正十八年六月十八日小田原にて討死し、当城も潰れ今はただ、城の鬼門除けの楠の木のみ今に残れり、行きて見たまえ」と申すに付、両人は、こゝ立ちて宿より半丁も中に入り見るに、大いなる楠木あり、枝わたり拾八間と云えり、五人にてよう〳〵周る木なり、その傍らに八幡様の小宮あり、真に稀代の名木なり、
 
 
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又々そこを立ち佐倉に至り見るに、沼付にて事に城下して江戸まさりとあり、こゝに橋あり、これを鹿島橋と云えり、印旛川より流れ出て御城を廻り、下総国印旛郡佐倉においては、昔鹿島の城主堀田加賀(かゝ)守正盛公、大猷院殿御取立の大名なり、信州松本より寛永十九年午年、高十五万石にて佐倉に所替なり、仁を以民を撫育し、諸民子の如くになつき、まことに文武両道に達し、いかなる因縁や、御子上野介正信様[(虫損)]上岩橋村名主惣五郎罪し、御家たちまちに滅びけるとや、まこと忌むべきは、付臣なり、佐倉筑前守将友、天正十一年落城して□(虫損)り、上野介様迄歴然たりし城下なりしを、今に至りて絶えんとするやと、諸人更に安き心地もなかりしに、慶安四年四月廿日御法事あつて、ご舎弟備中守を御取立となりて、元の佐倉に至りければ、諸人始めて
 
 
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安堵せり、さて又、両人は城下宿はずれに聞くに、これは本佐倉と聞きしかば、両人疑いて聞くに「中を新町、はずれを本佐倉とは、いかなる事や」と聞けば、ある人いわく「上野介様御切腹の後、土井大炊頭様佐倉に所替有りて、その時町を移してより、新町と云えりと聞けり」両人これを聞いて「然らばその惣五郎とは今宮にも祀りあるや」という、「然り」という、依て、両人惣五郎の社に行かんと志しけり、酒々井なか屋に休み、これを問うに、惣五郎因縁をき[(破損)]いうに、彼の者いわく「これより左行き弐三丁入り口宮と申す」「いかなれば口の宮と申す」と聞けば、「公津村名主惣五郎、取締りの名主たりしが、近頃、増の年貢取り、百姓の歎きいわん方なし、依て直訴致し、身は佐倉のはづれ、江原の台という所にて、磔になりしと云えども、増年貢止めになり、それより百姓至りけり、これ惣五郎お蔭にて、諸人の口を立てける故、後これを祀りて、口宮とも惣五郎社とも
 
 
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伝えり」詳しき事は、惣五記にあればこれを略し、両人これを聞て泪を流し、唐土の禹王は民のために身を贄に供えて、雨乞せしとかや、古の賢王は、民の為に身を苦しめるといえども、惣五郎其身計りにあらす、妻子と共に身を捨てゝこそ、三国にも稀なるべし、尋ね参らんと、両人打つれ行くに見るに、はたして古き宮ありて神風吹き身にしみ〳〵と沁みわたりければ、両人大いに感じ
   義理と情にその身を棄ててこそ
    今ぞ尊き口宮かな
かく詠じ、酒々井に出でんとするに、印旛川の上にて、上志津村・下志津村、その間を流れる川を中川といえり、これに鰻のかば焼き、鮒のかば焼きの名物あり、両人は、うなぎの名物ひと串やらんと、喰ふ事しきりなり、目だ助「勘定の儀は、いくらになる」と云えば、あきんど「六十四文で御座ります」と云われて、両人安きに
 
 
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あきれ、弐百文出るかと思えば端の銭なり、又も喰いにけり、
   印旛川打いでみればかばやきの
    高根と思いしに安き名物
大いに笑いを催し、立ち出でて酒々井に至れば、日もはや傾きければ、いづれにても宿とらんと、あたりを見るに中屋というあり、これくきうとこの屋へ入りけり、この屋内の脇より芝山道あり、五拾丁一里にして四里あるとかや、まず、両人は腰を掛ければ、下女ども走り出「お早うお着きで御座ります、さぞさぞおくたびれで御座りましよう」とて、足迄洗いくれければ、両人悦びて奥に通りけり、目だ助・谷ぼ八の両人、この宿には、ころばしといふ事があるというに、何卒ひとつころがさんといふ所、下女来りければ、両人「もし姐さん、酒と肴を出すべし」、「はい、かしこもりまし」と、にこやかなりしかば、色気欲深き谷ぼ八なれ、これに見とれ居るといへども、面には出さず、谷ぼ八又申しけるは、「早く〳〵」と
 
 
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云えば、下女「へい〳〵」目だ助「へいではさぞ臭かろう、もしお前は、女薬師でないかのう」下女「おやなんの事だえ」谷ぼ八「いやさ、おんころかろがしだそわか、だろう」といえば、下女「おや、なんだろうねえ」と云いながら立ち去り、程なく酒肴持来りしかば、両人はきたり、「奇妙で奇天烈の両人とは、おいらがこった、時に姐さん、酒でも注いでくんねえ、おいらは酒は嫌いだけれど」、下女、「それでもお飲みなさるのかいねえ」、谷ぼ八「いやさ、お前に注いでもらいたいばかりで飲むのさ」下女「おやお通おっしゃるねえ」下女何はともあれとて、谷ぼ八の手を掴み注ぎければ、谷ぼ八いまは我を忘れて、下女にしなだれかかる、下女も、谷ぼ八の男ぶりもよければ、さのみ嫌がらず、今は三味線にて洒落けり、谷ぼ八袖を引いて小声になり、何かひそ〳〵噺しければ、目だ助、大きにやけて、酒しきりに
 
 
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呑みて、そこに倒れければ、谷ぼ八「これ〳〵」と、起こすといえども動かずありければ、谷ぼ八、今は憚るところなくて、谷ぼ八下女に向い、「これ姐さん、これは少しだけれど」と云うて、金弐朱くれければ、下女、大きに悦び、「私の様なこんな者に、目を掛け下さるは、身に沁みて嬉しいともなんとも、言葉には述べがたし、お前に、先に見世先で見染めてより、心も乱るようで御座ります所、お前さんの方からお情けとは、この身にとっては、嬉しゅう御座ります」と抱きしむれば、谷ぼ八も、今は又身体も溶けるばかりの思いをなしけり、目だ助寝たふりして、こらえ兼にけるといえども、是非なく唾を呑んで居たりける、下女、谷ぼ八に向かい、「あの湯殿の脇の座敷へ来たまえ、左り端に今夜は寝るゆえ、何卒お忍び下さるべし」、と云い、亦も二人にて目だ助が
 
 
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寝入っていると思いて、今にでも何か致しけり、それにてはゆるりとできぬゆえ、我が部屋へ忍ばせんと、約束をば決めけり、下女早引き取りけり、目だ助ややあって起き上がり、よろ〳〵とよろめきながら、湯殿かたわらにゆき倒れけり、女共集まり「もし〳〵お客さん〳〵」とおこせば、目だ助、げい〳〵と吐きける故、皆々引取りける、目だ助寝ていながら考え、何卒して、あの女の寝所を、取替え度と思えども、手段無きより按ずる所へ、一人老母出来しかば、目だ助起きあがり、老母の袖を引「何と先に、おいらが連れの谷ぼ八め、下女とかく〳〵の噺あり、なんとお前は、あの女の寝所を替える工夫ありや」といえば、老母「あるとも〳〵、まず、来たまえ」と目だ助を伴い、女部屋行て見るに、かの女酒に酔いて寝ている故、目だ助老母両人にて、下女をそっと右へかたし、自分の寝所を、
 
 
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左へかたしければ、目だ助大きに悦び、老母に金二朱くれけり、目だ助は、谷ぼ八と偽り、右の端へそっと行しかば、下女は谷ぼ八と思い「おや〳〵よく尋ねてお出で御座ります」とて、取り持ちけり、こゝに谷ぼ八は、所替のある事は知らず、そろ〳〵と這込みて、下女の教えの如く尋ね行、左女の所に入りしかば、老女は悦び、初めて若き者と寝ると思い、悦び抱きつきけり、谷ぼ八女に向かい、「お前、なんと顔には似合わぬ、身体はしわだらけだね」といえば、目だ助今はこらえかね、どうと笑いけり、兼て計り事故、目だ助は行灯の火を消してあるゆえ、谷ぼ八は下女と寝ている心もち、下女は谷ぼ八と寝ている心もちなりし所、目だ助が笑いにて変に思う所、目だ助火打を取出し、行灯に火を移して見れば、こはいかに、谷ぼ八は白髪の
 
 
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嫗婆と寝ていければ、あきれて、こは天狗の所為かとばかりに思いけり、下女は、色白き男と寝ていると思いし所、大目玉の目だ助なりしかば、下女もあきれて一句していわく
   浅ましや枕の夢も醒め果てゝ
    ぞつとするほどいやな恋風
目だ助、あざ笑いて、一句題していわく
   思はずに契し仇な仮枕
    末の世までも添はんとぞ思ふ
かく詠めば、既に論にもならんとせし所、中人はいりて、よう〳〵済みけり、よう〳〵仲も直りて仲屋立ち出て、慎むべきは女なり、兄弟よりも親しき友達も、たちまちに、敵となるこそ愚か
 
 
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なり、両人も互いにその真をあかし、いよ〳〵又また元の通りに仲もなおりて、いよ〳〵成田山へと心ざしけり、これ、それより両人成田より芝山参詣の次第は、又々申述候、以上