当文書は、中表紙を含め四十七丁、四つ目綴じの半紙本で、表紙は後装のものである。作者名や執筆時期についての記載はない。また奥書等も無く、最終丁には、筆をぬぐったような墨跡数本があるのみである。尚当文書は、戦後に古書肆から、当館に納入されたものであり、それ以前の保管者・保管場所等については、不明である。
当文書の内容は、題名を一見すれば想像できるように、目だ助・谷ぼ八というあやしげな江戸っ子二人連れの、成田参詣道中記だが、序文と思われる書き出し数行の中で、作者は、この『弐笑人成田参詣 全』を著した所以を述べている。要約すると「世間の人は、遠い上方の名所にばかり関心を持ち、近くに多くの名所がある事を知らない。そこで自分の代わりに朋友の目だ助・谷ぼ八二人に、行徳から成田までの名所を尋ねさせ、その様子を聞いて書いたもので、此本に落度有時は、加筆可被下候」と記している。ついては、作者が「此本」と称しているのにならって、本稿でも、当文書のことを以後「この本」と呼ぶことにする。「この本」が出版されたか否かは不明だが、仮に出版されたとすれば、当文書は、前記の体裁からみて、その草稿の一つであろうか。
また、「この本」の書かれた時期だが、(100頁)笹屋の場面で、下女の、「おや、通は唐と交易すれば、横浜にはたんとおります」という下りから、乱暴に推測すれば、横浜開港の安政六年(1859)七月以降、それも横浜港の活況が、江戸庶民は勿論、行徳のうどん屋の下女までも、広く知られるようになってからのことであろうから、おそらく幕末、或は明治に入ってからではあるまいか。
また、序文の終りに「時に矢野氏これを述べるものなり」とあり、2頁には「目だ助・谷ぼ八の両人は、江戸っ子育ちにて世間を知らず、いかにしても成田近辺の名所を尋ねんと思いしに、幸いなるかな、矢野氏に頼まれ云々」とあるので、作者は、自分の事を三人称で矢野氏と呼んでいると思われる。「この本」の中で、矢野氏という記述は三度出てくるのだが、三度目(117頁)「矢野氏ひさしぶりの対面」とあるが、何故に、谷津村近辺で矢野氏が登場するのか、作者の意図は不明である。