【四】成田詣と道中記

 成田山新勝寺は、今日では毎年初詣の参拝客数が、全国ベストテンの上位(2015年は3位、約三百万人)を占める大刹であるが、その繁栄の要因の一つに、元禄期以降の、果敢な江戸出開帳による布教活動が挙げられる。元禄十四年(1701)に、中興開山といわれた照範上人が、江戸深川永代寺で、本尊不動尊江戸出開帳を行って以来、幕末までに計十一回に及び毎回江戸市民の評判を集めたが、これには開帳の前後に、成田屋こと市川団十郎が「成田不動尊利生記」を上演して奉賛し、大いに江戸っ子の人気を博したことも、一役買っている。
 余談だが、平成二十年の「成田山開基一〇七〇年祭記念大開帳」(四月二十八日~五月二十八日)の際、十二代目団十郎と十一代目海老蔵の親子が成田に参拝し、四万人を超える大観衆の前で「連獅子」の演舞を奉納、表参道をお練りして、観衆を喜ばした。
 江戸中期になると、経済的に余裕が生じた江戸庶民の行楽地は、上野、浅草や飛鳥山などの近場から、次第に近郷の名所や社寺などにむけられ、信仰と遊山を兼ねての遠出の行楽が盛んになった。なかでも、成田詣は、成田山新勝寺の御利益もさることながら、江戸から行徳まで行徳船で行き、そこから成田迄の街道筋は、急な山坂もなく平坦な道で歩きやすく、片道十六里(六十四キロ)の往復三泊四日ほどの手頃な旅だったので、江戸庶民に人気が高く、『成田市史』によれば、幕末期における成田山年間の参拝客は、日帰りも合せれば、十万人台に達していたそうである。これは、当時の交通事情などを考えれば、驚くべき数字だが、それだけ多くの人が訪れたとすれば、成田への紀行文や道中記が、数多く書かれたことは容易に想像できる。
 それらの中で『膝栗毛』の模倣作品として、比較的よく知られているものに、二冊の『成田道中膝栗毛』がある。その一つは赤須賀米の『成田道中膝栗毛』で、序に「成田道中黄金の駒序」とあって、その終りに「ときに文化九年(1812)(中略)赤須賀米葛西訛に筆を採る」とある(以下『黄金の駒』)。主人公は、大食いの「権八」と飲み助の「候兵衛」の二人連れである。
 いま一つは、最後の戯作者といわれる仮名垣魯文の『成田道中膝栗毛』で、安政三年(1856)に上梓された。主人公は『膝栗毛』の二人と同じく、江戸神田八丁堀の「栃面屋弥二郎兵衛と喜多八のコンビであるが、『膝栗毛』の「弥次郎」が、こちらでは、「弥二郎」になっているにすぎない。(以下『魯文本』)