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【五】目だ助・谷ぼ八コンビの辿った道

 序文に続いて、行徳から成田迄の途中八箇所の名所が列挙され、目だ
助・谷ぼ八コンビの歩いた行程が示されているので、右の『黄金の駒』と『魯文本』も連れて、我らがコンビの後を追うことにしよう。
 
〔1〕江戸から行徳へ
 ある年の九月の朝、目だ助・谷ぼ八の二人は、船で行徳へ向かう。江戸の何処から出発したかは不明である。
 当時江戸から房総方面へのルートは、陸路は、両国橋を渡って―本所竪川通りを真っ直ぐに―逆井の渡しを渡り小岩市川の関所を経て行徳へ、あるいは、小網町行徳河岸から舟に乗り、墨田川―小名木川―新川―旧江戸川から行徳へ(2頁註参照)。という行程が一般的だったようだ。
 十返舎一九は、享和二年(1802)に著した『南総紀行旅眼(すず)石(り)』(以下『旅眼石』)では陸路を往き、文政十一年(1828)の『方言(むだ)修業金草鞋』(以下『金草鞋』)では、行徳船に乗っている。
 
〇行徳船
 さて、「先きは扇橋に差しかかれば、後より「舟が出ます」と云われて委細構わず飛び乗りけり」とあるが、二人の江戸の住まいが不明な事もあって、この時の位置関係を想定するのは難しい。
 扇橋とは、小名木川が大横川と交わる地点の南岸、大横川を挟んで東側一帯の地名である。江東区のH・Pに、「天和の頃(1683年ごろ)深川村と海辺新田の耕地を土地の者が願い出て町屋とし、そこにあった扇橋という橋名にちなんで町名とした。」とある。現在、扇橋という「橋」は、清洲橋通りが大横川を跨ぐ扇橋一丁目と白河四丁目の間に架けられていて、その「橋」から小名木川までは、約百メートル離れている。また、扇橋という「橋」についての最古の記録は、右のH・P「江東区内の橋めぐり」によれば、「享保三年(1718)長20間、幅2間の木橋の記録あり」とある。
 右に述べたように「扇橋」には、地名と橋名があるのだが、中川船番所資料館の談話によれば、普通、扇橋と云えば地名を指すようだ。また、小名木川には、荷物の揚げ下ろしをするための、河岸とか船着き場と指定された場所は、特に無かったとのことだが、守黙庵の『船橋紀行』では、行徳からの帰路、扇橋で船を下りている。
 扇橋という地名は、雅な故か紀行文などによく登場する。一九も『金草鞋』で美人の年増二人が、扇橋から行徳船に乗り込む場面を、面白可笑しく記している。思うに、「この本」の作者も、他の紀行文などを真似て、実際の位置関係などは考えずに、「先きは扇橋にさしかかれば」と書いたものと思わざるをえない。
 管野洋介「市川市の近世文書①」(『市史研究いちかわ』第3号)に行徳船についての史料と解説があるが、寛政九年(1797)七月、本行徳村の年寄勘右衛門と百姓惣代茂兵衛が、小野田三郎右衛門役所へ差出した返答書(御尋ニ付申上候書上)で「(前略)長渡シ之儀者、本行徳河岸より小網町川岸迄の定ニ而、江戸の外江通船致候儀ハ無之候、尤定ハ小網町迄ニ限り候得共、揚場之儀者本所或者深川辺ニ而揚候、其旅人勝手次第ニ揚申候、然共船賃の儀者減し不申(後略)。」とあるので、船から下りるのは、かなり自由だったようだが、そのための特定の船着き場があったかどうかは、定かでない。
 話は前後するが、『魯文本』の弥二・喜多は、陸路を行くが、『黄金の駒』の「権八」と「候兵衛」の二人は行徳船に乗る。行徳河岸につくと、「一番船ははや明七つに出て」とある。行徳船は、小網町と行徳の両方から出たのであるが、明け七つから昼七つ迄の運航だったようだ。
 前掲「市川市の近世文書①」に、寛永九年(1632)十二月に、本行徳村の名主と年寄達が連名で、伊奈半十郎役所に差し入れた請証文の中に、そのことが記されている。少し長いが引用しよう。
「此度当村より安房・上総・下総・常陸右四ヶ国之旅人江戸小網町三町目迄船往還被 仰付、尤此節当村百姓共御改被遊候所、百軒余有之候ニ付、弐軒ニ付船壱艘ツヽ都合五拾三艘所持いたし船往還無差支、縦風雨雪中たり共、小網町三町目行徳河岸迄、船路三里余通船可相勤旨、今般被仰付、右旅人積送り荷物共、揚場小網町三町目川端ニ、三間ニ拾六間被下置、右川端ニも六軒店与申旅人船持宿御定被下置、船持宿ニも壱軒ニ船弐艘ツヽ都合船数拾弐艘、江戸より行徳江出船可致旨是又被仰付、然共行徳小網町共ニ心得、御関所夜中者通船不相成候間、双方昼七ッ時迄出船致、七ッ時過候ハヽ出船決而致間敷候旨厳敷被仰付、此段奉畏候」
 
〇笹屋うどん
 両人は、船頭に行徳の名所を尋ね、「中山こんにゃく・笹屋温飩・徳願寺・塩浜・利根の川也」と教えられて、行徳に着いて先ず笹屋に入ると、二八(十六文)だと思って十八杯も食べたあとで、勘定でもめるのだが、『黄金の駒』の二人も同じくもめている(本文100頁註参照)。
 行徳の笹屋は、房総への旅日記や道中記には、必ず登場する超有名店だった。一九は、『旅眼石』で、「行徳の里にいたり、笹屋といへるに、やすらひはべる。ここはうどんの名所にて、ゆききの人、足をとどめ、うどんそば切たうべんことを、切に乞ひあへれど、打つも切るもあるじひとり、いまだそのこしらへ、はてしもあらず見へはべれば、
   ご亭主の 手打ちのうどん まちかねて
    いづれも首を ながくのばせり 」と詠んでいる。
又、『房総三州漫録』に「四丁目の笹屋頼朝卿の温飩を食し給ふ故跡とぞ」とあるが、伝説の世界のことで、笹屋の祖は、寛永十三年(1636)歿の飯塚三郎右衛門で、貞享二年(1685)歿の飯塚仁兵衛から代々、仁兵衛を名乗ったといわれている。
 
〔2〕行徳から八幡へ
 両人は、笹屋を出て、汐浜を一見し、徳願寺に参拝して、「徳願寺に至り見るに相当の寺也」と感心、この寺にある宮本武蔵の墓碑を拝む。
 『房総三州漫録』に、「徳願寺十夜の時忙し」とある。十夜とは、浄土宗の法要で、陰暦十月六~十日、昼夜の間修する念仏法要のことだ。『黄金の駒』の権八・候兵衛のコンビも、この寺へお参りしている。目だ助・谷ぼ八の二人は徳願寺を立って、甲の宮へ参りその由緒を聞いた後、真間弘法寺に至り、手児奈の悲話・継橋の謂れを聞く。次いで、国府台古戦場の跡を訪ねて往時を偲び、しばしの感慨にふけり、句を詠んでいる。
 『江戸名所図会』「国府台」の項に、「総寧寺の辺より真間の辺までの岡を、すべてかく称するなるべし」とある。また、「国府台古戦場」の項には、「総寧寺の境内すべてその旧跡なり。(中略)殿守台の旧址同じ境内にあり。上に富士浅間の小祠ありて、白檀多し。石櫃二座(同所にあり。寺僧伝へいふ、古墳二双のうち、北によるものを、里見越前守忠弘の息男、同姓長九郎弘次といへる人の墓なりといふ。一つはその主詳らかならず。あるいは云ふ、里見義弘の舎弟正木内膳の石棺なりと。)」とある。
 ここで、両人は案内の老僧と別れ、平田を通って八幡に着くが、日も暮れ始めたので、此処に宿をとる。
 『黄金の駒』のコンビも、『魯文本』の二人も、徳願寺へはお参りしているが、その後は船橋へ直行したようだ。
 
〇八幡不知の森
 翌夜明けに出立、葛飾八幡宮に参拝、近くの竹山(八幡不知の森)の側で、一人の老人から水戸黄門と不知の森に関る伝説を聞く。別名「八幡の藪知らず」とも云い、数多くの伝説があるが、右の話もその一つで、その他主なものに、八門遁甲の陣伝説・将門の墓所伝説・行徳飛地伝説などがある。因みに「八門遁甲の陣伝説」とは、天慶の乱の時、平貞盛がここに陣を敷き、平将門を破ったが、貞盛はこの時村人に対し「この地に八門遁甲の陣を敷いたが、死門の一角を残すので、万一人が入れば必ず祟りがある」と言い残したので、以来誰も足を踏み入れなくなった。という話に由来している。八門とは、人体の開門・休門・生門・傷門・杜門・景門・死門・驚門のことで、また「八門遁甲」とは、占術の一種で盛衰・吉凶を占う法で、出陣や出向の際に用いられ、諸葛孔明はこれをよく用いたという。
 当時八幡では、不知の森の他に八幡梨が有名で、『江戸名所図会』にも「梨園、真間より八幡へ行道の間にあり、如月の花さかりハ雪を欺くに似たり」とあるように、梨畑が多く、江戸では「八幡梨」として名高く、大量に出荷されていたようだ。ちなみに現在でも、「梨」は市川市の基幹農産物で、県内1位、全国でも有数であると、市川市のH・Pに記されている。しかし最近は、ゆるキャラ「ふなっしー」の大ブレイクで、全国的には、「船橋の梨」の方が有名になっているかも知れない。
 なお、真間・国府台・八幡辺りのことについては、『船橋市西図書館所蔵史料集第七集』所収の「真間紀行」に詳しい。
 
〔3〕八幡から船橋へ
 両人は、八幡を立って、宝成寺に参詣する、途中医者躰の人に出合い船橋の名所を尋ねると、この人は二人に同道。道々弘法大師の石芋伝説を語り、船橋の茶屋に入って、「先ずあらましを聞かせん」とて、西福寺の石塔・大神宮の相生の竹・了源寺時鐘・女郎の八兵衛の話をしてくれる。これらの話については、綿貫啓一著『船橋歴史風土記』に詳しい。
 
〇八兵衛
 船橋に数多ある名所や伝説の中で、つとに名高いのが「八兵衛」で、前掲『房総三州漫録』には、「船橋、日本武尊着岸の地といふ。大神宮あり。八兵衛名高し。」とあり、他にも多くの道中記や紀行文に登場する。
 一九は、『旅眼石』に次のように記している。
「その日ハ、舟ばしのゑびやといへるに宿かりて、やすらひたるに、あるじ出て、八兵衛なん、めさるべくやといゝたるを、いとあやしみて、いかにといふに、予が僕太吉なるものゝいへるは、この駅のめしもりおんなを、八兵衛と申侍るハ、古きことのやうに聞はべれど、其のゆへハ、しりはべらすと打わらひぬ、かの遊女のさまハ、かみかたちことやうにて、廣袖のあかつきたるを身にまとひ、あしに紺の足袋をはきたるハ、いとにげなくて、さながら、おのこのいかめしきすがたなりければ、
   上総にハ 七兵衛景清 或るやらん
    ここに下総 八兵衛めしもり」
 目だ助・谷ぼ八の二人は、船橋の今津屋という旅籠に泊り、八兵衛を買ったのだが、その場面に「この家御職女郎出てきたり」、「是が則ごくらくなるべし、天女の如き女をあいてにし‥」などと書かれている。一九の観察とは、随分と異なるのは、二人の旅は、一九から、おそらく六十年以上たってからのこと故か、とも思われるが、江戸十方庵主釈敬順が、文化十一年(1814)二月に船橋を訪れ、この地にて人に聞いた話として、
「当駅(船橋駅)に賤女(メシモリ)妓有て異名を八兵衛といへり。旅客多き時は家に抱へし売女のみにては引足らず。故に近村の嬬(ヤモメ)又は婢(ハシタ)女等を雇ひ、飯盛女に仕立て相手とす。若きと云者廿二三歳内外、としまといふもの三十歳より四十歳に及ぶも有となん。依て昔より八兵衛と異名す。其の風体とり廻し言語に至るまで、絶倒せざるはなし(『船橋市史前編』)」とある。
 当時、船橋を構成する三か村(九日市・五日市・海神)の内、九日市のみが旅籠屋家業を許されており、八兵衛と呼ばれる飯盛女(当地では留女ともいう)を置くことができた。前掲『船橋市史前編』によれば九日市には寛政年中二十二軒の旅籠屋があり、飯盛女は当時一戸につき、二人以上は置くことが出来なかったが、代官所の度々の達しにも拘らず、この規制は長くは守られず、明治二年には、旅籠屋は二十九軒で、飯盛女は百三十四人もいたことが、記されている。とすれば、大きな旅籠屋には、飯盛女が十人以上もいたであろうと、推測されるので、「この本」の「天女のごとき女」はともかく、「御職女郎」の話は、やや真実味があるとも思える。
 また、船橋宿の飯盛女を「八兵衛」と呼ぶようになった由来も、様々あり、『葛飾誌略』には、「一夜の内にべいべい言葉を八百もいうので、ある旅人が略して八べいといったのが定まる。」とあり、落語「紺屋高尾」の枕では、船橋の妓は客がくると「しべえしべえ」というのではちべえと名づけたとある。『本書』の西行法師云々もその一つであろうが、西行が鎌倉で頼朝に会ったのは、文治二年(1186)のことで、そのあと鎌倉を出た西行は、少し西に戻って、今の辻堂から相模野を北上して平泉に向かったというから、船橋を通る筈はなく、鎌倉あたりの伝説かもしれないが、笹屋での頼朝卿の温飩と同じ類の話であろう。
 
〔4〕船橋から谷津・大和田・臼井を経て佐倉へ
 両人は、船橋を立ち谷津村へ向かう。「谷津村へ行く道を見るに、上総街道弓手は土手、馬手は海、是に甘酒屋あり、上総辺の者は、此所江休まぬ者はなし」と聞いてここで休むが、晴れた日なら、目の前に江戸の内海、遠く西方に富士と、さぞ美しい景色だったに違いない。両人はまたここでも茶店の老人から、一本榎・藤六松の謂れや、東福寺の薬師如来の由緒などを聞き、東福寺へ参拝した後、久々田から前原へ出ると、「頃しも九月の頃なれば、老若男女集いあい道々の雑談、いわんかたなし」とあり、「この本」では、ここで初めて具体的な季節が出てくる。
 成田山では、毎年5月・9月・12月に「柴灯大護摩供(さいとうおおごまく)」という、野外で修する御護摩祈願が行われ、5月と9月は、信徒の開運厄除と所願成就の祈願が行われるので、お参り月などとも云われている。
 
〇大和田原での危難
 前原を過ぎ、薬園台新田を経て、大和田の宿では、両人の前に行き過ぎた四~五人連れの鶏泥棒と間違えられ、村の若者に取り囲まれ、危くぶたれそうになるが、名所を尋ねる者の証として、
   子丑より 寅亥行もの 午未申 
    酉戌人を 卯きな辰巳に
と、即興で十二支を和歌に詠みこみ、危うく難を逃れる。
 『魯文本』では、この大和田で、「弥二郎が団子を猿に見せびらかし、興奮した猿に団子を奪われ、それを見た相棒の喜多八が猿を打ちのめすのだが、この猿が、村の鎮守のお使いだったので、二人は村人につかまり、罰として、焼いた牛蒡を尻におっつけられ、ほうほうの躰で逃げ出した」(要約)。というくだりがある。また『黄金の駒』では、権八が、大和田原で小金牧の小馬を捕まえて乗っていると、馬役人につかまり、馬泥棒と見なされてぎゅうぎゅう絞られる。それぞれ話は違うが、どれも皆この大和田で、難義に遭っているところが、共通していて面白い。
 さて我らが両人は、この後、馬子を味方につけて、谷ぼ八が目だ助の脇差を借りて腰に弐本差し、侍の姿に化けて、鶏を盗んだ者達に一杯食わせて、鶏を取り上げうっぷんを晴らす。
 臼井に着いた両人は、そこでまた茶屋の亭主から、臼井の大楠・鹿島橋・佐倉惣五郎・佐倉城主前堀田家改易などの話を聞く。右の臼井の大楠の話は、『魯文本』では、弥二郎が大楠を抱えて、「ヲヤ〳〵、こりゃあ滅法太い。おらがかゝあの腰ときている。イヤどっこい」と云ってる場面があるが、この楠はいまも、八幡社(佐倉市八幡台)の境内に、枯木を途中からそのまま保存しているそうである。
 
〇佐倉惣五郎の伝説
 「佐倉惣五郎」の話は、『地蔵堂通夜物語』や歌舞伎「佐倉義民伝」などで広く知られている。「この本」の作者も「くわしき事は惣五記にあれば是を略し」と書いているが、「佐倉惣五郎伝説」形成に関し、『成田市史』には、左記のような説明が記されている。
①「惣五郎」の伝説は、江戸時代前期から佐倉領内で語り伝えられており、宝暦・明和(1751~72)頃には、『地蔵堂通夜物語』という著述さえ成立していた。
②この事件があったと伝えられる承応年間(1652~54)に佐倉藩領の年貢率・年貢量ともに最高値を記録していること、領主の堀田正信が程なく改易に遭ったことなどから、次第に形成されたのであろう。
③また、関東における怨霊伝説の代表平将門と、将門山の堀田正信寄進の鳥居が、惣五郎伝説の形成に一役買い、口の明神の信仰を生む。
④延享三年(1764)に、堀田正亮(正信の弟正俊の家系)が佐倉に入封したときには、惣五郎の伝説はすでに領内に定着しており、領主が無視し得ない存在となっていて、堀田氏は、領内に生まれた怨霊・義民の伝説を、かえって積極的に取り入れることにより、領民に対応せざるを得なかったといえよう。
⑤こうして、「佐倉惣五郎」の伝説は、圧政に苦しむ民衆の願望に支えられ、義民伝承としてさらに発展したということが出来る。
 
 目だ助・谷ぼ八の両人は、佐倉の城下でこの話を聞き、惣五郎を祀った口宮へ参り、感動して一首を詠む。
 なお、口の宮明神は大佐倉の将門山にあったが、明治三年、佐倉藩が惣五郎の合祀を廃して将門神社と唱えることとしたため、現在は将門大明神の祠のみで、口の宮の祠はない。
 
〇鰻のかばやき
 口の宮に詣でた後で、両人は酒々井の中川名物、鰻のかばやきに舌鼓を打ち、またもやその安さに驚き感動して、
   印んば川 打いでみれば 蒲焼の
    高根と思ひしに 安き名物
と、赤人をもじった、下手な一首を詠んでいる。
 中川の鰻も成田道中の名物で、『魯文本』の弥二・喜多も、此処で蒲焼を食ったと書かれているが、『黄金の駒』では、「宿を立いで印旛沼にそふて、酒々井といふ所を過る。ちかき頃までは此沼にて鰻とれ、茶屋あまたありしが、今は蒲焼の古跡となりしかば、
   蒲焼の うなぎも今は 印旛沼
    茶屋のかかしゅの くしもさゝれず
と詠んでいて、「この本」とは対照的であるところが、面白い。
 
〇酒々井の宿で
 さて、目だ助・谷ぼ八の二人はこのあと、酒々井の中屋へ宿をとる。その晩、谷ぼ八は下女と仲良くなり、首尾よく、寝床に忍んで行く約束をとりつけた。そこまではよかったが、これに焼きもちをやいた目だ助が、宿の老婆に弐朱も遣って、下女と老婆の寝床を入替えたので、そうとは知らず谷ぼ八は、下女だと思って、老婆の寝床に潜り込み、女が皺だらけなのに、仰天するという、おそまつな一幕があって、両人の旅は終わる。
 両人一時は喧嘩にもなりかけたが、時の氏神が現れた様で、お終いには「元のとおり仲もなおりて、弥、成田山へと心さしけり」とあるが、未だ新勝寺へ参拝もせず、門前町の賑いなどの記述もなく、やや尻切れトンボで「この本」は了となる。