近世の房総文化

 房総が江戸と比較的近い位置にあったことは、経済や政治の面ばかりでなく文化にも大きな影響をあたえていた。それはすでに元禄のころから立ち現われていたが、近世後期に特筆的なことは、豊かな経済力を背景に豪商農層が地域で文化を育み、またそれが中央に出ても引けを取らない高い水準になってきたことにあろう。その代表的人物に伊能忠敬がいる。近世の房総地方では江戸との交通・ネットワークがもたらす社会経済上の緊密な諸関係を最大の条件として、多様な文化と学問が展開した。
 国学とは、日本中心の歴史知識や和書文献の追究を通じて、包括的な知識・理論と文化実践にまで到達した学問動向で、近世中期には賀茂真淵・本居宣長、後期には平田篤胤(1776~1843)が国学者として代表される。
 下総・上総の二国は、平田篤胤の生前に全国中でも最も門人が多い地域であった。篤胤は常陸・下総・上総を遊歴したが、文化十三年(1816)の上総(佐原・銚子・鹿島)方面の旅行では『かぐしま日記』を著した。同日記は文化十三年四月十九日より五月二十四日までの足跡が記されている。この『浜路のつと』とほぼ同時期といえる。
 この頃今富村の東隣りの引田村の名主立野良道(たちのよしみち)(1792~1867)は著名な国学者であった。学殖は深く『上総志外伝』『上総志総論』『上総志料・安房志料』など多くの著作を残している。
 また一時代下がるが今富村の北西に位置する島野村の鴇田重粲(ときたしげあき)(1822~1907)は若年のころ江戸に出て天保国学を学び和歌の手ほどきも受けた。代々名主を勤めた鴇田氏は国学者であった。
 俳諧は俳諧連歌から発生した集団の文芸であったが、近世になり発句が俳諧として独立することによって庶民の間に急速に広まって行った。天明年間(1781~89)には質量とも大きく興隆し、「天明俳諧」と称揚されている。さらに文化・文政年間(1804~30)になると社交遊楽の具としての傾向を強め通俗化したが、俳諧の受容層はさらに拡大し、ますます隆盛となった。文化年間、小林一茶は毎年のように房総へ俳諧行脚を重ねている。和歌や漢詩は一部の上層農民にしか受容されなかったが、俳諧は在村文化の中で最も広く普及した。
 漢詩でも文化・文政期には江戸詩壇が隆盛となった。詩の大衆化は加速し、詩人たちは経学や道徳との関係を意識することなく詩を作るようになった。近世漢詩の現実主義化すなわち日本化をもたらすこととなった。
 和歌では、近世中期享保頃の宮廷では、仙洞あるいは禁裏御所で間断なく和歌御会が催されていた。江戸では吉宗の和歌振興策が功を奏して活況を呈するに至った。寛政期(1789~1800)になると、江戸では加藤千陰や村田春海を中心に盛んに歌文の会が開かれ、江戸派と称された。江戸派および旧派歌人がひしめき論争を続けていた。文化・文政期には松平定信が和歌に心を寄せ、新旧歌人の交流に助力した。
 
参考文献 塚本学『地方文人』1977年 教育社
     『岩波講座日本文学史第10巻 19世紀の文学』 1996年 岩波書店
     板坂耀子『江戸の紀行文』 2011年 中公新書
     『千葉県の歴史』 2007年 山川出版社
     『千葉県の歴史 通史編 近世2』 2008年 千葉県
     『市原市史 別巻』 1979年 市原市
 
 以上『浜路のつと』の文雅の背景について概観したが、次に旅の行路にしたがって著者一行の足跡を追ってみよう。