弥生十九日

   〈要約〉
○望義が小網町という所まで一緒に来た。ここから舟に乗るので、互いに名残を惜しみ、後ろ姿が見える間ずっと見送ってくれた。望義を残して行くので、ひたすら故郷(江戸の人々)のことばかり考えている。扇橋を過ぎる頃雨が降り出し、舟を覆っている苫(とま)から洩れる雨のしずくも涙に思えた。釜屋堀の辺りで雨が止むと、寂しさの中にも移り行く左右の河沿いの色彩に目がとまり歌を詠む。柳はみどり、八重桜が咲き誇っている頃である。行徳の河岸で下船し、行徳街道を行く。二俣・船橋の塩浜を見、房総往還に入り、馬加・検見川・登戸まで歩く。登戸の木村屋の主人は兄君の知る人で、皆が歓迎してくれ寂しさも少し落ち着いた。
   〈註〉
日本橋小網町の川端には長一六間、横三間の旅人荷物揚場があり行徳河岸と称した。行徳河岸には旅人改番所、御高札場が設けられていた。 ―『千葉県歴史の道調査報告書十八 海上・河川交通』1990年―
本行徳の成田山常夜燈の立つあたりが、かつて行徳の新河岸であった。本行徳と日本橋小網町との間は江戸川、新川、小名木川を通って水路で結ばれていたが、これは行徳の塩を江戸へ回送するために開削、整備されたものであった。この間を航行した船は行徳船、または長渡船、番船と呼ばれた。本行徳の河岸を上がって行徳街道につきあたる手前が旅館しがらきで、街道を隔てた向かい側が笹屋うどんの店である。 〈口絵⑰参照〉
行徳船場 行徳四丁目の河岸なり。土人、新河岸と唱ふ。旅舎ありて賑はへり。江戸小網町三丁目の河岸よりこの地まで、船路三里八町あり。このところはすべて、房総・常陸等の国々への街道なり。 ―『江戸名所図会六』 1997年 筑摩書房―
塩浜 同所、海浜一八箇村に渉れりといふ。風光幽趣あり。 〈口絵⑱参照〉 ―『江戸名所図会六』―
船橋 駅舎なり。海神村および九日市場村・五日市場村等の三邑の総名にして、古への神領の地なり。 ―『江戸名所図会六』―
馬加(まくわり)村 花見川右岸域に位置する。治承四年(1180)石橋山の合戦に敗れた源頼朝は安房国に逃れ、再起して下総・武蔵方面へ向かったが、その途次、花見川村(華見川・検見川とも)に逗留し、同村および隣接地で諸軍の馬を世話したので「馬加」の地名が起こったという所伝を残す。江戸時代の馬加村は慶長十九年(1614)には高六七〇石で幕府領。元和五年(1619)から四〇九石が江戸南町・北町両奉行与力給知となり、元禄十三年(1700)頃は高六七四石余で、与力給知と旗本保田領。 ―『千葉県の地名』1996年 平凡社― (以下地名・寺社名はすべて同書を参照しているので書名の記入は略す)
検見川村 慶長一九年(1614)の東金御成街道覚帳に村名がみえ、高五五〇石。元禄一三年(1700)頃は高六二〇石余、幕府領と旗本金田・清野両氏の相給。江戸まで海上八里、運賃は米一〇〇石に付き一石。
登戸村 寛文元(1661)年より幕末まで佐倉藩領。登戸浦は江戸湾に臨んで置かれた湊で、海上一〇里の江戸までの運賃は米一〇〇石につき一石一斗であった。房総往還を往来する者が当地と江戸間を船で行き来したようで、茶屋などが置かれていた。明治二十四(1891)年の「千葉繁昌記」に茶屋旅篭に木村屋他の名が記されている。 〈口絵⑲参照〉 ―『千葉県歴史の道調査報告書十四 房総往還Ⅰ』 1990年―