弥生廿日

   〈要約〉
 ○雨が止まない。供の男二人と木村屋の人々の勧めで馬に乗って房総往還を行く。思ったよりとても優しい馬だった。寒川を過ぎ雨で見通しの悪い海を眺めては江戸の方角を考える。紅の花に目が止まる。昼食を食べた曽我野の亀屋はとし子の故郷の知り合いで、ここでも親切にされる。空が晴れ渡ってきた。とし子の故郷の家から馬二頭と下男一人迎えに来る。村田川の渡し舟を待つ。また川がある(養老川のことか)。故郷の家から迎えの人二人三人来て待っていた。根本の家(とし子の故郷の家)に着き、待っていた人々から大喜びされる。
   〈註〉
寒川村 江戸湾に臨む湊町。都川河口部に河岸が設けられ、安房・上総と結ぶ房総往還や東金道・土気往還が通る交通の要所であった。寛文元(1661)年から佐倉藩領で、幕末まで同藩領であったと考えられる。
曽我野村 西は江戸湾に面し、浜沿いに房総往還が通る。曽我野浦が設けられていた。元禄十三年(1700)頃は、矢部・山崎・河野・土岐四氏の相給と幕府領および春日神社領で、高五九四石余。
村田川 現在市原市の北部を流れる二級河川。市原市北東隅の金剛地に源を発し、八幡海岸で東京湾に注ぐ。下総・上総国境であることから境川と称された。
今富(いまどみ)村 久留里道の継立場で、渡船場が置かれた。慶長十年(1605)以来、旗本松下領。文政十年(1827)より鶴巻藩領で幕末に至る。元禄郷帳では高五〇〇石余で幕末までほぼ同様。
根本の家 とし子の故郷の家である。とし子が名主の根本家出身なのかは不明。江戸時代の結婚は同じ村の中かまたは同じ支配者の村が良いとされた。しかし名主や裕福な地主は同じ村内で釣り合いのとれた結婚相手を見付けることが難しく、近村の家柄・財産の同等の家と結婚した。大地主ともなれば近郷では見つからず、遠い所から嫁や婿を迎えた。 ―『わがふるさと長南』昭和63年 長南町―
 とし子の亡き姉は牛久に、もう一人の姉は木更津に住み、とし子は江戸に住んで(嫁して)いる。とし子の出身家の家柄の良さがうかがえる。
今富村の名主は根本氏の世襲である。千葉氏の流れを汲み、宗家滅亡の時今富に移り、姓を根本と称しこの地に定住するようになった。慶長十五年久留里藩主土屋氏の家老が根本家で休息し、久留里城まで人馬継立を行って以来、同家は参勤交代をする土屋氏の本陣になり、のち久留里道の問屋として諸大名の継立を行ったという。明治に入って千葉姓に復した。
著者一行は房総往還の五井から久留里道中往還(殿様(とんさ)道)に入り、現在の市原インターチェンジ付近を通って、養老川を渡って今富村に着いたようだ。渡船場は今富・町田・廿五里(ついへいじ)の三村が川越役を勤めたが、三村の協同管理・運営のもとに置かれていたものと推測できる。現在の柳原橋あたりに今富村の渡船場があったといわれる。江戸時代には養老川は今よりももっと東方に屈曲していたようだ。 ―『千葉県歴史の道調査報告書一五 久留里道』より― (以下『久留里道』と略す)