〈要約〉
○ようやくうららかな日となり嬉しい。とし子の父君が、安房の館山在住の兄君のいとこの所迄送ってくださるということで同行する。愛宕山を右に見て登る道をせんけん坂という。そこに続く山々はさほど険しくもなく、緑の莚を敷き詰めた様に美しい。所々に松が高く低く群れて生い茂り、あるいは丈の低い小松を並べて植えた様に並んで立っているのも良い。富士の峰の雪が白く見渡され、趣のある風情は言い尽くせない。富士の峰がどのように見えたかと人に聞かれたら、ただ空の中の雪と答えるだろう。この世の外の美しさに見とれ、わらびを折ながら歩く道もはかどらず、漸く寺坂を過ぎ、妙香の大原家にいるとし子の姪の所に寄り、昼食をいただく。牛久の内藤家に行き、去年の暮れに亡くなった、とし子の姉君の御墓に詣でる。父君ととし子の心中いかばかりか。自分も姻戚の縁を思い涙にぬれた。
〈註〉
せんけん坂 今富の隣村の宮原村の浅間山(標高60メートル位)を通る浅間山坂のことであろう。浅間山も眺望がすばらしい。 ―『市原郡誌』―
一行は久留里道を、今富村のはずれ近くまで尾根道を歩き、左折して山を下ったか、もう少し南下して左折し、大多喜街道に出たと思われる。一行が楽しんだ美しい山の風景は現在は一変し、ゴルフ場、山砂を取った跡地を利用した施設などが続き、久留里道中往還は途中が削られて途切れている。引田地積内の竹林内に正面に「みなみ くるりみち たかくらみち」左面に「西 かさかミ道 あねさ紀みち」、裏面に「北 江戸みち ちはでらみち」右面に「東 かさもりみち うしくみち」とある道標があった。 ―『久留里道』―
妙香 妙香村。養老川が流れる。寛政五年(1793)の上総国村高帳では、高三六二石。旗本水野領。幕末まで同氏領。
牛久 牛久村は寛政五年の上総国村高帳では高一八七石。旗本水野領。幕末まで同氏領。養老川の河岸場で、長南と木更津を結ぶ往還が通り、寛文期(1661~73)には物資の集散地として町場化していたとされる。
〈要約〉
○牛久を出、内田を過ぎ、笠森の御山に来た。お堂を岩根に作り、支える柱は短いのも長いのもある。本尊は岩の上にいらっしゃる。実に良く工夫したものだ。日の本に二つとないと思う。下から棟迄七丈余あるという。観世音を拝し、お堂を下りて見て歩くと芭蕉の碑があった。下り道につつじが鮮やかに美しく咲いていた。錦翠主の発句に和歌を交わしながら、漸く長南に出て、現逢屋に泊った。
〈註〉
内田 内田郷・内田村。養老川支流の内田川流域に比定される。江戸時代は広域通称。元禄郷帳・天保郷帳では内田を冠称する村は十四村。五村は寛政五年では旗本永井領、のち旗本伊丹領。外九村は幕末まで伊丹領。
笠森観音 延暦三年(784)に最澄が楠の霊木で十一面観音菩薩を刻み山上に安置し、開基されたとされる古刹。大岩の上にそびえる観音堂は、六十一本の柱で支えられた四方懸造と呼ばれる構造で、日本で唯一の特異な建築様式であり国指定重要文化財である。長元元年(1028)に後一条天皇の勅願で建立されたと伝えられているがその後焼失し、現在の建物は解体修理の際発見された墨書銘から文禄年間(1592~1595)の再建とされている。 〈口絵⑦参照〉 ―「笠森寺HP」―
芭蕉句碑 元禄時代(1688~1704)、松尾芭蕉が俳聖としてあがめられるようになると、全国各地に芭蕉句碑が建立されるようになった。ここ上総国で建立された最古のものが、安永六年(1777)に建立された笠森寺の芭蕉句碑である。山門手前の崖の上にある。 ―「笠森寺HP」―
錦翠主 卯月三日に「とし子の父君安房の館山におはす兄な君のいとこの許迄送らんとてともにおはす」、「父君とし子の御心のうちおしはかりて」の後、笠森観音から下る道で発句を詠んでいる錦翠主という人がいる。この人に対し、いつも著者は敬語体を使っている。錦翠主はとし子の父君と思われる。
長南 中世は武田氏の拠点の一つとされる庁南(ちょうなん)城が置かれた。長南の市街地からは、一の宮・睦沢・大多喜・鶴舞・長柄方面へと街道が伸び、交通の要衝地であった。江戸時代は矢貫村内にあった大多喜往還の宿駅で物資の集散地となった。矢貫村の支配は久世領・幕府領・柳澤吉保領・幕府領を経て、元禄十四年(1701)から旗本三枝領。 ―『千葉県歴史の道調査報告書十三 大多喜街道』1990年―