〈要約〉
○三途の台という東叡山の末寺を拝し、仙田というところの法華勧請の御寺を拝す。どちらの寺も御堂の造り様あれやこれや尊い。近道をして御寺の山を越え、宿へ出る。人の往来が多いので聞いてみると今日は市の日だという。わざわざ行ってみると、様々なものを商っていて、いなかの人が麦・豆あるいは米・小豆などと交換していく人もある。なかには銭を与えて買う者もある。人目が多い中で何を盗んだのか声を出して追いかけ追われ、とても騒がしくて長居は無用だ。〈うることのかたきこかねにかへてしも世にしら浪の名をはなかさし〉と、つくづく思った。この宿の末で昼食を食べる。
○錦翠主のゆかりの関という所の大和氏の家に立寄る。宿泊を強く勧めるのを断わりがたくて泊ることにした。夕方庭を巡り歩くと、とても広くて、池も二所あり、築山も手入れを尽くしている様子だ。囲いの中を見歩くと、畑の中は四、五町ほどもあり、松林も横縦共七、八町もあるだろう。わらび、ぜんまいなど盛んに萌え出ているのをたくさん折り取った。
〈註〉
三途の台という東叡山の末寺=長福寿寺 延暦十七年(798)に桓武天皇の勅願により最澄により創建され、文和年中(1353)に比叡山義憲僧正によって再営された古刹。中世から天台宗関東十檀林の一つとして著名で、西の比叡、東の三途台と称された。上総・下総・安房における大本山として末寺三〇八ケ寺を有していた。三途(さんず)台(だい)とは、長福寿寺が三途川の中州のような所(厳密には中州ではない)に建てられているからである。本堂を背にして遠くを眺めると三途橋(現在は長南橋)があり、この橋の向うが娑婆世界、川を渡って長福寿寺境内に入ると極楽世界となる。つまり娑婆から三途の川を渡って極楽の阿弥陀様(長福寿寺の本尊)に逢いに来るということだ。 ―『大多喜街道』・「長福寿寺掲示物とHP」より―
仙田というところの法華勧請の御寺 仙田(千田村)には古刹の称念寺があるが、古くは時宗で江戸時代は浄土宗寺院である。この「浜路のつと」の文中にある「法華勧請の寺で御寺の山を越え宿に出る」、大多喜街道沿いの御寺というと、下茂原村の日蓮宗の名刹藻原寺か鷲山寺が考えられる。 ―『千葉県歴史の道調査報告書十四 伊南房州通往還Ⅰ』より― (以下『伊南房州通往還Ⅰ』と略す)
宿 市の日 下茂原村は近世には単に茂原村とも称され、在郷町の茂原町が形成され、市場や馬継場があった。本能村方面からの通称房総東街道や江戸湾と外房を結ぶ伊南房州通往還、さらに長南宿への道が通る交通の要衝であった。茂原村の村高は六五〇石余(「天保郷帳」)、幕府領と旗本田沼・服部・有泉・塩入・石丸領の相給(「旧高旧領取調帳」)。茂原の六斎市は、慶長十一年(1606)旗本大久保治右衛門によって四と九の日に市立てが行われ、塩が最も大切な売買品であった。市では、服部領が塩、有泉領が米穀、塩入領は塩魚・干魚・鰹節そのほか戸板を並べる商人の世話を、また石丸領は絹太物古着・古道具あるいは旅商い分の商人の世話を行うことと決められていた。
関 関村は現在長生郡白子町関。現町域の西部中央に位置し西方に沼地が広がる。寛政五年(1793)の上総国村高帳では、高一千一二石余で、幕府領と館山藩領・旗本浅野領。