卯月七日

   〈要約〉
 ○今日は天気が良くようやく出発できた。ほどなく一の宮に出、海を眺め、東浪見から下総の足皮までの、九十九里の浜に面した村名を書きしるす。大変遠くまで見渡せる海辺で、端から端までは雲がかかっているようでよく見ることはできない。
 ○玉碕の明神に詣でる。社に続く細い道があり、小さい木戸が開いていたので覗くと、御社守の住居の庭の様子がとても良い。人影もないので気安く中に入って、岩山を半分ほど登っていると、どこからか老人が出てきて、誰だ、取り次ぎも無くなんで入っているんだ、と咎める。旅の者でございます。戸が開いていたので、お庭をもっとよく見たいと思い入りました。全部見せて下さるようお願いします、というと、今日は御主は不在だ、私が管理人なのではやく出てくれ、と荒荒しく言うので、とても憎らしくてそれ以上何も言わないで出てきた。考えるに木戸の戸締りを忘れたのだろう。岩山の半ばから見た海は言うまでもない。別当の庭には池の岸に藤、山吹、つつじすべて趣のある造りだ。ともかくも半ばまで庭に入って見たことは嬉しいことだと、皆で笑いながら歩いて行く。
 ○東浪見の軍荼利明王の御社を拝もうと、とても高い山を登って行く。玉碕の明神に劣らない立派さだ。ここからは道が厄介なので案内人を頼んで行くと、三度ばかり登っては下る。山には松がたくさん茂っているが、砂地なので潮風で根が掘れ返り、色々絡み合っているのもなかなか見所がある。海辺に出れば島山と言って、常に音が絶えないという。皆寄って聞いてみると、いかにも神が遠くで鳴り始めた(雷鳴)ようになみの声まで響き合っている。一人で行き来するのは恐ろしいと思うばかりだ。この先どうなるのだろう。
 ○太東崎の浦は今まで見たことのない様子をしている。潮が遠く干いているので海に沿って歩いて行く。片方は折り目がいくつあるのかわからない屏風を立て掛けたような岩山だ。半ばからは打ち掛けた波に砕けて落ちた岩だろう、いくつともなく折り重なっている上を、足を踏み外さないよう、よそ見も出来ずに行く。岩山の裾は所々掘れ入り、どんな雨でも凌げそうだ、むしろ小家よりよかろう、などと皆言い合う。海の端はただ緑の空に続くのみ。言葉にも述べがたく、ほんの一部分でも(書いておこう)と取る筆も投げ捨てられるばかりだ。
 ○それから飯縄の明神に詣でる。ここは平坦な所で、程なく長者町に出て、ます屋に泊る。すべて今日歩きながら思ったことは、ただ誰かれと故郷の方々への恋しさがさらに増したということだ。酉の半ば頃、少し地震があった。一晩中聞きなれない浪の音で眠れず夜が明けた。
   〈註〉
玉碕の明神=玉前神社 玉前神社は、玉依姫命を祭神とする「延喜式」神名帳にも見える古社で、「三代実録」にも記録される由緒ある神社。鎌倉時代には上総一の宮としての格式を保っていた。現在の本殿と拝殿は、貞享四年(1687)に竣工され、屋根は寛政十二年(1800)に現在のような銅板葺に改められている。 ―「玉前神社掲示板」―
東浪見の軍荼利明王=東浪見寺 東浪見村の標高40m程の軍荼利山には、暖地系植物が自生しその中に数種の北方系の植物が混入している貴重な植物群落(県天然記念物)がある。同山の頂上に立つのが東浪見寺(天台宗)で、以前は漁民の信仰を集めていた。現在の本堂は寄棟造りで純粋な禅宗様式。元禄十年(1697)と享保8年(1722)の記録があり、この時代の建立と考えられる。本尊の木造軍荼利明王立像は高さ約2mカヤ材の一木造り。像容は一面八臂の忿怒形であったが、明治初年の廃仏毀釈の影響で、八本あった腕を六本切り取られたため現在は胸の前の二本だけが残っているが、大分いたんでいる。作風は地方色の強いもので、平安末期か鎌倉期の作と推定され、木造の明王像では県内最古といわれる。 ―「千葉県教育委員会・一宮町教育委員会による東浪見寺掲示板」・『伊南房州通往還Ⅰ』・「千葉県公式観光物産サイトまるごとe!ちば」より―
太東崎の浦 太東埼は九十九里浜の最南端に位置する。起伏に富んだ海岸延長は4・5kmあり、標高は約10mから最高68・8mある。昭和二十五年十一月に灯台が設置された。 ―「太東埼説明板」・「Web情報」―
飯縄の明神=飯縄寺 飯縄寺の別称を飯縄権現・飯縄明神ともいう。飯縄権現は現長野県飯縄山(飯綱山)に対する山岳信仰が発祥と考えられる神仏習合の神である。中世では武将たちの間で盛んに信仰された。現在でも信州の飯縄神社・東京の高尾山薬王院・千葉の鹿野山神野寺・いすみ市の飯縄寺・日光山輪王寺など、特に関東以北の各地で熱心に信仰されている。徳川家によって庇護されていたと考えられる。 ―「Web情報」―
 飯縄寺は大同三年(808)慈覚大師開山。天台宗。戦国の世に武田氏が伝え土岐氏に引き継がれて拡まった飯縄信仰により太東岬に別当として飯縄大権現を祀り、江戸初期に御本尊に迎え飯縄寺と改め現在に至る。「飯縄大権現」は白狐に跨った烏天狗の御姿で火防・海上安全・商売繁盛・無病息災など十三のご利益がある。天海とも縁が深く、江戸中期には東叡山(上野寛永寺)直轄となる。以来、地元はもとより江戸からの参拝も多く、栄華を極め、寛政九年(1797)現在の本堂が再建された。武志伊八郎信由(波の伊八)の最高傑作といわれる本堂の彫刻が有名。本堂向拝に龍・欄間正面に牛若丸と天狗・欄間両脇に波と飛龍がある。 ―「飯縄寺リーフレット」―
長者町 寛文期(1661~73)に臼井村北東部に形成された市町。北部は夷隅川が流れ、伊南房州通往還が通る。当町出身に「房総志料」を著した中村国香がいる。