〈要約〉
○今日ものどかな朝日と共に出発。福原、小池を過ぎ、小浜という所の八幡に詣でるが、険しい山にある。岩を良い具合に切り開いて、屋根のみ作って御社にしている。いかにも清らかな様子だ。あちこち巡り歩き、木の根岩角をたよりにうつ伏して、そっと下を覗くと、山の裾に打ち掛ける浪の音は凄まじいが、砕けて散るさまは雪か花かととても美しい。海の中に差し出ていて五重の塔のような形の岩がある。この丈一丈ばかりあるだろうと言うと、そばにいた草刈り男が聞きつけて、なんと短い推量だこと、十丈以上もあるだろうと言う。心残りが多いがここを下って来た。この浦の魚を取るのをなりわいとしている家々が何軒となく立ち続いている。それぞれの作業をしながら、あちこちにいる人々が身に纏っている衣などが汚なそうなことは言うまでもない。
〈註〉
福原 福原村は夷隅川に並行して伊南房州通往還が通る。馬継ぎ場が置かれ、津(渡場)が設けられていた。
小池(おいけ) 小池村は南北に伊南房州通往還が通る。延宝五年(1677)以降、旗本阿部領と大多喜藩領の二給で幕末に至る。
なお一行が歩いた順路は福原→小浜→小池→御宿である。著者の記述違いと思われる。
小浜(こばま)という所の八幡 小浜村城山の八幡岬にある八幡神社。八幡岬は鳶崎ともいい、かつては暗夜に篝火を焚き、漁船がこれを目印とした。城山の小浜城は永禄―天正年間(1558~92)鎗田美濃守が居城していたが、天正十八年七月本多忠勝に攻められ落城したという。跡地には慶長二年(1597)に新田野村から分祀したと伝える八幡神社がある。
〈要約〉
○御宿の半ばよりまた山になる。こちらから見渡すと、五六丈上から海の中に滝が流れ落ちていて、通れそうもないので、どうしたものかと思いながら行って、滝の方を身をしのばせて見ると、岩に穴を開けて通路にしている。この洞の中も清水が流れていて冷ややかだ。昨日見た所とは全く異なり、ここの様子は昨日の所に劣らないだろう
○部原は岩の形が同じ様ではなく、行く先々珍しくおもしろい。十間ほどだろうか、腰掛けるに良さそうな岩がある。しばらく休んで、みるめ・ひじきなどたくさん取って遊んだ。海士たちが波の中へ身も隠れそうなほど入って、あわび、さざえ、礒草を思い思いに採っている。また前に越したような山を過ぎて、沢倉、勝浦に出た。供の男がふと思い出したのだろうか、自分の故郷の東浪見より程近いと語るので、常々故郷の事を誇り高く言いだすのを、そばから打ち消し、あちらよりここ、あそこはなどと言い争いをしていたことを思い出し錦翠主が発句を詠む。そのうち彼の男といろいろ話をしている人がいる。誰なのかと聞くと、幼いころの友達だと言う。とし子も和歌で戯れ言をいいながら、山々のつらいことも忘れてなお歩いて行く道で、男女が一緒に田を返しているのを思いやって歌を詠む。この宿の一文字屋に泊った。今日の道中で思ったのは、又(江戸へ)帰りたいということだ。戌の時ごろまた地震がある。昨夜の地震よりはるかに強い。
〈註〉
御宿 御宿村は御宿郷ともいった。明暦年間(1655~58)頃に須賀・浜・高山田・久保の四村に分村したという。ただし分村後も御宿浦を共有する御宿村(御宿郷)四カ村としてのまとまりが強く、元禄郷帳では御宿村の一村で高付され高一千九八五石。
部原(へばら) 部原村は沢倉村の北東に位置し、東は海に臨む。伊南房州通往還が通る。寛政5年(1793)の川津村外七カ村海丈書上帳によれば、当村浦は渚より沖合五町目の海深九尋、同三六町目では二五尋。(通常一尋は六尺) 〈口絵⑯参照〉
沢倉 沢倉村は寛政五年(1793)の上総国村高帳では高一一七石余。当村浦は渚より沖合五町目の海深七尋、同三六町目では二一尋。元文二年(1737)当時、八手網七張があった。文化九年(1812)には対清国輸出品である干鮑六〇〇斤の生産を幕府に請負っている。御宿から部原・沢倉と、往還は岩礁と砂浜が繰り返される海岸線を進んでいくので、各村を通過するたびに坂を越えていた。 ―『千葉県歴史の道調査報告書一六 伊南房州通往還Ⅱ』―
勝浦 勝浦村は現勝浦市の南東部、勝浦湾の東手に位置し、伊南房州通往還が通り、大多喜街道が合流する重要な継立場であった。戦国期既に漁業基地あるいは大船の出入りする海上交通の要港として発展していた。武田氏の後天正十八年(1590)まで正木氏、宝暦元年(1751)まで植村氏、宝暦六年(1756)まで大岡氏、以降明治四年(1871)まで武州岩槻藩の飛地 ―『伊南房州通往還Ⅱ』―