〈要約〉
○風が凄まじく小雨が降っているが出発する。今日の海辺はひどく困難な道なので、どんなに行き煩うかわからないので、上野という所に出ようとした。その道で、幅二尺ほどのちょっとした土橋を渡ろうとする折に、ますます風が荒れて、蓑笠さえも吹き絞り、身さえ横向きに川の中へ落ちてしまいそうなのを、漸く橋を渡り終わった。このような風を経験したことがない。歩いて渡る河もある。また少しの山を越えて行くのも容易でないので、よくまあ海辺に出なくてよかったと言い合った。じきに台宿に出て、早めに昼食の乾飯を食べ、二三町行くとただ下りに下る道になった。左側は異なることはないが、右側は幾つとなく扇を半ば広げたような山が続いている様子はとても珍しく面白い。故郷の人々にこの風景を何と語ろうか。谷の底は霧が覆っているように見える。また二所ばかり草も木も無い砂山に、つつじだけが疎らに咲いている。錦翠主が、〈はけ山をわらふつゝしのよはひ哉〉と詠んだので、齢とはどういうことかと聞くと、この場所は火を着けて草・竹を焼いている。そのため他の草は枯れ果ててしまっているが、つつじばかりは自信たっぷりに咲いていると思ったのだと言う。焼く炎の中で音を止めて、根を留め、どうやってつつじの花は咲いたのだろうか。
○他の山々にも所々見える七八尺ほどの木に、安房と上総の境を印してある。そこから見下ろせる所は、両国の内にての湊とのこと。今日雨風が無ければ、この海辺を通って見ることが出来たのにと大変残念だった。ようやく下り終わって小湊の妙蓮寺に詣でた。日蓮上人の父母の墓所の御寺である。また少し先にある上人がお生まれになった御寺を誕生寺と言う由。なかにはそうではないと言う人もあるが、はっきりしない。巳の時ごろより雨も少し止んだが、山々や岩角烈しい道々でひどく疲れたので、未の時頃この宿の池田屋に宿った。日も暮れて又雨が降り出した。道の幅はかろうじて二三間程で、果てしなく見渡す海面はとても面白いけど一晩中荒い浪の音がし、特にこの宿の後ろの方は立て掛けたような岩山が幾つとなく並び立っている。昨夜のような地震があったら、どうしたらよいかと心配が絶えない。寝られないと呟いていると、錦翠主もほんとに変な事だ、私も同じだ、と言って起き出してきて、蔀(しとみ)を押し開けて外を見ながら、雨は晴れたけれど雲の切れ間も無いと言いながら又お休みになった。しばらく後灯火が消えそうなので火をかきたてねばと、そっと起きだして又空の様子を見たが、とても暗くて恐ろしいので、堅く閉ざして寝た。たいへん長い夜であった。寝ぬに明けぬというのは物思いがない折にと口遊むと、錦翠主がまた聞き付けて、ほんとうにいかにももっともだ、とても恐ろしいなどとおっしゃるので、明日はどんなに雨が降っても出発させてくださいと勧めた。
〈註〉
台宿 伊南房州通往還は勝浦村から墨名(とな)村を過ぎ串浜村で汀沿いの松部村への道と、串浜坂越で内陸部を通り上野荒川村への道に分岐する。両道は台宿で合流する。串浜坂は1km以上の登り坂で、油谷で大多喜街道からの道と合流する三叉路になる。ここから夷隅川の上流へ向って、往還は本流・支流を幾度も渡ることになる。十返舎一九の『房総道中記』では、このあたりの往還は「川多く大方は徒歩渡りなり」と記している。途中の下植野村は馬継場であった。上植野村を過ぎると上野台宿村。台宿村ともいい、往来客の休息場であった。 ―『伊南房州通往還Ⅱ』―
小湊 小湊村は江戸と奥州を結ぶ東廻り航路の港町で、交通の要地でもあった。船番所が置かれ、御用木廻船や御上米廻船などが立寄り船宿もあった。 〈口絵⑩参照〉
妙蓮寺 小湊は日蓮上人生誕の地である。妙蓮寺は日蓮上人の両親を葬った寺で、創建は文永四年(1268)。上人自ら石塔に刻して、父母の家上に立てたといわれる。
誕生寺 日蓮の弟子日家が建治二年(1276)に建立。明応七年(1498)と元禄一六年(1703)の地震と津波で流失。現在の伽藍は宝永年間(1704~10)に現在地に移り、その後整備されたものである。