卯月十日

   〈要約〉
 ○今日も小雨だが出発する。山を一つ越えて、後ろを見てごらんなさい、あれが昨夜の宿ですよ、と言われて振り返ってみると、今いる所よりずっと海に近く、ただただ海と山との真ん中に家があるようで、昨夜考えていたよりも危険な所であったと、いかにも恐ろしさが増した。
 ○天津の鶴屋で休憩し、雨も小降りになったので、清澄の御山に詣でた。山はいつも同じだがひと際角のある石ばかりで、うっかりすると躓いてひどい目に合うだろう。徒歩で渡る川が三か所ある。一カ所は縦に一町ほどを越える(川の中を上流に向かって登る)。皆石河で流れもとてもきれいだ。山に沿って細い道を行くと、片方は谷、その他は雲が遮っていて三間より先は全く見通せない。少し登り道が終わると山門に来た。清澄寺という額がかかっている。この字は唐人が書いたということだ。年号などもよく見分けられない。御堂もまったく今まで詣でた寺とは違う。岩に岩を重ねた山である。松杉も年を経て高くそびえ、梢には回って上る雲が絶えない。しばらく苔の莚に腰掛けて休憩する。院々は扉を閉じているようだ。物音も聞こえない。ひっそりとして寂しく、(世俗のことを)考えられない。僧たちが業をする所の入口に、女は叶わずと書いてある。しばしば下って行くので、この道は違うのではないかと言うと、登った時の雲がみな晴れ渡ったからだと錦翠主がおっしゃる。左の方は歩む道と同じ高さの山が重なり、ここもつつじ、藤がとても多い。細い谷河などとぎれとぎれに見える。ただただ偽りでないかと辿るばかりだ。
   〈註〉
天津 小湊から天津へ抜ける道は大萩神社前の道を真っすぐ行って山を越える道と、一旦海岸に出て寄浦から山を越える道があった。天津村は、文政十年(1827)の「農間商ひ渡世之者名前並質取金高取調書」によると、石高六一二石余、家数八三三軒人別三五四六人を数える、房総海辺通の人足継場をもつ大村であった。しかし山海に迫る細長い地形であるため耕地は少なく、漁業や商売に携わる者が多かった。なお二軒が旅篭屋渡世であった。
清澄道 清澄山への登山道を示す石の道標がある。「清澄道一里二十四町半」と刻まれている。昔は道は険しく、二間(ふたま)川を徒渉するところも数か所あった。坂本の集落を通り急な山の斜面を登る。尾根上の道に出ると両側に視界が開けてくる。清澄寺の門前に清澄村の集落があり、ここはかつて清澄細工で有名であった。清澄村は近世を通じて清澄寺領。村民の生計は山林労働や建具製作を主とする工匠、清澄寺の寺百姓としての用務や護符の配布で成り立っていた。 ―『伊南房州通往還Ⅱ』―
清澄寺 日蓮の出家・得度・立教開宗の寺とされる。一二〇〇年以上前、無名の法師が小堂を営んだのが創始、承和三年(836)円仁により天台宗に、江戸時代に入って真義真言宗、昭和二十四年(1949)日蓮宗に帰属。身延山久遠寺・池上本門寺・誕生寺とともに日蓮宗四霊場とされる。 〈口絵㉑参照〉
   〈要約〉
 ○まだ昼の飯を食べてないので御山の家に寄って頼んでみたが、無い無いとばかり言われて仕方なく、また一里ほど下山して休むだけのような小家に寄る。皆空腹が耐え難いといって、小豆を包んだ大きな餅で、塩からいだけだが、場所柄であろうか皆旨いと言って二つ三つほど食べる。茶も黒いばかりで味が悪いので水を呑んでまた下山したが、餅で力をもらって疲れもどれほど凌げたことだろう。また鶴屋に戻ってきて、未過ぎではあるが泊った。今日はあの餅で腹が膨れたので、誰も昼食を食べなかった。