卯月十一日

   〈要約〉
 ○大雨で起きても出発できない。清澄の事など語り出しながら、錦翠主戯れ歌といって、〈さしかゝる天津の原の雨やとりとめ力有るつるの一声〉雨も小止みにり、まだ午の時にもならないので、一里でも行きたいものだとおっしゃるので、出掛ける用意をしながら、〈名に高きたゝ一声の鶴たにもほのめく日には立も及はし〉なんとめんどうな丈(鳴き声の)比べだと笑いながら、前原の浦に来ると、魚を取る舟が数多く見える。今も一網引き上げたなどと浦人が語っている。五日に関村から見に行ったけれど、折悪く全部を見られなくて、残念で心残りだったので、今日こそ見たいと二人でお願いすると、それではこの宿のよしだ屋に宿って、ゆっくりと見せたいとおっしゃったので嬉しい。とし子も喜んで腰掛ける台を持ってきて見ている。一つの網に二つの綱があり、男女混じって四十人ほどが綱に取り付いて、木の葉のように見える舟を引き寄せている。始めは三十余町も綱の間があったのが、舟が寄るに従い綱も両方から寄ってきて綱の間がわずかになった。網が見えるようになったので、また人数が増えて、十人ほどは海の中に入って、ようやく網を岸に引き揚げた。大きな篭を二十ほど人が持ってきて網の中に入り、所々に柱を立てているような様子は、蚊帳を下げているのに似ている。主に鰯、鯷(ひしこ)である。その中から鯛、平目、いなだなど取り分けて、押し送りとかいう舟に入れて、江戸へ送る。どれも皆浪の中へ逃げて行こう思っているのだろう、指ほどの魚さえもひどく跳ねまわっている様子が哀れで何とも言えない。魚の山をの中を惜しげもなく人が駆け歩き、踏み散らす様子は、二度と見たくない。網を引き揚げる時の勇ましさだけは、人に見せ話したいものだ。この外の網はあまり多く掛ったので、むかい舟といって七つほど海に出し、沖に繋ぎ合って網の魚をこの舟に入れて帰った。この辺りの鄙人五、六歳から、老人も若い人も男女混じってこっそり網の中に入って魚を取る者もいる。網に漏れたのを取る者もいる。我先にと罵り合うのを制止することができず、弱竹で撓っているのを持ってきて、浪に浸けて打ち散らして追い払ったり、あるいは砂を投げつけて追い払われても少しも嫌がらず、皆持ってきた篭ひとつ程づつ取って行くようだ。その中で小さい童がずぶ濡れになってたった一つ二つしか取れず悔しいと言って泣いているのもさすがに哀れだ。また酒肴ちょっとした果物など様々持ってきて商う者や、海士たちが銭を払っている(者)もいる。魚を交換する(者)もいる。立ちながら食っているようなのはとても気味が悪い。漸く日が暮れようとするのに、まだ網の魚は取り尽くしてないけれど、いつまでも同じことだと思い吉田屋に帰った。また戌の時に強くはないが長い地震があった。今夜も浪の音がうるさくて夜明けまで寝られなかった。
   〈註〉
前原 前原町の江戸時代は横渚(よこすか)村に含まれ、加茂川と待崎川の間に位置する海岸沿いの町であった。伊南房州通往還が東西に貫いていた。寛永から元禄までは漁業・商業の町として繁栄していたが、元禄十六年(1703)の大津波で一千軒余りあった家は残らず流失し、流死人も一三〇〇人余という壊滅的な打撃を受けた。その後復興し多くの家は漁業・干鰯業に従事していた。地引網・大網繰鰯網・八手網による漁も盛んで、干鰯場も広範囲であった。本町通りには吉田屋や相模屋という旅人宿や商店が並び、醤油造などもあった。 ―『伊南房州通往還Ⅱ』―