卯月十二日

   〈要約〉
 ○今日もはなやかに射し出でた朝日と共に出発する。浪太の浦から舟を浮かべ、島の仁右衛門という旧家を見たいものだと言うと、舟長が言うには、昔植村何某君の御領地だった時わけがあって賜った島で、今も三里四方の海は我が物であるが、時移り世が替わってとても貧しくて弱々しくなっていると言う。詳しく聞いてみると、かの植村君は僅かに(子孫が)残っていらっしゃると聞いているだけで、よく知らないと言う。確かに行ってみると哀れ深い住家だ。まず立寄って島の中を見せて下さいと(錦翠主が)おっしゃると、さすがに人品は良いがよれよれの着衣の人たちが皆出てきて、おやすい事でございますがご覧の通り荒れ果てております。あちこち質問されるのもなかなか恥ずかしくてと、話をするのも昔の事が推量出来てわけなく心が痛む。〈うき世をもたへて忍はゝいつか又むかしにかへす波ふとの島〉つぶやくと錦翠主が何かに書いて見せなさいとおっしゃるのを、かの女が私にもと言うので、望ましくないことを聞きつけられてしまったと、後悔したけれどしかたなくて書いて見せた。それからあちこち見歩くがとても広くて岩の様などとてもおもしろい。少し高い所にある弁才天の御社は、岩を十間四方程切り抜いた中にお宮がある。珠の扉も塩風に破れ、紅の柱も霜雪に朽ちてようやく昔の跡を留めているばかりだ。鳥居も歪んでいるのを細い縄で結いつけている。神仏さえこのような世の浮き沈みはあるのだから、人の身の上にはと、むしろ他の人ではなく我が身にとってもつらいおりおりの忘れ草(憂いを忘れる種)、思いがけず良い種を得たものだ。旅の用具を預け置いていたので供の男がかの家に寄って言伝など伝えると、まず皆をこちらにお連れくださいと言って、預けた物を隠して出さないという。しかたないので又家に行くと、荒れ果てた住家であるが塵を払って待っていて、少しお休みくださいと言われるのはさすがに嬉しい。先ほどの和歌の話を言いだして、喜びのお返しをと言って和歌を出した。〈いにしえにかへす言葉のうれしさにまたかけそへぬそてのうら浪〉〈いつかとく昔に返すなみもやと待つにかひなき身をそうらむる〉文字も良くはないが見苦しい程ではない。年は三十過ぎかとみえる。自分も程無く江戸に行くのでお訪ねいたします、などと約束して別れたが、何となく名残惜しくて涙を落した。また元の舟で帰った。
   〈註〉
仁右衛門島 太海浜の約200m沖合にある。源頼朝や日蓮上人などの伝説が残る島で、波太島・蓬島ともよばれる。仁右衛門島の名前の由来は、源頼朝が安房に逃れたときこの島に隠れて助けられたので、頼朝が仁右衛門にこの島と近海の漁業権を与え、それ以来平野仁右衛門家が代々島主として世襲してきたことによる。当島には文化五年(1808)にお台場砲台が築かれ、武蔵岩槻藩士が交替で警備に勤めていた(「鴨川市史」)。この『浜路のつと』ではそのような様子は書かれていない。頼朝伝説もない。島の主は女性のようだ。なお、仁右衛門島の対岸の浜波太村は旗本植村(のち勝浦藩主)領。宝暦元年(1751)から大岡忠光領。同氏が武蔵岩槻へ転封となった後も幕末まで岩槻藩領。
植村君 天正一八年(1590)植村泰忠が上総勝浦に三千石を与えられた。同氏は大多喜城の本多忠勝を補佐する立場にあったという。天和二年(1682)四代忠朝が加増されて一万一千石を領知する大名となり勝浦に居所を営んだ。六代恒朝の宝暦元年(1751)分家の植村某が朝比奈氏に殺害された事件の処理法を咎められ、領知を没収された。
   〈要約〉
 ○江見という所の海辺は大方松杉の林で、岩のすみずみへ浪が打ち入るようすがおもしろい。海の中に七八町も(岩が)続いていて歩いて行ける。しかし鋭い岩角なのでたやすくはないだろう。幾度もこのような所では故郷の方々を思い出す。先ほどから果てしない海の面(が続き)、一つの歌でも作りたいと様々心を悩ますが、ただただ雲と海が紛れてわからないばかりで、言い出すべき言葉もない。この宿の亀やで昼食を食べる。松田の宿に出る頃から空が暗くなって風が吹き出した。今日は徒歩で渡る河が四カ所ある。またその中でも幅が広く深いように見える河にきた。海の岸に寄って、浪が帰る間に渡り終われば浅いが、脛の半分までは濡れてしまう。供の者が背負って渡ろうと用意していると、向いから三人四人女が来たが、簡単にこちらの岸に渡って、さあさあ私が背負って川を越させましょうと、二人を代わる代わる渡してくれた。世にも優しい人だ。代金を取ってほしいと、錦翠主がおっしゃるが、思いもよらぬと去って行くのを、せめて名前だけでも聞こうと河の岸に寄ると、それそれ浪に濡れないでください、速く退きなさい、と言い終わらないうちに足元に浪が寄せかけてくるのに驚いて逃げていたら、(女たちとは)もはや河を隔て、特別に浪の音が激しいので言葉をかわすこともできず別れてしまった。〈あた浪に人の情のかゝらすは身もうくはかりぬれましものを〉
   〈註〉
江見 江見村は朝夷郡に属す。伊南房州通往還が村内を通る。元文村高帳では旗本瓦林領五〇三石余・同浅野領一〇〇石・北条藩水野氏(のち鶴牧藩主)領一九石余。「伊能忠敬日記」享和元年(1801)でも同じ三給支配が記されている。
松田 松田村は安房郡に属す。伊南房州通往還は、海から離れ大原から松田に来ると内陸に入る。
徒歩渡りの河四所有りき 伊南房州通往還は現在の外房線および国道一二八号線にほぼ沿った街道であるが、この街道がいつ出来たかは正確にはわからない。房総半島を東西に横断する山脈が海に落ちる断崖絶壁の下を行く道であり、上り下りのきつい山坂が多く、断崖を横断する危険も多い、旅人にとってたいへん困難な街道であった。この街道には磯伝いあるいは砂浜波打際を歩く箇所が各所にあった。危険な道もそれ故に天気が良ければ奇岩快岩があって風光明媚な美景をもつ街道でもあった。この街道を歩いて、日記や紀行文を遺した人々はあまり多いとはいえない。江見から松田までの間には州貝川・長者川・蟹田川・三原川などが海に注ぐ。明治四年の小川泰堂一行も浜歩きをし、川にぶつかると徒渡りを繰り返して千倉へと向っている。 ―『伊南房州通往還Ⅱ』―
   〈要約〉
 ○賀茂という村に掛ったが日も暮れそうなのでここに泊ろうと村長(むらおさ)の家を尋ね寄って一夜を乞うが、無情にも断わられて、隣村は道の程も僅かで、長をしている家もとても広くてきれいなので案内するといって、一人を付けてくれたが、一緒に行くと教えられたとおり隣村はすぐ近くだ。また一夜を乞うが同じことを言い紛らして、泊めてくれない。又案内を頼んで行くがもう日は暮れてしまった。急ぎに急いだのでひどく疲れて、情けを知らない人たちだ、憎らしい憎らしいと口々に悪口を行って笑う。〈かこたしよ草のむしろに影やとす月諸ともに夜をし明さん〉なかなかよい歌だろうと言うと、皆少し機嫌を直して、漸く広瀬という所に出、かど屋に泊った。
   〈註〉
賀茂村 加茂村の南部を東西に、伊南房州通往還が通る。寛政元年(1789)では、北条藩領・館山藩稲葉氏領と寺社領。
賀茂村の隣村 竹原村、大井村または水玉村で、『浜路のつと』の記述にある「いそむら」ではない。街道は現在の国道百二十八号より北側を通っていたようで、加茂・竹原・広瀬へと道が続く。
広瀬村 山名川の中流右岸の平坦地に位置する。集落は村内を横断し伊南房州通往還に沿って発達。平安時代末期には群房庄(ぐんぼうしょう)のうちで、広瀬郷として推移した。享保十二年(1727)の安房国村々助郷請帳では旗本小笠原領。天保十四年(1843)では武蔵忍藩領。