〈要約〉
○北の風が吹いて卯月の空とも思えない寒さだ。また昨夜の賀茂村より北条を過ぎ、巳の時ほどに館山に着いた。主が出迎えてくれ、遅くて待ち侘びておりました、何事かお有りになったのかと思い煩って過し、十日に迎えを兼ねて事情をひたすら聞きたくて、わざわざ使いを出しましたと、お話になった。さあさあと案内され奥に入った。どこでも同じことだが手ぬかりなくもてなして下さることを何度も書くのも面倒なので止める。錦翠主はまだ昼にもならないので、すぐに行く(帰る)とおっしゃるのを、御主始め皆今日は明日は(ゆっくりしてください)と一生懸命お止めなさる。そのうち本つ家の御主が訪問なさって、様々お話をし最後は碁を打ち御酒を酌み交わし夜が更けるまで(いらっしゃる)。床の間に三幅の掛け物が有る。中の絵は赤人が田子の浦に出でて、富士の峰を詠んでおられる所だ。
〈註〉
北条 北条村は南北に貫く鹿野山道に沿って街村を形成する。鹿野山道の継立場(北条宿)。寛永十五年(1638)から正徳元年(1711)までは屋代氏が、享保十年(1725)から文政十年(1827)までは水野氏が北条藩主として当地に陣屋を置いている。
館山 館山町は近世、安房国の交通・経済の拠点の一となった町場で、真倉(さなぐら)村のうちに形成された。近世初頭、館山城主里見氏の城下町として開かれ、鹿野山道の継立場でもあった。慶長十九年(1614)里見氏は倉吉に移封、館山城も廃城となったため、城下町としての機能を失った。しかし引き続き外港を控えた継立場として、安房国における諸物資流通の拠点という地位は保ち続けていた。天明元年(1781)一万石で館山に封ぜられた稲葉氏は寛政三年(1791)旧館山城の南麓に陣屋(館山藩陣屋)を設け、以後当町は同陣屋の陣屋町として栄えた。