卯月十七日

   〈要約〉
 ○今日はのどかなので二つの島にお連れしようと、酒肴色々調理して、本つ家からも御主妹君(が加わり)全部で十七八人で鏡が浦から舟を浮かべる。まず富士の峰を向うに見ながら、またいつものように(美しさで)口を閉じた(言葉も出なかった)。沖の島・高の島と呼ぶとのこと、波路十町ほどづづ(二つの島が)離れてある。浪太の島より広いけれど特に変わった所はない。両方とも弁天の御社がある。魚を取る舟を頼んで網を曳かせたところ、鯛、小さい海老、いか、かがみ鯛、細かい魚が色々交って掛った。また大きな蛸が岩の隙にいたのを、供の男が手で取ってきた。あわび、さざえは数知らず取った。その魚を吸い物にしようと、紅葉ではなく松杉の落葉を掻き集めて焚いた。とてもおもしろくてたまらない。三味線など取り出して、唄い舞い、音がうるさくて考えていたことを皆書き漏らしてしまった。夕日の光が浪に納まる迄遊び歩き、すっかり暮れてから帰った。
   〈註〉
二つの島 高ノ島と沖ノ島は約1kmほど隔て、陸地から500m沖合の館山湾に浮かぶ島であった。二つの島がいわば堤防の役目を果たし、房州特有の強い西風を防いでくれたため、江戸時代には諸国の廻船が風避けや日和待ちに利用し、大正ごろまでここに多くの船が集まり込み合ったという。また戦国大名里見氏の時代は里見水軍の根拠地でもあった。関東大震災を引き起こした大正十二年(1923)の地震によりこの地は2m近く隆起し、両島までの浅瀬が干潟となった。そのためここに旧館山海軍航空隊の基地(現在の海上自衛隊基地)建設が進められ、埋め立てで高ノ島は取り込まれるように陸地の一部となり、沖ノ島は砂州が発達して昭和28年に陸続きとなった。現在の高ノ島は照葉樹に覆われた面積約2・7haほどの小丘である。沖ノ島は現在高さ12・8m、面積約4・6ha、周囲約1kmの陸続きの小島(陸繋島)となっている。高ノ島には弁才天が、沖ノ島には宇賀明神が祀られている。嘉保三年から康和元年(1096~1099)に掛けて、安房国司として赴任した源親元(ちかもと)が安房国の発展を願い嘉保三年に高ノ島の弁才天と沖ノ島の宇賀明神を建立したとされる。平安時代以降絶えることなく人々の厚い信仰を集めてきた。 ―「Web情報」・『千葉県の地名』―