卯月廿日

   〈要約〉
 ○とても良い日で馬や駕篭を用意して送ってくれた。八幡の川を渡り、川崎を過ぎ、那古に詣でた。以前にも拝したことを思い出した。河中、源野を過ぎ、木の根峠は徒歩で越えた。以前来た時は草々が生い茂り、道が有るのかないのかと草を分けながら迷ったが、どうしてこのようになったのだろうと聞くと、この頃この辺りは所々白川侯が御領にされたので、ここばかりでなく山々の道を作らせなさったと語った。ほんとうだ、時めいていらっしゃる君だからいかにももっともだ。思っていたより楽に峠を越えることができた嬉しさは、自分ばかりでなく、往来する人ごとにそう思うのはもっともだ。薪を背負った山賎、賎の女もこの御光(白川侯の余光)を仰ぎ奉っていることだろう。
   〈註〉
八幡 八幡(はちまん)村は地内に鶴谷(つるがや)八幡宮があり、地名は同社に由来する。社領を除いて享保十二年(1727)では幕府領。参道は海岸から社殿に直進している。 ―千葉県歴史の道調査報告書十六『房総往還Ⅱ』平成三年― (以下『房総往還Ⅱ』と表す)
川崎 正木村の海岸部(浜方)の集落。正木郷は房総正木氏の名字の地とされるが、現在のところ正木氏の活動の痕跡は確認されていない。正木村は寺社領を除いては享保十二年(1727)では旗本白須領・同浅野領・同島田領の相給。房総往還は鶴谷八幡宮の前から平久里川を越えて川崎を通る。
那古寺 那古山の南に面した坂東三十三観音の納札所で真言宗智山派。堂宇は元禄十六年(1703)の地震で倒壊し再建された。当山を補陀落浄土とする信仰が広まり、参詣客で賑わい門前は町場を形成している。観音堂にかかる円通閣の篇額は文化十四年(1817)、松平定信の筆である。往還は観音堂の崖下にあるが、ここは元禄地震で隆起したところで、それまでは海だったという。 ―『房総往還Ⅱ』―
河中 川名か。那古寺から600mほどで川名村の川名の町並みに入る。
源野 深名か。木の根峠道は、川名→船形→福沢川を渡る→岡本川を渡る→丹生川の細い谷にある深名→丹生→丹生川の谷から峠に登る→下って高崎の谷にある湯浴薬師堂前を通る→高崎。 ―『房総往還Ⅱ』―
木の根峠 この峠道の成り立ちは戦国大名里見氏が軍事目的に拓いた可能性があるが、江戸時代半ば過ぎ頃から旧富山町高崎と旧富浦町丹生(にう)をつなぐ一筋の道を房総往還の脇道として旅人が利用するようになった。「木ノ根道」「木ノ根峠」と呼ばれたこの道は、丹生村から那古村へ行くのにもっとも至近であった。やがて山の道は村の人々の努力で、馬も通行が出来るほどの「街道」にまで発展。江戸と館山陣屋を往復する幕府の役人はもとより、安房の人々が商用や伊勢参宮など信仰の旅に出る要路になった。峠山頂には文化二年(1805)の道普請の碑があり、不入斗村と丹生村の人々の名が刻まれている。峠には金波楼という茶屋があったという。
 なお房総には「木の根」と名付く峠は二つあり、もう一つの「木之根峠」は房総往還の上総関尻の南と安房金束の境界側に位置し、戦国大名里見氏が軍馬を育成した嶺岡山に徳川幕府が白牛を輸入して乳製品を生産する事業を行った際、幕府役人が江戸と嶺岡山の陣屋を往復した歴史がある。 ―『安房古道を歩く』2008年 NPO法人安房文化遺産フォーラム ―
白川侯 松平定信(1758~1829)。松平定信は寛政七年(1792)にロシアのラクスマンが通商を求めて軍艦で根室へ現れると、翌年の3月に沿岸諸藩に海岸警備を厳しくするよう命じ、自ら江戸近海の伊豆・相模・房総の沿岸を巡視して海防強化を目指していたが、巡視中に老中職を辞任した。その後の定信は白河藩の藩政に専念したが、寛政の改革の折りに定信が提唱した江戸湾警備が文化七年(1810)に実施に移されることになり、最初の駐屯は定信の白河藩に命じられた。白河藩は文政六年(1823)まで14年間にわたり上総・安房の警備を担当し、東京湾に面した3万3千石103か村を領地として与えられた。定信54才(満52才)の文化八年(1811)房総両州の海辺の台場・陣屋が落成したことから、巡視を目的として旅行をし、紀行文「狗日記」を著した。木の根峠では「ほだというあたりより、すいせんいとおゝく咲たり。きょうは木の根峠をこゆという。こしのやりがたきところは、かちもてゆかんといゝて、こゝぞとてありきみたるが、例のやまいにせんかたなく、又こしにのる。」とある。 ―『狗日記 平和的外交の先駆者松平定信房総を行く』橋本登行 平成元年―
   〈要約〉
 ○高崎、市部、ここより送りの人を皆帰した。勝山、吉浜を過ぎて、保田の日本寺に詣でた。以前来た時よりも御仏の数が増えて、なにやかや書き留めたいが急いでいるので出来なかった。明鐘といって安房と上総の境に来た。またいつの時に訪れるかと名残惜しくて、しばらく休憩し、安房の方ばかり見ていた。夕暮れに金谷の宿に出て、幾千代屋に泊った。
   〈註〉
高崎 不入斗(いりやまず)村。房総往還が通り、南方に木ノ根峠がある。浜方の一帯は高崎(浦)と称された。
市部 市部(いちぶ)村は房総往還が通り人馬の継立を行っていた。寛文八年(1668)以降幕末まで勝山藩領。
勝山 勝山藩一万二千石の酒井氏の陣屋があり、また醍醐家による捕鯨の基地として栄えた。往還はこの勝山の町には入らず、町の東側をかすめていく。
吉浜 吉浜村は房総往還が通る。日蓮宗の名刹妙本寺がある。妙本寺は中世文書をはじめ多数の宝物を所蔵する。
保田 本郷村。近世の村名は穂田村本郷・穂田村・保田村とよばれることがあり主集落は保田町とも称された。房総往還の馬継場である。保田湊は安房有数の幕府廻米の津出場で、元禄三年では、江戸へ海上十六里、運賃は米一〇〇石につき二石と定められていた。 〈口絵⑨参照〉
日本寺 保田の北側に位置する元名村にある。鋸山南中腹に広い寺域を有する曹洞宗寺院。安永九年(1780)から寛政十年(1798)にかけて制作された千体を越える羅漢像のあることで知られている。明治初年の廃仏毀釈により多くは首なし像になった。ほかにもさまざまな記念碑や供養塔が奉納されている。 〈口絵⑭参照〉
明鐘(みょうがね) 東京湾へ突き出した鋸山山系の西端を、海岸線に沿って岩壁を進むように国境の道があった。国境にあたる岬を明鐘岬という。明治四年に房総を旅した小川泰堂によると「岩山千仭、道塗もまた岩道にて、奇景いわん方なし」「右は石崖見臨み、左は千仭」(北行日記)という絶景かつ難所で知られた所であった。 ―『房総往還Ⅱ』―
金谷 房総往還は金谷村の磯伝いの道を行く。金谷川など三筋の川が注ぐ。金谷村は寛政五年(1793)では、旗本白須領。