卯月廿一日

   〈要約〉
 ○天気よし。昨夜も小湊のようではないが、浪の音で時々目覚めて、思いがけず朝寝をした。何で起こしてくださらなかったのかと言ったら、今日は道のりが僅かなのでと言った。少したって巳に近い頃漸く出発した。以前見たのと海の様子がいちだんと変わっているようだと言うと、全て荒い海辺は昨日見た岩も、今日は浪に連れて行かれ行方も分からない、また思いがけない塵や泥がいつの間にか積って、潮の満ち引きも変わる事が普通だという。
 ○百首の宿を過ぎ、天神山で昼食の乾飯を食べ、八幡の宮居を拝し、未過ぎに佐貫に着いた。兄君の古郷なのでいっそう心が落ち着き旅の憂さも忘れた。館山の家同様、(到着が遅いのでいつになるのかと)江戸へ使いを出したとおっしゃった。
   〈註〉
百首 文化八年(1811)百首村に海防のため御台場および竹ヶ岡陣屋が建設され、百首村は村名改称し竹ヶ岡村となった。房総往還の継立場であった。
天神山 海良(かいら)村にある。湊川(古くは天神山川)の河口域。天神山は北条氏および敵対する里見氏が重視した湊津であった。一部を中世の城郭遺構とみて天神山城とよび、真里谷武田氏の支流とも、里見氏系の戸崎勝久の居城とも、また千葉氏一族の天羽氏の築城とも伝える。湊川は関東大震災で地盤が隆起するまでは川底も深く、薪炭や房州石を運搬する渡海船の船だまりであった。
八幡の宮居=鶴峰八幡神社 八幡村にある養老二年(718)創建と伝えられる神社。近隣十数か村の氏子をもち、房総武田・里見氏、佐貫の歴代藩主らから篤い信奉をうけてきた。永正四年(1507)には武田信嗣が大檀那として社殿を再興している。
佐貫 中世は佐貫郷などと見え、佐貫城が築かれていた。近世には松平氏・阿部氏などの藩政庁が置かれた。寛政五年(1793)の上総国村高帳では佐貫村として高四二八石。人馬の継立場であった。