卯月廿三日

   〈要約〉
 ○今日も空は晴れている。鹿野山に詣でる。石井の主も一緒で、酒肴何やかやを(供の者に)持たせていらっしゃった。闇沢という所から俄に空が暗くなって雨が降り出した。帰ろうという人もある。やはり行こうという人もある。傍らの小家に寄って雨宿りするうちに小降りになり、空も晴れそうな様子なので、行こうということで出た。蕨があちらこちらに萌え出でているのを手で折り続けながら(行くと)、また名さえいやな鬼泪山の半ばから雨が降り出した。帰らなかったのをひどく後悔する人もある、濡れながら行くのもかえって面白いと言う人もある。大きな松の陰で雨を凌ぎ、どこか近くで傘を借りてきなさいと言って行かせた。濡れながら蕨を手で折ったりしていて少し時が過ぎた頃(借りに行った人が)帰って来た。二人ずつで傘一つ差しているのでひどく濡れた。足元の蕨さえ手で折る事もせずに通り過ぎて行くのが惜しかった。漸く御山のふくゐ屋にたどり着いた。度々の雨宿りで(食事の)時も過ぎてしまったのでといって破籠など食べ、あれこれしていると雨も晴れた。やがて迎えの人が来たのに出会い、雨具、着る物など持ってきて下さったので、すぐに脱ぎ換えて、軍荼明王に詣でた。帰り道にはまた蕨を手で折り続けて、帰り道の進みが遅くて、闇沢からは日も暮れてしまい、田畑に沿ってあるいは山と山の間ばかりを行くので、道を探しながら漸く帰って来た。
   〈註〉
鬼泪(きなだ)山 鹿野山の西に位置する。宝永七年から佐貫藩領で幕末に至る。日本武尊の東征に鬼のような賊が泪を流したという所伝がある。現在山腹の一部にマザー牧場がある。
鹿野山(かのうざん) 鹿野山宿は鹿野山(380m)山上にある神野(じんや)寺の門前町。嶺岡往還の継場上(かみ)駅で、北は草牛(そうぎゅう)村を経て中(なか)駅の三直(みのう)村・六手(むて)村へ、南は天羽(あまは)郡関村の継場を経て安房国安房郡嶺岡牧へ向う。東は市宿村を経て久留里へ、西は佐貫町へ通じる。 〈口絵⑮参照〉
軍荼利明王=神野寺 鹿野山にある真言宗智山派の御寺。本尊は薬師如来と軍荼利明王。推古天皇六年(598)聖徳太子の開山。平安時代から鎌倉時代は天台の道場として栄えた。戦国時代には真里谷信勝・里見義尭により、復興・再興された。天正十九年(1591)徳川家康は寺領並びに格式十万石の大名格を寄進。家臣の佐貫藩主内藤家長に伽藍や僧坊を造営させた。焼失後現在の本堂は安永五年(1708)に再建されている。 ―『房総往還Ⅱ』・神野寺HP―