〈要約〉
○風邪で気分が良くないが、差し出でる朝日が長閑な日なので出発した。主が江戸まで送りましょうと言って一緒に出発した。鎌上、貝淵、桜井、畑沢を過ぎ、木更津に着いた。とし子が出迎えてくれて奥に入った。いつもと同じ事なので書かない。
〈註〉
鎌上・貝淵・桜井・畑沢・木更津 佐貫から木更津に至る道は主に三ルートあった。海沿いの道は、佐貫→富津→西川→大堀→小浜→桜井→貝渕→木更津で、この道は本来村落間連絡通路ともいうべき道であった。山沿いの道は二ルートある。一つは現在の国道127号線にほぼ沿った道で、佐貫→亀沢→小山野→法木作→内箕輪→桜井→貝渕→木更津である。もう一つは佐貫→亀沢→上岩入→相野谷→上湯江→釜神→畑沢→桜井→貝渕→木更津である。
著者一行が通った道は「鎌上=釜神」の記述により後者の道と思われる。この道は「西房総街道」とよばれ、近世の房総往還のメインルートであった。しかし現在は宅地開発や山道の荒廃でほとんど辿ることができない。現在の佐貫交叉点から国道127号線を1㎞ほど北東に進んだ「としまや」のT字路でこの山沿いの二ルートは分かれ、「西房総街道」は北に向う。ここの北上神社の参道入口の鳥居の傍らに近世建立と思われる庚申塔に刻まれた道標があった。「東 かのふみち 二里」「北 きさらず江 七里」と銘記されている。なお著者の行路の地名は順番に記述違いがある。 ―『房総往還Ⅱ』―
木更津 木更津村は江戸時代は房総往還の継立場であり、湊町としても賑わった。寛政五年(1793)の上総国村高帳では高一千四一石余。幕府・清水家・館山藩の相給。「木更津千軒」と言われるほどに、商家・土蔵・旅篭・茶屋・寺院が立並び、木更津船によって直接に江戸の風俗・文化が入り込むため、小江戸の観を呈した。 〈口絵⑳参照〉