五月四日

   〈要約〉
 ○天気が良く、遠くの野中、畑、松杉の並木を過ぎ、成田の新勝寺に詣でた。御堂そのほか聞いていたよりも美しく、珠の甍、金の柱、あれやこれや光輝いていてとても尊い。あちらこちら見歩いていると、向いから僧が一人来たが、この木戸から入って別当の庭をご覧なさい、最近作りました、と言って案内して見せてくれた。咎められたこともあるのに、人の心は様々だとつくづく思った。
   〈註〉
成田の新勝寺 真言宗智山派の大本山で、一般には成田山・成田不動の名で知られる。本尊は木造不動明王。近世後期には成田詣は習俗化して旅人が激増、佐倉道と称した往還も成田道とよばれるようになっていった。 〈口絵⑬参照〉
   〈要約〉
 ○またなか屋に帰り昼食を食べ、佐倉の宿に出たが、距離が江戸に近いから、人の手ぶりや物言いも江戸と特に変わらない。一里ほどある宿の末近いこめ屋に泊った。とにかく気分が悪いので何事も思うままにならず、書き漏らした。
   〈註〉
佐倉の宿 佐倉城下は佐倉城の東に広がり、城外の侍屋敷と成田道(佐倉道)に沿う商工人町に大別される。成田道のほか、千葉町と結ぶ千葉佐倉道、印西方面と結ぶ道が通る交通の要衝であった。台地上に形成された町屋(商工人町)の中心は大手門先の札ノ辻から東に延びる尾根上に西から横町・新町・肴町・間之町と続く町並で、たんに新町と称したほか、佐倉新町・城下新町とよんだ。嘉永元年(1848)の絵図では左右合わせて百八十軒の町屋が軒を連ね、旅篭は九軒を数えることが出来、米屋・和泉屋・幸手屋等が並んでいたあたりが中心であったようだ。 ―『千葉県歴史の道調査報告書二 成田街道』1987年―