〈要約〉
○天気が良い。また昨日と同じような野中の並木を過ぎ、大和田で昼食を食べ、少しの間も早く故郷に(帰ろう)と心はあせるが、足手がくたくたになったようで苦痛で、漸く舟橋のいまつ屋にたどり着いた。庇に菖蒲を葺いているのを見て、とし子、〈けふといへはかさすあやめの打なひくかほりもすゝし軒の夕風〉今日は遅くても行徳より舟で帰るつもりだったのに、思いがけず体調がいつもと違うので留まる事にしたので、〈おしなへてかさすあやめの草まくらむすふもかりのえにしなるらん〉横になりながら書き付けた。
〈註〉
大和田 大和田宿は成田街道のほぼ中間に位置し、成田詣の人達は、行程を三泊四日で往復し、その一宿場として中食や宿泊などで賑いをみせた。文久三年(1863)には家並は約1km程つづき、旅篭屋は近江や・中村や・若竹や・東や・舛やなど大きな宿があったようだ。 ―『成田街道』―
舟橋の宿 房総往還に置かれた宿場で成田道が分岐する。舟橋三村の九日市村・五日市村・海神村が一体で人馬役を勤めた。ただし船橋宿と公称することは許されていなかった。寛政十二年(1800)の九日市村明細帳では、本陣一軒、旅篭屋二十二軒。旅篭屋のうち平旅篭は数軒であった。 ―『船橋市史 近世編』平成十年―