1. 習志野のおいたち
習志野は、江戸時代の小金下野牧の一部です。小金下野牧は、鎌ケ谷より薬円台のあたりまで続く広大な原野で、幕府御用馬を生産した地として知られ、多い時には300頭もの野馬が放牧されていました。
習志野の名は、明治4年この牧が廃止され、大和田原陸軍練兵場がおかれ、明治6年この地で近衛兵の演習が行われたさい、明治天皇が行幸し、帰還後「習志野ノ原」と命名されたことにはじまるといわれています。当時習志野原の面積は、524町1反2畝8歩で、明治23年には、習志野御猟場も併置され、皇室の猟場もありました。明治32年に騎兵15・16連隊が津田沼町大久保新田に、33年には騎兵第13・14連隊が二宮村三山に移転し、習志野原での演習が盛んに行われるようになりました。こうして明治34年には、演習場内へ一般人は全面立入禁止となりました。明治40年には、津田沼町に鉄道第二連隊が東京中野より移転し、大正5年には、習志野に騎兵学校が設置され、戦前・戦後のオリンピック大会に出場した馬術の遊佐幸平もここで教官をつとめました。またロスアンゼルス大会の大障害レースで優勝した西竹一も、騎兵隊の将校でした。さらに時代がさがると戦車隊や毒ガス研究所もおかれ、薬円台の一角には教育隊が設置され、まさに習志野は、軍隊の演習地として全国的に有名になりました。
昭和20年終戦と共に軍隊は解体され、ここにあった兵舎は、学校などに利用されるようになりました。すなわち鉄道第2連隊跡は現在の千葉工業大学、騎兵第13連隊跡は東邦大学、騎兵第14連隊跡は日本大学、騎兵第15連隊跡は東邦大学(付属東邦中学校・高等学校―郷土資料館補注)、教育隊跡は薬円台小学校及び周辺住宅地に変わりました。
習志野は、明治以来演習地であったことから全くの荒地で、昭和20年帰還軍人及び海外引揚げ者によって開拓の鍬がはいりました。
習志野は、現在は船橋市と習志野市にまたがる地域で、もとは千葉郡二宮町と津田沼町です。このうち二宮町の部分だけとらえると、昭和27年以前は、二宮町大字習志野。昭和28年船橋市習志野。昭和30年新町名設定で船橋市習志野町1~5丁目。昭和42年名称変更で船橋市習志野台1~8丁目及び習志野町3~5丁目。昭和47年西習志野1~4丁目、習志野台1~8丁目及び習志野町3~5丁目となり、現在ではその一部が、高根台4、6、7丁目、芝山6丁目、薬円台4丁目及び松が丘に町名変更されています。
2. 習志野の人口
習志野は、第二次世界大戦以前は、演習地であり、全域雑草や灌木に覆われた荒撫地でした。したがって、全く人の住まない土地であったわけです。昭和20年終戦と共に人々が開墾のため入植したのがはじめてです。昭和28年の人口は312世帯1481人。昭和30年270世帯1295人と減少しており、ここの開拓がいかに大変であったか知ることができます。しかし開拓が進むにつれ人口は増加し、昭和35年495世帯2073人。昭和40年には、習志野台団地工事開始、1943世帯6936人。昭和41年北習志野駅開業、昭和42年習志野台団地入居開始等で東京方面への通勤者が増加しはじめ、昭和45年11840世帯39827人。昭和50年13767世帯43800人と船橋市内でも有数の人口密集地域の1つに数えられるようになりました。
3. 習志野の文化財
明治6年4月29日に明治天皇が露営したといわれる所に、「明治天皇駐蹕之処」と刻まれた石碑(市指定文化財)が建っています(本稿が発表された昭和53年当時、令和2年時点では薬円台公園内―郷土資料館補注)。この碑は大正6年に建立されていますが、これに記された撰文から習志野の名は明治6年5月13日につけられたことがわかります。また演習場の一角には、日露戦争戦没者の墓地があり、現在は整備され習志野霊園となっています。霊園中央には、旧日本軍戦没者慰霊碑、第一次世界大戦ドイツ人戦没者慰霊碑、日露戦争ソ連軍人戦没者慰霊碑がたてられており、そのまわりに玉垣のように56基の墓石がならんでいます。これら墓石は、騎兵第14連隊にかかわるものがほとんどで、明治37・38年頃大陸に従軍した日本軍人のものです。霊園の南隅には、「陸軍騎兵学校校廐軍属の墓」と刻まれた石碑があり、建立年はありませんが、自衛隊習志野駐屯地内の各施設と共に騎兵学校の所在を具体的に示す資料の一つです。現在日本大学理工学部附属薬草園の下あたりは、演習場内でも特に旅順港を見下ろす203高地を模して演習が行われた所ですが、団地造成の時に取り除かれました。
現在このあたりで軍隊の様子の知れるものは少なく、陸上自衛隊習志野駐屯地、空挺団の敷地、演習場等でわずかに当時のおもかげをとどめています。自衛隊敷地との境界にはからたちの生け垣があり、秋になると黄色の実をつけ当時の風情を思わせます。10年位前(本稿が発表された昭和53年頃から見て―郷土資料館補注)までは、この周辺に旧兵舎が何棟もならび、戦前の名残をとどめていましたが、現在はほとんど解体され、わずかに元教育隊兵舎付近の給水塔、同裏門といわれる門柱が残っています。
空挺館
4. 習志野の開拓
昭和20年軍隊が解体され、習志野原の開拓がはじまると共に、4つの開拓実行組合が組織されました。入植した人々に当時の様子をたずねると、全域が荒地でどこから開拓するか途方にくれた日々で、飲料水にも不自由し、谷津の湧水でまかなったそうです。もちろん電燈もなく、照明はランプを用い、畑はやせ収穫した作物の商品価値はなく、どうやら商品として出荷できるようになったのは、昭和28年頃だったそうです。
昭和25年、4組合は合併し、北習志野開拓農業組合が結成され、この組合も51年に解散しました。
このように習志野開拓のために入植した人々は、並々ならぬ苦労のすえ現在にいたっております。これらの人々は、この地を故郷として各方面で活躍していますが、当時つちかわれた開拓精神はいまもなお旺盛なものがあります。
(参考文献)
資料館だより第5号 昭和49年 船橋市郷土資料館
千葉県戦後開拓史 昭和49年 千葉県