3 三山

※ 初出:『資料館だより』第14号(昭和53年3月25日発行)
※ 「1. 三山のおいたち」の記述を、『船橋市史前篇』および資料を確認し、修正した。
 
1. 三山のおいたち
 三山の地名の起こりについて、船橋市史前篇で高橋源一郎氏は、三山は「みやま」とよみ、「深山」「御山」「宮山」とあらわされると述べ、「御山」は「神の御山」という意味で、三山は二宮神社を中心として発達した部落と推察しています。また、高城氏関係の文献「高城古下野守胤忠知行高附帳」の下総国知切の部には、「宮間村」と記されています。かなりの古村であることは知れても、いつごろ人々が住みつき、生活したかについては今後の調査が必要です。
 私達が現在までの調査で知り得たものは、三山村の領主は、三河以来の徳川家の家臣である旗本渡辺氏(初代領主渡辺真綱―勝綱―隆―輝......)が幕末まで領したということです。渡辺家の石高は三山村を含め都合1,000石でした。
 三山村の隣接地に、三山新田と今湊新田という開墾地がつくられたのは安永年代であり、三山村の切添新田として三山に組みいれられました。特に今湊新田は、行徳湊新田の青山久左衛門が中心となって行ったためこの名がついたといわれています。
 明治12年田喜野井、滝台新田、薬円台新田と共に一連合村をつくり、22年には市制・町村制施行により、前原新田、上飯山満、下飯山満らと共に千葉郡二宮村を組織し、当時は大字三山となりました。明治32年には騎兵第15・16連隊が三山におかれました。ちょうど現在の日本大学周辺で旧軍隊の兵舎などがわずかに残っています。
 昭和3年には、二宮村に町制がしかれ、千葉郡二宮町大字三山となり、28年には二宮町が船橋市と合併し、船橋市三山となり、さらに30年には新町名設定により船橋市三山町となり現在にいたっております。
 
2. 三山の寺社
 三山町内には、延喜式に出てくる寒川神社がこれにあたるといわれる「二宮神社」があり、その脇に江戸時代二宮神社の別当寺であった真言宗豊山派の「神宮寺」があります。二宮神社は下総国二の宮(一の宮は香取神宮)であったことからこの名がついたと地元では言い伝えられています。この地に三山新田に新湊新田の善照寺から移した弁財天社があり、大きな旧家の庭のすみには屋敷守である稲荷社の小さな祠があります。
 
3. 三山の七年祭り
 三山の七年祭りは、丑年及び未年に行われる二宮神社の大祭のことです。この大祭は二宮神社の注連下23ヶ村が参加し、氏子同様にふるまったといいます。もちろん各村には独自の鎮守社をもっていますが大祭には村をあげて参加するならわしとなっていました。
 大祭は11月に行なうときめられていますが、日取については行なう年の9月13日に湯立の神事(小祭)を行ない、祭礼の日を定め、注連下の村々に通知します。小祭には二宮神社の氏子3ヶ村が参加し、神輿勇めの神事を行います。そして大祭当日には、二宮神社をはじめ8社の神輿、屋台、花車塔が三山の神揃場に集まって神事を行ない、そのあと各社の神輿は二宮神社の社頭で順次神事を行ないます。これが終わると、二宮神社、馬加子守神社、武石三大王神社、畑子安神社の神輿は幕張に行幸し、磯出式を行ない、他の4社は各村にもどり村祭りを行います。
 磯出式は、夜半にはじまる安産祈願の祭典です。童児・童女の2人が主役となり、神前にそなえられた蛤を交換する行事で、これを産屋または湯船の神事といいます。この神事が終わりますと磯出式に用いられた榊が安産のお守りになるといわれていることから、参加者、見物人達にうばわれます。
 神輿の磯出式場を出ると、二宮神社と子守神社の神輿はたがいにぶつかりあい左右に別れてゆきます。
 二宮神社の神輿は、帰路途中のカンノ台とよばれる場所で神輿を安置し、市原の姉崎神社に向けて狼煙をあげました(現在は参加者全員で一礼する)。そして二宮神社にもどり村祭りとなります。
 七年祭りについてはいろいろな説があり、まだ定説はありませんが、伝承によりますと千葉氏第9代千葉康胤が馬加城に居を構えていた時、その奥方が懐妊し10ヶ月たっても出産の徴候がなく、心配した康胤が家臣に命じて周辺神社に安産祈願をしたことにはじまるといわれています。
 
4. 三山の人口
 三山の人口は、慶長19年(1614)150石、元禄13年(1700)158石、嘉永5年(1852)32戸、安政2年(1855)28戸、慶応3年(1867)179石と記録され、当時の石高も、戸数もあまり多くの変動はありません。しかし明治5年(1872)には58戸349人と増え、明治22年(1889)66戸といくぶん増加しています。その後の資料は今後の調査でうめてゆかねばなりません。昭和28年(1953)626戸2,026人。昭和30年(1955)577戸2,632人。昭和41年(1966)2,097戸6,653人。昭和45年(1970)3,617戸12,385人。昭和50年(1975)5,058戸16,496人。昭和52年(1977)5,071戸16,737人と近年急激な人口増加のあったことがわかります。
 
5. 三山の文化財
 三山は古村で村全体が文化財といっても過言ではありません。近年の住宅の改築によりわら葺屋根こそ少なくなりましたが、町の中を歩いてみますと長屋門や屋敷神が多く見うけられます。なかでも神宮寺墓地の土橋家墓所に「御先手御弓頭渡辺半兵衛勝綱」ときざまれた大きな墓石があり、これこそ三山を領した旗本の墓石であるわけです。この墓石は渡辺家二代目勝綱で、実際に三山に住みここで死んだと伝えられ、もと三山の山中にあったものをここに移したといわれています。
 民間信仰の石碑としては、75体の石碑のあることが近年の調査で明らかになりました。この調査で三山は他村とくらべ三山講碑(羽黒山・湯殿山・月山の出羽三山を参詣した記念碑)が多い特徴があります。また馬頭観音も「九重号の墓」とか「松嶋」など特定の馬の墓としたものもあり、旧騎兵連隊のなごりを伝える資料の1つになっています。
 石碑の建立年代は、元禄7年(1694)の十九夜塔をはじめ、享保20年(1735)の馬頭観音。文政2年(1819)の三山講碑などが古いもので、三山における三山講は、記念碑から、明治23年(1890)年頃より現在に至ってもまだ行われていることがわかります。このように三山は古村であると共に、信仰深い人達であったといえましょう。
 三山の旧家では、御山、三山、土橋、三橋、臣司、将司、小川、岩佐の姓をもっております。
 
(参考文献)
 二宮の史蹟を尋ねて 林清 昭和48年
 (講義録)船橋の歴史 船橋市郷土資料館 昭和51年
 二宮郷土読本 船橋市史談会復刻 昭和51年
 土のかおり 将司正之輔 昭和52年
 歩いてみる船橋その4 船橋市郷土資料館 昭和52年
 三山連協だより創刊号―将司正之輔「三山の歴史」- 船橋市三山町連合協議会 昭和52年
 三山の七年祭 昭和52年 船橋市教育委員会