4 田喜野井

※ 初出:『資料館だより』第15号(昭和53年8月1日発行)
※ 「1. 田喜野井のおいたち」の記述を、『船橋市史前篇』を確認し、修正した。
 
1. 田喜野井のおいたち
 田喜野井の地名の起こりについて、高橋源一郎氏は、船橋市史前篇で村の名「田喜野井」あるいは「田木ノ井」は、文字の上では「タキノイ」とよむけれど、土地の人は「タギノイ」と発音すると述べています。そして、「タギ」とは元来「滝」というのとほぼ同じで、水の勢いのはげしいという語であると述べ、田喜野井の「タギ」は、昔大きな泉があって、たぎっていたから「タギノイ」の名前ができたのであろうと推察しています。
 田喜野井の古文書の調査が行きとどいている訳ではありませんが、古記録によると、慶長19年(1614)従舟橋東金新道作帳に「たぎの井村高175石」と記されており、元禄13年(1700)の検地では、179石余り、享保年中に山林・原野の開墾が行なわれ、周辺30町歩余の畑地がつくられたといわれています。また二宮神社への道標(安政6-1859-建立)に「田木」の文字が刻まれ、慶応3年(1867)の検地では250石余りと記録されています。
 田喜野井は、明治6年(1873)に、第11大区5小区に組み入れられ、明治8年(1875)には、第11大区9小区に編成替えとなり、さらに明治11年(1878)には、滝台・薬円台・三山と共に村連合を組織しました。明治17年(1884)戸長役場所轄区域変更のさい、上飯山満・下飯山満・前原も加えて二宮村の母体をなしました。こうして明治22年(1889)には、千葉郡二宮村大字田喜野井、昭和3年(1928)二宮町制がしかれ二宮町田喜野井となりました。昭和28年(1953)には二宮町が船橋市と合併し船橋市田喜野井、昭和30年(1955)町名変更により船橋市田喜野井町、昭和53年(1978)新住居表示により船橋市田喜野井となり現在にいたっております。

道標

2. 田喜野井の人口
 田喜野井の人口の推移は、江戸時代について知ることができませんが、昔は33軒であったといわれています。明治5年(1872)は40戸256人、大正14年(1925)54戸325人と、このころまでは分家や自然増によるものであったと考えられます。しかし次第に社会増へと変わり、昭和28年(1953)117世帯582人。昭和30年(1955)113世帯593人。昭和35年(1960)159世帯739人。昭和40年(1965)795世帯2904人。昭和45年(1970)1364世帯4785人。昭和50年(1975)1920世帯6587人。昭和53年3月1日で2093世帯7205人となっています。
 
3. 田喜野井の寺社
 田喜野井には正法寺があります。護国山と号し、真言宗豊山派で、弘治2年(1556)創立と伝えられています。また正法寺より少しはなれたところに不動堂があります。

正法寺


不動堂

 田喜野井の鎮守は子神社で大国主命を祭神としており、境内には石碑が多く存在し、村の歴史を知る多くの手がかりを与えてくれます。また、愛宕神社があります。この神社は近年石祠に建てかえられています。この神について地元ではこわい神様として信仰を集めていたということです。
 
4. 田喜野井の文化財
 田喜野井町外原に古墳時代中期(5世紀)の村跡が発見され、外原遺跡と命名されました。この遺跡の発掘調査で当時の生活用具である土師器が多量に発見され、5世紀頃のものとしてはまれに見る遺跡として有名になりました。中世の遺物としては、正法寺境内から出土したといわれ、同寺に保存されている板碑があり、応永18年(1411)、文正2年(1467)、文明14年(1482)、永正元年(1504)などの年号がよみとれました。また不動堂裏山墓地からも板碑が発見されています。板碑は中世の武士や僧侶の供養塔と考えられており、この村が南北朝の時代に存在したことを示す証拠となる訳です。また不動堂には鎌倉~江戸初期にかけて建てられたと考えられる小さな五輪塔が沢山ありましたが、現在は失われ数も少なくなっています。
 田喜野井の民間信仰にかかわる石碑は、昭和52年に、資料館で調査した結果53個あり、その内訳は庚申塔3、月待供養塔7、馬頭観音12、三山講碑3、富士講碑3、その他25でした。延宝5年(1677)の月待供養塔、宝永元年(1704)の庚申塔、安永4年(1775)の馬頭観音塔などが主なものです。
 また昭和53年に、正法寺境内の墓石調査を行った結果では、慶安・正保といった江戸時代初期の年号を刻んだものがあり、すでにこの頃豊かな農村であったことがわかります。
 田喜野井は、旗本渡辺氏(1000石)と小栗氏(530石)に支配され、江戸時代は天領であったわけです。
 田喜野井の旧家は33軒といわれ、柴田・渡辺・小川・御山・近藤などの姓をもっており、このことは正法寺の墓石からも知ることができます。
 
5. 伝説
 「田喜野井字井戸のもと」というところがあります。ここは面積200m²くらいの池があって、この池は底がわからないくらい泥深く、真中の3m²くらいは特に深くたえず冷たい水がわき出しており、草も生えず、真冬でもこの部分は氷がはらなかったそうです(現在は埋め立てられ住宅地となっています)。昔はこの土地に"おはん"という女が住んでおり、この池の岸辺に生えた「おはぐろの木」(五倍子)にのぼり、実をとろうとしたところ枝が折れて池に落ちた。村人がこのおはんをさがしたが池の底深く落ち込んだためか見つけることができなかったので、それ以来この池を「おはんが池」と呼ぶようにしたといいます。また昔火災にあった家の柱などをこの家に投棄したところ、廃材はどこにはいったかわからなくなってしまったともいわれています。
 
(参考文献)
 二宮の史蹟を尋ねて 林清 昭和48年
 (講義録)船橋の歴史 船橋市郷土資料館 昭和51年
 二宮郷土読本 船橋市史談会復刻 昭和51年
 三山の七年祭 船橋市教育委員会 昭和52年
 船橋市郷土資料館第16回展示資料観覧の手びき 昭和52年
 船橋市郷土資料館第17回展示資料観覧の手びき 昭和52年
 田喜野井正法寺の墓石について 新井徹 (船橋市郷土資料館紀要第1号、昭和53年)