1. 滝台のおいたち
滝台について、船橋市史前篇で、高橋源一郎氏は、船橋市内にある新田と同じく延宝(1673~1680)の頃開けはじめたであろうと推察しています。また千葉郡誌には、滝台新田と命名されたのは元禄(1688~1703)の頃であり、それ以前は上飯山満村の一部であったと記されています。二宮町が船橋市に合併するときの東葛毎日新聞(昭和28年7月29日号)には、滝台と命名された理由として、上飯山満村本郷からみて、小字滝の作の向こうの台地であるから滝台といったと記されています。
滝台新田は、江戸時代に開墾され検地を受けた天領であり、代官支配地でした。元禄13年(1700)の検地では、石高は338. 314石であり、土地の面積の割には石高が多かった。これは、小金下野牧の隣接地を開墾し、滝台新田の飛地としたことにより、実際に現在の三咲と上飯山満の間にあります。字沢之台飛地は21町53畝あり、その他に字川外、高根前、大慶山、阿闍梨山、聖人塚、駒込台、取掛をあわせ69町1反2畝あり、滝台新田の村全体の面積129町のうち70パーセント位は飛地であったという特殊な様相を示しています。滝台新田は、前原新田、薬園台新田の間にはさまれた狭い地域であり、村人達は競って下野牧周辺の開墾にあたったろうと想像できます。
また滝台新田本村は、成田(佐倉)街道に面した地域であり、江戸時代の終わり頃には、成田詣で人馬の往来もはげしくなり、この地に茶店もできたと言い伝えられています。
滝台は、明治6年(1873)に第11大区5小区に、明治8年(1875)に第11大区9小区に、明治11年(1878)に三山、田喜野井、薬園台と共に村連合を組織、明治17年(1884)に前原、上飯山満、下飯山満を加えて、一戸長役場をおき集合、明治22年(1889)には市制・町村制施行により合併し、千葉郡二宮村となり、当地は大字滝台となりました。昭和3年(1928)に二宮村に町制がしかれ、昭和28年(1953)には二宮町が船橋市と合併し、船橋市滝台となりました。さらに昭和30年(1955)には、新町名設定により船橋市滝台町となり、昭和49年(1974)には、新住居表示により、船橋市滝台および二宮の一部に編成替えとなり現在にいたっています。
成田街道
成田街道
2. 滝台の寺社
滝台の鎮守は、八幡神社です。この神社は今からおよそ300年ほど前、上飯山満村より多くの分家が住むようになってからつくられたものといわれており、源義家を祭神にしています。また、この社の前には弁財天が祀られています。弁財天は、水の神として知られており、村人が、水に不自由したことから水に恵まれることを願いここにまつられたと考えられます。また、成田街道脇には阿弥陀堂があり、昔は村人がここに集まり、念仏をとなえたり、庚申をおがんだり村人の信仰の場として利用されました。この堂の裏には墓地があり、元禄・享保などの古い年号の墓石も認められ村人達の菩堤がまつられています。
八幡神社 弁財天
阿弥陀堂 場内墓地
3. 二宮村(町)役場
二宮村役場の前身は、明治19年(1886)滝台阿弥陀堂に戸長役場がおかれたのがはじめで、明治22年(1889)市制・町村制施行のさい、二宮村役場として前原と滝台の間(現在の二宮出張所の場所)に建てられ、二宮村の行政全般がここで行なわれるようになりました。この役場は、その後移転することなく、昭和3年(1928)二宮村に町制が施行されても、下飯山満、上飯山満、前原、滝台、薬園台、三山、田喜野井の政治の中心として存続していました。昭和20年(1945)3月9日、米軍のB29の焼夷弾による空襲で役場は全焼し、ここに納められていたほとんどの記録は焼失したといわれています。その後、役場の建物は復興しました。昭和28年(1953)二宮町は船橋市に合併し、名称も船橋市役所二宮出張所と変わりました。この建物は昭和47年(1972)まで続き、昭和48年(1973)現在の庁舎が新築されました。庁舎前には「旧二宮町役場跡」と刻まれた石碑が建っていますが、このような事跡を記念して作られたものであります。
ちなみに、現在二宮出張所で取扱っている仕事は、戸籍に関することと市民に関する諸事務が主ですが、この対象人口は、昭和53年(1978)7月現在で、28,886世帯84,205人です。
4. 滝台の人口
滝台の人口は、船橋市史前篇によると、最初の出百姓は7戸、その後11戸となり、しばらくは11戸が続き、安政2年(1855)には17戸、文久2年(1862)に19戸、明治5年(1872)22戸151人です。その後の資料は現在はっきりわからず、昭和28年(1953)140世帯562人。昭和30年(1955)137世帯604人と大きな変化は見られません。しかし昭和40年(1965)567世帯2,133人。昭和45年(1970)756世帯2,780人。昭和49年(1974)968世帯3,235人と近年の人口増加がいちじるしく、この地域もまた都市化による社会増の傾向を示しています。
昭和49年(1974)4月1日から新住居表示が施行され、滝台の一部が二宮に分離されたため、その後の統計はとれなくなりました。
滝台の旧家は、林・近藤・櫛田・金子・宍倉・斉藤の姓をもつ家が多く、上飯山満村からの分家が多いといわれています。田喜野井の旧家は33軒といわれ、柴田・渡辺・小川・御山・近藤などの姓をもっておりこのことは正法寺の墓石からも知ることができます。
(参考文献)
二宮の史蹟を尋ねて 林清 昭和48年
(講義録)船橋の歴史 船橋市郷土資料館 昭和51年
二宮郷土読本 船橋市史談会復刻 昭和51年
東葛毎日新聞24号 昭和28年
本稿執筆にあたり、船橋市史談会及び船橋市役所総務部庶務課長補佐古市和夫氏(当時)に御指導を得た。