6 前原

193人。昭和40年(1965)6321世帯21,193人。昭和40年(1965)6321世帯21,526人。昭和45年(1970)8672世帯27,677人。昭和50年(1975)9535世帯28,505人。昭和53年(1978)9476世帯28,775人とこの4~5年の間人口ののびが停滞しています。これは津田沼駅前の再開発事業や周辺の宅地化が進み、人の移動のはげしい都市型の様相を示してきたためと考えられます。
 
3. 前原の寺社
 前原の鎮守は御嶽神社です。この祭神は蔵王権現で、上東野新助が江戸よりもってきてこの像を祀ったといわれています。境内は旧二宮町のなかで最も広い神社でしたが、二宮小学校の敷地になったため現在ではいくぶんせまくなっています。

御嶽神社

 前原には寺はなく、家々の多くは船橋に菩提寺を求めましたが、近郷出身者は出身地の寺を菩提寺としました。ただ、道入庵があり、村の墓守の役目をしており、仏事等の会合に多く利用されています。
 
4. 前原の文化財
 前原で現在発見されている遺跡は2ヶ所あり、そのうち佐倉道南遺跡は、昭和48~50年にかけ3回発掘調査が行われ、縄文時代早期・前期(B.C.7000~B.C.5000年位前)の遺跡であることがわかりました。御嶽神社の蔵王権現と両脇侍童子立像は一木造りで、千葉県指定文化財(有形・彫刻)となっています。制作年代は、蔵王権現が平安時代後期、両脇侍童子立像が鎌倉時代と推定されています。
 前原の民間信仰にかかわる石碑は数多く存在しますが、まだ系統的な調査は行われておりません。しかし延宝元年(1673)天野四郎兵衛の建立した地蔵尊像、元禄8年(1695)及び宝永5年(1708)の庚申搭、宝永2年(1705)の十九夜搭などの他、享保・寛保・延享といった江戸時代の年号のある墓石も数多くあり、江戸時代の精神生活・習慣などを知るための貴重な資料を多く見られます。

百庚申

5. 札場と藤崎台
 札場とは土地でよばれた通称で現在の前原西1丁目あたりをいいます。現在も札場町会としてその名をとどめています。ここは東金街道と成田街道の分岐点にあたり、御触書きがおかれたとか、札所があったとか、追分であったことから関所があったともいわれています。
 藤崎台は、現在の前原東1~3丁目で東金街道をはさんで発展しました。習志野市の藤崎からの出百姓が多かったといわれています。
 前原新田は、台地上につくられた村で農業生産もそれほど多くなかったので、江戸時代から明治時代にかけて、農家の副業としての屋根葺職人が多く、上総方面へ出稼ぎをしていたといわれています。しかし総武線が開通し物資の輸送が楽になると、野菜を中心とした集約農業が行われるようになり、東京方面に売りに出ました。同時に津田沼駅北口一帯にも多くの住宅がつくられました。昭和30年頃より東京方面からの移住者が増し、農地は次第に宅地化し、現在もこの様相は続き、マンションや社宅が立ちならぶようになりました。
 津田沼駅周辺は、第二次世界大戦前までは、旧陸軍の鉄道連隊がありましたが、軍の解体と共に民間に払い下げられ、鉄道は新京成電鉄となりました。国際製粉工場も昭和22年(1947)に建てられ操業し、前原のシンボルでありましたがこれも昭和53年10月に解体されました。
 
6. 前原の旧家
 前原の開拓は、大野四郎兵衛、上東野新助らによるといわれていますが、これとほぼ時期を同じくして近藤庄三郎・仲村又兵衛・森田吉兵衛・都築武兵衛・坂本甚兵衛家などがあったといわれ、これらの家が、この地の草分けであったといわれています。
 現在前原にある旧家は、仲村・宍倉・佐野・森田・上東野・高橋・榊原・天野・都築・渡辺・瀬山・近藤・持井・久保田・田久保・井上・古市・脇田・小林・山崎の姓をもっています。
 
(参考文献)
 二宮の史蹟を尋ねて 林清 昭和48年
 (講義録)船橋の歴史 船橋市郷土資料館 昭和51年
 千葉県千葉郡誌 千葉県千葉郡教育会 大正15年
 東葛毎日新聞 24号 昭和28年
 二宮郷土読本 船橋市史談会復刻 昭和51年