7 上飯山満

※ 初出:『資料館だより』第18号(昭和54年8月31日発行)
※ 「飯山満」の読みは「はさま」で統一した。
 
1. 上飯山満のおいたち
 飯山満と書いて"はさま"とよみます。船橋市史前篇で高橋源一郎氏はこの地名の起こりについて"はさま"とは一般的には狭い谷間という意味で、「米ケ崎地先より入り来る大きな田谷全体をいうたものか、或はその田谷の上なる小さき谷合いの一部をいうたものか、正しくは分らぬけれど、恐らくは、今の上飯山満の内、狭き谷間の一部をいうたのであろう」と考察しています。また飯山満について地元に伝わる伝説では、米が山ほどとれたことから名付けられたといわれています。
 飯山満という名は、戦国時代この地を支配した高城氏の文書のなかで「高城古下野守胤忠知行高附帳」(慶安年間につくられたと推定)の下総国印半郡のところに"はざま村"、また慶長19年(1614)東金街道関係の文書に"飯山満村、800石"とでてきています。はじめて"上飯山満"とでてくるのは「寛政重修諸家譜」の寛文9年(1669)の桜井三右衛門吉久のところに"千葉郡上飯山満村"、元禄6年(1693)の古地図にも"上飯山満村"とでてきています。
 この地域に残る金石文からながめてみますと、延宝3年(1675)の庚申塔に"下総葛飾郡二宮庄飯山満村"、元禄14年(1701)の如意輪像(十九夜塔)に"上飯山満村"という文字がよめます。
 このように上飯山満の名について文献や金石文の資料からさかのぼれるのは江戸時代のはじめごろまでですが、ここには康永4年(1345)、文安6年(1449)の板碑が存在するので、この村は鎌倉時代頃にはすでに存在していた古村であると想像できます。
 上飯山満村は、本郷、高野、中野木の3つの集落から構成されていましたが、それぞれが独立しているかのように鎮守をもっています。それぞれの村の様子についてはこれから調べなければならないことが多々ありますが、村高は寛永年中(1624~1642)436石余、元禄13年(1700)の記録で436. 5783石、宝暦11年(1761)で436. 5783石、慶応3年(1867)でも436. 5783石で江戸時代の初期に行なわれた検地の結果がそのまま踏襲されており実際にはこれよりもはるかに多い石高であったと船橋市史前篇に記されています。上飯山満村全体の面積は江戸時代はわかりませんが、明治22年(1889)の町村合併のさいの調査で248町8反2畝19歩、昭和32年(1957)の調査では263町20畝17歩と記録されています。
 上飯山満は、明治6年(1873)に第11大区5小区に組みいれられ、明治8年(1875)には第11大区9小区に編成替えとなり、さらに明治11年(1878)には下飯山満、前原と共に村連合を組織し、明治17年(1884)戸長役場所轄区域変更のさいには、三山、田喜野井、薬園台、滝台を加えて二宮村の母体をなしました。こうして明治22年(1889)には千葉郡二宮村大字上飯山満となりましたが、通称では本郷、高野、中野木の3つに分けてよばれていたようです。昭和3年(1928)二宮町制がしかれ、二宮町上飯山満となり、昭和28年(1953)二宮町が船橋市と合併し、昭和30年(1955)町名変更により、高野を飯山満町2丁目、本郷を飯山満町3丁目、中野木を中野木町と定めました。さらに昭和49年(1974)には新住居表示が行なわれ、飯山満町2丁目の一部が二宮に分割され、昭和50年(1975)には飯山満町2丁目、3丁目の一部が芝山に分割されました。
 
2. 上飯山満の人口
 上飯山満の人口は、安政年代(1854~1859)には93戸650人前後と推定されています。明治5年(1872)には110戸773人。明治22年(1889)119戸717人とほとんど変化がみられません。大正9年(1920)には高野64戸338人、本郷47戸298人、中野木34戸217人の計145戸853人。大正14年(1925)には高野58戸390人、本郷51戸317人、中野木31戸115人の計140戸822人でした。
 太平洋戦争以後の世帯数、人口の動態は下表のとおりです。

 昭和20年代は自然増の傾向ですが、昭和30年代にはいると社会増の傾向を示すようになります。特に昭和40年(1965)~昭和45年(1970)にかけては宅地化がいちじるしくなり、大宮町会、月見台町会などの新しく分譲地ができ人口が急増しました。昭和49年(1974)高野が減少するのは、飛地が二宮に分割されたためで、昭和53年(1978)に本郷が減少するのは一部が芝山に分割されたためです。
 
3. 上飯山満の寺社
 上飯山満の神社は、集落毎にあります。本郷の鎮守は王子神社で祭神は建思名方命です。境内には浅間神社、稲荷神社があります。この神社のお祭りは毎年10月9日に行なわれます。高野の鎮守は大宮神社で祭神は素盞鳴尊です。境内には稲荷神社、琴平神社、浅間神社のほかにめずらしい蒟蒻神社があります。蒟蒻神社は昭和初年頃この地でこんにゃくの栽培を行ったところこれが大あたりで高野の人々が非常に豊かになったことから、昭和3年(1928)にたてられました。この神社の祭りは毎年10月23日で、この日には各家の長男の演じる神楽十二座が奉納されます。中野木の鎮守は八坂神社で祭神は素盞鳴命です。境内には稲荷神社があります。毎年初午の日に集落の人達が稲わらをもち寄りここで「わらへび」を作り、集落の入口2ケ所につるします。お祭りは毎年9月19日に行なわれます。

本郷 王子神社


高野 大宮神社


中野木 八坂神社

 寺院は本郷に光明寺(真言宗豊山派)があり、創立は文亀2年(1502)と伝えられています。本尊は阿弥陀如来です。また、境内には観音堂がありますが、もと字堂作にあったものをここに移したといわれています。光明寺の管理している堂は薬園台と滝台の境近くに倶梨迦羅不動堂があり、宝剣に竜のまきついた木造の倶利迦羅不動尊が安置されています。ここには小さな湧き水があり海老川の源流の1つとなっています。昔は滝のように水がわきでて、行者がここで祈願したという話もあります。高野には東福寺(真言宗豊山派)があり、宝徳2年(1450)の創立と伝えられています。本尊は薬師如来です。この寺の管理している堂に薬師堂があります。薬師堂は江戸時代の名主近藤五兵衛家(この家は代々薬をつくっていたと伝える)の敷地に建てられたものと伝えています。

高野 東福寺


高野 薬師堂 墓地

4. 上飯山満の文化財
 上飯山満の遺跡を『船橋の遺跡』からみますと13ヶ所発見され、そのうち12ヶ所は縄文時代の遺跡です。飯山満東遺跡と中野木新山遺跡の2ケ所が発掘調査され、飯山満東遺跡からは縄文早期(夏島式、稲荷台式)、前期(黒浜式、諸磯式、浮島式、興津式)、中期(五領台式、勝坂式、阿玉台式、加曽利E式、後期(加曽利B式、曽谷式、安行式)、晩期(姥山式)などの土器片が発見され、紀元前8000年~紀元前1000年位までの約7000年間人々が断統的に生活していたことが知れました。また中野木新山遺跡では縄文時代早期と中期の遺物が発見されています。
 中世の文化財では、本郷光明寺の墓地に康永4年(1345)の市内で最大の板碑(市指定文化財)と、高野薬師堂に文安6年(1449)の板碑があります(光明寺墓地の板碑は、令和2年4月現在、郷土資料館で展示しています―郷土資料館補注)。

本郷 光明寺墓地 板碑

 近世の文化財の代表的なものは高野に"揺松地蔵尊"があります。これについて『ふなばしの歴史と文化財』では、「ゆるぎ松と呼ばれる老松があり、根が地上から立ちあがり巨木でありながらわずかの風でもゆらいだという。この松が枯死したため地蔵尊2体を木喰の僧観信に刻んでもらった。観信は一体をここに安置し、他の一体を自らが開いた薬園台の高幢庵に納めたという」と記しています。観信は享保11年(1726)に薬園台に没し高幢庵墓地に葬られました。"揺松地蔵尊"木っぱ地蔵"観信の墓"は市指定文化財になっています。
 上飯山満の民間信仰にかかわる石碑は現在調査途上ですが、現在わかっているなかで古いものは、延宝3年(1675)、享保7年(1722)の庚申塔、元禄14年(1701)、宝永3年(1706)の十九夜塔、寛延元年(1748)、天明8年(1788)の馬頭観音などが主なものです。

倶利伽羅不動尊前 庚申塔


中野木 墓地 庚申塔


七林入口付近 馬頭観音群

5. 上飯山満村の知行
 上飯山満の江戸時代の知行は非常に複雑で幕府の直轄地である代官支配地、旗本の知行地が入り組んでいました。元禄13年(1700)では、代官支配地のほか、小林萬太夫、重田源左衛門、内山七兵衛、桜井彌八郎、重田彌平治、木内長次郎、桜井三左衛門、曽雌伊左衛門、高林彌市郎と実に10に分割されていました。知行地が複雑であったわけは、旗本の高林氏以外はいずれも駿河大納言(松平)忠長の旧臣で、忠長の家が断絶後浪人となっていたのを寛永18年(1641)改めてここに知行地が与えられたといういきさつがあります。
 また桜井両氏、重田両氏、内山氏、木内氏の6家はいずれも信濃佐久郡蘆田氏(旧称依田氏)の臣で、江戸時代にはいって主家に従い上野藤岡に移り、主家没落後忠長に従っていました。このため6家は飯山満を知行してからも互いに縁組などしていたといわれます。重田源左衛門家と曽雌家は江戸時代中葉に廃絶し、新たに旗本小栗又兵衛家が入ってきましたがいぜんとして8人の支配者があり複雑でした。このことは村役人にも影響がありました。すなわち同じ村でも支配者が異なれば村役人もちがうというのが例であり、上飯山満村は村役人が非常に多かったわけです。名主を例にとると代官支配地は清左衛門家(寛永18年―1641―~弘化年中―1844頃―)が勤めており、安政4年(1857)には木内家領は近藤四郎左衛門家、内山家領は近藤五兵衛家、高林家領は大石三右衛門家が名主でした。文久3年(1863)には、代官支配地は七左衛門家、高林家領は三右衛門家、内山家は五兵衛家、木内家、桜井家、重田家、小林家、小栗家領は四郎左衛門家であったといわれています。なお上飯山満村の村役人の惣代は幕末頃では四郎左衛門家が勤めたといわれています。
 
6. 上飯山満の旧家
 上飯山満はさきに記したように本郷、高野、中野木の3つの集落によって村が構成されていましたが、これら集落のなかの旧家を調べてみますと、本郷では橋本、林、宍倉、織戸の姓、高野では近藤、櫛田、林、織戸の姓、中野木では大石、小石、海老原、興松の姓が多くあります。これらの旧家のなかにはすでに20代以上もこの村に住み生活している家も数多くあります。
 
(参考文献)
 二宮の史蹟を尋ねて 林清 昭和48年
 (講義録)船橋の歴史 船橋市郷土資料館 昭和51年
 千葉県千葉郡誌 千葉県千葉郡教育会 大正15年
 東葛毎日新聞 24号 昭和28年
 二宮郷土読本 船橋史談会復刻 昭和51年
 おかあさんの郷土史はさま 飯山満小学校 PTA郷土史サークル 昭和49・50年
 中野木の民俗 船橋市教育委員会 昭和53年