3. 下飯山満の寺社
下飯山満の鎮守は神明社です。この社の祭神は天照大神と大六天であり、毎年9月19日に秋の例祭が行なわれ、神楽が奉納されます。神明社は、この地が伊勢神宮の社領となった頃に創建されたと思われます(承久元年―1219千葉介満胤が私領地200町を伊勢神宮に寄進した記事が船橋大神宮文書にあり、この地も含まれていたと考えられている)。現在も神明社は、船橋大神宮(意富比神社)の神官により諸行事が行なわれており、下飯山満が船橋(夏見)御厨の一部であったろうと想像できます。
神明社
下飯山満の寺は能満寺です。真言宗豊山派で、宮本の西福寺の末寺であったといわれています、境内には薬師堂があります。境内の墓石には、寛永、正保、慶安などの江戸時代初期の年号を刻んだものも見られます。
能満寺門前 光明真言
その他に子の神の祠もありますが、今後この祠の由来について調査する必要があります。
4. 下飯山満の文化財
下飯山満で現在までに発見された遺跡は7ヶ所です。
そのうち飯山満東遺跡の発掘調査では、縄文早期夏島式、稲荷台式、前期黒浜式、浮島式、興津式、中期五領台式、勝坂式、阿玉台式、加曽利E式、後期加曽利B式、曽谷式、安行式などの土器片が発見されています。また子の神遺跡では、早期茅山式、取掛貝塚では前期関山式の土器片が採集されています。弥生式土器は、台畑遺跡で採集され、古墳時代の遺跡では、台畑遺跡、子の神遺跡で土師器片も採集されており、古くから人々が生活した痕跡があります。
古墳は現在はっきりと知ることはできませんが、仁田四郎忠常塚から馬具や光沢のある石、瓦の破片などが発見されたと伝えられており、あるいは大日塚を含めこのあたりに古墳があったとも思われます。
下飯山満での中世の遺物は、文明18年(1486)の板碑が発見されているのみです。
大日塚 大日如来石像
庚申塔
馬塚
仁田四郎の碑
近世の民間信仰にかかわる石碑は、この村の各地に散在しており、昔の姿を大体知ることができます。これら石碑のなかで比較的古いものをひろい出してみると、元禄13年(1700)の大日講碑、享保7年(1722)の庚申塔、寛延4年(1751)の道祖神、文化11年(1814)の二十三夜塔、文政11年(1828)の馬頭観音、天保9年(1838)の水神宮、安政5年(1858)の三山講碑、寛政9年(1797)の二十六夜塔などが主なものです。また特殊なものとして、仁田四郎忠常の碑があり、非常に文字の判読が難しいですが、正面に「頼朝公家来仁田四郎」左側面に「建久四年」右側面に「施主花沢重郎左衛門」と刻まれているそうです。これについて船橋市史現代篇では、「江戸時代の元禄期に建立された」といい、船橋市史前篇で高橋源一郎氏は、仁田四郎忠常は勇壮の誉高く、猪の手討ちは最も有名で、俗間にもよく知られていたから、里人が猪除けの呪いに其の墓を営んだのであろうとのべています。
下飯山満の旧家の庭には、比較的大きな屋敷神の祠が各家に見られます。
5. 下飯山満の旧家
下飯山満が江戸時代以前から営まれた集落であったことは、古記録や金石文などからおよそ想像できます。しかし、この地に何軒位あったかについては今後の調査が必要です。ちなみに下飯山満の旧家は、杉山、花沢、小川、湯浅姓の家であり、特に湯浅家は江戸時代に名主であったといわれています。
(参考文献)
二宮の史跡を尋ねて 林清 昭和48年
(講義録)船橋の歴史 船橋市郷土資料館 昭和51年
千葉県千葉郡誌 千葉県千葉郡教育会 大正15年
東葛毎日新聞 第24号 昭和28年
二宮郷土読本 船橋市史談会復刻 昭和51年