9 上山

※ 初出:『資料館だより』第20号(昭和55年5月15日発行)
 
1. 上山のおいたち
 上山新田は、木下街道すじ南東側に帯状に連なり、上山集落と馬込集落によって構成されています。延宝年間に松本八郎右衛門尉某、島田是心政勝の二人が開墾請負人となり、本行徳の人達と周辺の柏井・中沢・道野辺・鎌ケ谷の人達が加わり開いたと伝えられています。検地を受けた年ははっきりとわかりませんが、鎮守の神明社は延宝2年(1674)の創建と伝えられ、周辺の新田のほとんどが延宝2年に検地を受けているので、この頃の開村だと考えられます。上山新田の請負人の一人である島田是心は大名取潰しにあった有馬家の家老といわれ、いわば武士が帰農して新田開発を手がけた一つの例と考えられます。
 上山新田の村高は、開村以来1027. 311石で、この石高は幕末まで踏襲されており、代官の支配する土地でした。村全体の面積の古い記録はありませんが、昭和40年(1965)10月1日の調査で3. 49km²でした。
 上山新田は、明治5年(1872)印旛郡第1大区4小区に組みいれられ、明治6年(1873)千葉県第12大区4小区となり、明治9年(1876)第11大区12小区と編成替え、明治11年(1878)前貝塚、藤原、行田と共に村連合を組織、明治17年(1884)戸長役場所轄区域設置のさいには、藤原、行田、道野辺、丸山、前貝塚、後貝塚と連合、さらに明治22年(1889)には、藤原、丸山と共に法典村を組織して法典村上山となりました。さらにこの法典村は昭和12年(1937)に船橋町、葛飾町、八栄村、塚田村と連合して船橋市の母体となりました。ちょうどこの頃、藤原・上山をまとめ再編成して、上区・中区・下区・馬込と分けました。昭和16年(1941)にはこれを法典1~3丁目、馬込町として現在にいたっています。
 
2. 上山の人口
 上山新田は天保(1830~1843)の頃100戸あったと伝えられ、明治5年(1872)には、137戸827人で、昭和12年(1937)~14年、昭和16年(1941)~27年までの統計は、藤原新田と一緒になっており、詳細はわかりませんが、現在までの人口統計は下表のとおりです。

 上山町3丁目と馬込町の境に、大正12年(1923)北総鉄道(現在の東武野田線/※令和2年時点では東武アーバンパークライン―郷土資料館補注)が開通し、昭和22年(1947)に電化しました。昭和30年代にはいると馬込沢駅周辺が新興住宅地として知られるようになり、人口が急増しました。また昭和53年(1978)には武蔵野線が開通し船橋法典駅も新設され、上山町1丁目周辺の変化も余儀なくされています。
 
3. 上山の寺社
 上山新田には寺がありません。しかし上山町2丁目に法宣庵、馬込町に安立庵という堂があります。法宣庵は柏井唱行寺(日蓮宗の寺で太鼓の道場として名高い)の末であったといわれ、地元ではこの庵を「牢屋敷」と呼んでいます。上山新田の鎮守は神明社(祭神豊受大神)で、延宝2年(1674)の創建と伝えられ、上山町2丁目の集落の東側、後貝塚にいたる道路に面しています。この神社は本行徳の神明社から分祀されたとも伝えています。

上山 神明社

4. 上山の文化財
 上山新田で現在まで発見されている遺跡は3ヶ所で、まだ発掘調査は行われていませんが、中法伝貝塚、坂の上遺跡、宮前遺跡では、いずれも縄文時代中期から後期にかけての遺物が採集されています。
 上山での中世の遺物は、法宣庵境内の墓地に延文6年(1361)の題目板碑があります。
 その他民間信仰にかかわる石碑は、法宣庵に享保8年(1723)の地蔵石像、馬込の天満宮境内に天明元年(1781)の青面金剛、嘉永4年(1851)の猿田彦大神、年号の刻まれていない庚申塔。弘化2年(1845)の二十三夜塔、大正11年(1922)の子安講碑などがみられます。上山神明社には文化9年(1812)の牛頭天王碑、天保13年(1842)の猿田彦大神碑、嘉永5年(1852)の藤井戸天満宮祠、元治元年(1864)の二十三夜大月天王碑などがあります。また中山競馬場裏の墓地には馬頭観音がかつては林立していましたが、現在は移転されています。

馬込 天満宮 庚申塔群

 戊辰戦争(船橋戦争)にかかわる石碑としては、馬込安立庵(公会堂)の境内に、官軍佐土原藩の兵士常吉の墓石に「観應喜道居士」と刻まれ、法宣庵には、幕府軍兵士鈴木梅之輔の墓石に「蓮思院廣徳日信士霊」と刻まれています。
 安立庵、法宣庵には、元禄・宝永・享保・寛保・寛延などの1700年代前半の年号の刻まれた墓石もあり、いずれも上山に住した人達のものと思われます。
 
5. 上山の旧家
 上山の集落は、木下街道ぞいの南側に発達した一種の街村であり、街道にそって点々と民家が並んでいました。多くの民家は街道側が北に面しているため、街道側に防風林をもっており、木下街道は非常にさびしく感じたと紀行文などにあらわれています。
 上山新田の開墾は、本行徳の人を中心に周辺の村々の人が出百姓となって開いたといわれています。ちなみに上山に残る旧家の姓は、三橋、高橋、石井、鈴木、田中、武藤、門田、中村、岡本、金子、秋本、小川が多く、武藤家と高橋家が名主をつとめていたといいます。
 
(参考文献)
 千葉県東葛飾郡誌 千葉県東葛飾郡教育会 大正12年
 (講義録)船橋の歴史 船橋市郷土資料館 昭和51年
 船橋市安川家史料目録 付史料解題 船橋市教育委員会 昭和51年
 法典今昔 法典婦人学級 昭和54年