11 丸山

※ 初出:『資料館だより』第22号(昭和55年12月1日発行)
 
1. 丸山のおいたち
 下総国葛飾郡丸山新田は、船橋市の北西部にあり、周辺の谷津田は道野辺村(現在の鎌ケ谷市道野辺)にかこまれた台地で、船橋市の飛地となっています。ここを丸山とよぶのは、このあたりでは最も標高が高く(海抜27. 8m)、馬込沢あたりからながめると丸い山のように見えたことからであろうと考えられます。
 この新田は延宝2年(1674)頃、本行徳の人徳田与左衛門によって開かれたといわれ、代官伊奈左門の検地を受け江戸時代は代官支配地になっていました。面積は90町8反8畝26歩で、石高は356石1斗7升でした。徳田与左衛門は元禄9年(1696)10月19日に、73才で死亡し慈眼院境内の墓地に葬られたといわれ、現在も墓石はあり、「丸忠徳山、七十三歳丸山根本」と刻まれています。(徳田与左衛門家は関ヶ原合戦で敗れた豊臣方の片桐且元の家臣と伝えています。)
 丸山新田は、明治5年(1872)印旛県第1大区4小区に組みいれられ、明治9年(1876)に千葉県第11大区12小区に編成替えとなり、明治11年(1878)柏井・奉免(以上現市川市)道野辺(現鎌ケ谷市)と村連合を組織し、明治17年(1884)の戸長役場設置にあたり、藤原新田、行田新田、上山新田、前貝塚、後貝塚(以上現船橋市)、道野辺(現鎌ケ谷市)と連合しました。明治22年(1889)には藤原新田・上山新田と共に千葉県東葛飾郡法典村を組織しました。
 昭和12年(1937)に法典村が船橋町、葛飾町、八栄村と合併し船橋市になると、船橋市丸山となり、昭和15年(1940)には船橋市丸山町、昭和52年(1977)には新住居表示が実施され船橋市丸山1丁目~5丁目となり現在にいたっています。
 
2. 丸山の人口
 丸山新田の人口は天保年中(1830~1843)には8戸あったといわれ、明治5年(1872)には13戸90人と記録されています。明治~大正時代の人口の統計の詳細はわかりませんが、現在まで知り得る人口は下表のとおりです。

 丸山の地域の住宅化は船橋市のなかでは比較的早く、昭和30年代はじめ東京の不動産業者がこの土地を買い別荘地として分譲をはじめたのが最初といわれています。しかし東武鉄道野田線(令和2年時点では東武アーバンパークライン―郷土資料館補注)の馬込沢駅に近いため、たちまち住宅地として利用されるようになり、現在ではかつての山林原野はほとんど住宅地になっています。昭和49年(1974)にはこの地域の人口が10,000人を越え、昭和52年(1977)には新住居表示も行なわれ、多くが市街地になっています。ちなみに丸山の総面積は1. 09km²です。
 
3. 丸山の寺社
 丸山新田に寺はありませんが、かつて慈眼院という堂宇がありました。しかし伝説では150年位前火災にあい焼失しそのままになっていました。現在堂があったといわれるところは丸山町会の集会所(丸山4丁目)がたてられています。この境内の墓地には、元禄、正徳、延享といった江戸時代の年号をもつ墓石があります。

慈眼院入口

 丸山新田の鎮守は駒形神社で丸山4丁目にあります。この神社は丸山新田の開祖である徳田家によって建立されたといわれ、祭神は馬頭観音で毎年10月19日に例祭が行われます。境内には文久2年(1862)の御神塔、文化9年(1812)の妙正大明神、文政3年(1820)の稲荷大明神、安政6年(1859)の廿三夜塔がみられます。

駒形神社


駒形神社境内の石祠群

4. 丸山の文化財
 丸山地域ではまだ古代遺跡は発見されておりません。
 中世のものは板碑が1面ありますが詳細についてはわかりません。
 江戸時代の民間信仰にかかわる石碑は、貞享5年(1688)の庚申塔、享和3年(1803)の青面金剛王、文化10年(1813)の道祖神、文政9年(1826)の青面金剛王、文政13年(1830)の牛守大明神、安政6年(1859)の廿三夜塔、明治10年(1877)の猿田毘古神などがあります。なかでも文政13年(1830)の牛守大明神は、祠に納められており、樫の大木がうしろにあります。この大木は丸山新田の先祖のかわいがっていた牛を埋葬したときに植えたもので、この木の幹が6つに分かれて遠くから見るとちょうど牛の角のようであるといわれ、木をきるとたたりがあると言い伝えられています。

道祖神


牛守大明神


牛守大明神の木

5. 丸山の旧家
 丸山新田は、徳田与左衛門家が中心となって開墾したといわれています。
 明治初年丸山には13戸の家があったと記録されていますが、地元では丸山11人衆といわれその姓は徳田が7軒で、そのほか武藤、岡山、石神、武藤姓です。いずれも丸山の旧家です。

慈眼院境内徳田家墓地(左側丸忠徳山の墓)

 また丸山の伝説として、むかし徳田与惣兵衛という人の娘がおり、この地に太田道灌がおとずれたとき殿に差し上げるものが何もなかった。このため娘は山吹の花枝に和歌を添えて差し出した。このため太田道灌は満足して帰った。その和歌は「七重八重 花は咲けども 山吹の 実一つだに 無きぞ悲しき」といったといわれています。
 
(参考文献)
 千葉県東葛飾郡誌 千葉県東葛飾郡教育会 大正12年
 (講義録)船橋の歴史 船橋市郷土資料館 昭和51年
 法典今昔(1)(2) 船橋市法典公民館 昭和54年