12 前貝塚

000人を超えました。これは東武野田線(令和2年時点では東武アーバンパークライン―郷土資料館補注)塚田駅に近いため流入する人が多くなったことが原因で、昭和40年(1965)頃から谷津田が埋め立られて新興の個人住宅が多く建てられるようになり、現在も谷津田の奥地は造成が行なわれ今後さらに人口が増加するでしょう。
 
3. 前貝塚の寺社
 前貝塚行伝寺は日蓮宗の寺で、柏井(現市川市)の今嶋山唱行寺の末寺であったと伝えられています。応永2年(1395)の創建といわれ境内墓地に開祖の日心聖人の墓石があります。また裏の墓地には寛永、慶安、元禄、宝永といった江戸時代初期の年号をもつ墓石がみられます。
 前貝塚の鎮守は神明社で、字宮ノ後にあります。享保元年(1716)行伝寺23世住僧要【さんずい+秀】院日了上人が創建したと伝え、祭神は天照大神です。毎年10月9日に祭礼が行われます。また宇松島には八幡神社がありますが、この神社は神明社の末社として建てられたものと伝えられています。神明社境内には、帝釈天像石碑や山王様の神燈があり、ここには太い樹木が多くあり、船橋市の指定樹林となっています。また八幡神社には子安講碑、庚申塔、秋葉大明神、妙正大明神などの石碑が見られます。

松島 八幡神社

4. 前貝塚の文化財
 前貝塚の古代遺跡は現在までに2ヶ所発見されいずれも貝塚です。前貝塚が字上尾にありまだ発掘調査は行われていませんが、畑から縄文時代中期阿玉台式、加曽利E式、後期堀之内式、加曽利B式の土器片が採集されています。また字堀込(塚田小学校周辺)の堀込貝塚(塚田貝塚)は、昭和38年(1963)に県営水道配水池建設にともなって発掘調査が行われ、住居址4軒が発見されています。出土遺物は縄文時代中期加曽利E式、後期称名寺式、堀之内式の土器が発見されており、古代の集落であることがわかりました。
 中世については、さきに記した行伝寺創建の伝説があるだけで目下のところ詳細を知る事はできません。
 江戸時代の民間信仰にかかわる石碑は、元禄6年(1693)の帝釈天像碑、元禄11年(1698)の庚申像碑、延享5年(1751)の道祖神、宝暦4年(1754)庚申像碑、安永3年(1774)の稲荷大明神碑、天明4年(1784)の庚申像碑、文化2年(1805)の駒形大明神碑、文政11年(1828)の庚申塔、天保8年(1837)の馬頭観音、天保10年(1839)の子安像碑、弘化4年(1847)の妙正大明神、明治12年(1879)の秋葉山神像碑などが主なものです。

神明社裏 道祖神


馬頭観音塚

 またこの地方ではめずらしい日清戦争、日露戦争に徴発された軍馬の記念碑があり、日清戦争に11頭、日露戦争に37頭が軍馬として徴発されたことが記されています。
 
5. 前貝塚の旧家
 前貝塚では、江戸時代は農業が中心産業であったことは、この周辺の村々と大差ありませんが、村の真ん中に谷津田をもっているため、まわりの新田村と趣を異にします。
 元禄15年(1702)の検地帳によると25戸あったと記録されていますが、現在子孫として残っている家は19軒といわれています。これによると金子姓5軒、伊藤姓4軒、森田姓2軒、田中姓1軒、岩佐姓1軒、高橋姓1軒、染谷姓1軒、木村姓1軒、佐久間姓1軒、内田姓1軒です。ちなみに明治41年(1908)に建てられた「明治37・38年日露戦役徴叢馬匹記念碑」にきざまれた25人の名前の姓は、金子、岩佐、佐久間、田中、木村、森田、伊藤、染谷、竹之内、石井、内田、山口が見られます。
 
(参考文献)
 千葉県東葛飾郡誌 千葉県東葛飾郡教育会 大正12年
 塚田村誌 塚田尋常小学校 船橋市史談会復刻 昭和46年
 (講義録)船橋の歴史 船橋市郷土資料館 昭和51年
,000人を超えました。これは東武野田線(令和2年時点では東武アーバンパークライン―郷土資料館補注)塚田駅に近いため流入する人が多くなったことが原因で、昭和40年(1965)頃から谷津田が埋め立られて新興の個人住宅が多く建てられるようになり、現在も谷津田の奥地は造成が行なわれ今後さらに人口が増加するでしょう。
 
3. 前貝塚の寺社
 前貝塚行伝寺は日蓮宗の寺で、柏井(現市川市)の今嶋山唱行寺の末寺であったと伝えられています。応永2年(1395)の創建といわれ境内墓地に開祖の日心聖人の墓石があります。また裏の墓地には寛永、慶安、元禄、宝永といった江戸時代初期の年号をもつ墓石がみられます。
 前貝塚の鎮守は神明社で、字宮ノ後にあります。享保元年(1716)行伝寺23世住僧要【さんずい+秀】院日了上人が創建したと伝え、祭神は天照大神です。毎年10月9日に祭礼が行われます。また宇松島には八幡神社がありますが、この神社は神明社の末社として建てられたものと伝えられています。神明社境内には、帝釈天像石碑や山王様の神燈があり、ここには太い樹木が多くあり、船橋市の指定樹林となっています。また八幡神社には子安講碑、庚申塔、秋葉大明神、妙正大明神などの石碑が見られます。

松島 八幡神社

4. 前貝塚の文化財
 前貝塚の古代遺跡は現在までに2ヶ所発見されいずれも貝塚です。前貝塚が字上尾にありまだ発掘調査は行われていませんが、畑から縄文時代中期阿玉台式、加曽利E式、後期堀之内式、加曽利B式の土器片が採集されています。また字堀込(塚田小学校周辺)の堀込貝塚(塚田貝塚)は、昭和38年(1963)に県営水道配水池建設にともなって発掘調査が行われ、住居址4軒が発見されています。出土遺物は縄文時代中期加曽利E式、後期称名寺式、堀之内式の土器が発見されており、古代の集落であることがわかりました。
 中世については、さきに記した行伝寺創建の伝説があるだけで目下のところ詳細を知る事はできません。
 江戸時代の民間信仰にかかわる石碑は、元禄6年(1693)の帝釈天像碑、元禄11年(1698)の庚申像碑、延享5年(1751)の道祖神、宝暦4年(1754)庚申像碑、安永3年(1774)の稲荷大明神碑、天明4年(1784)の庚申像碑、文化2年(1805)の駒形大明神碑、文政11年(1828)の庚申塔、天保8年(1837)の馬頭観音、天保10年(1839)の子安像碑、弘化4年(1847)の妙正大明神、明治12年(1879)の秋葉山神像碑などが主なものです。

神明社裏 道祖神


馬頭観音塚

 またこの地方ではめずらしい日清戦争、日露戦争に徴発された軍馬の記念碑があり、日清戦争に11頭、日露戦争に37頭が軍馬として徴発されたことが記されています。
 
5. 前貝塚の旧家
 前貝塚では、江戸時代は農業が中心産業であったことは、この周辺の村々と大差ありませんが、村の真ん中に谷津田をもっているため、まわりの新田村と趣を異にします。
 元禄15年(1702)の検地帳によると25戸あったと記録されていますが、現在子孫として残っている家は19軒といわれています。これによると金子姓5軒、伊藤姓4軒、森田姓2軒、田中姓1軒、岩佐姓1軒、高橋姓1軒、染谷姓1軒、木村姓1軒、佐久間姓1軒、内田姓1軒です。ちなみに明治41年(1908)に建てられた「明治37・38年日露戦役徴叢馬匹記念碑」にきざまれた25人の名前の姓は、金子、岩佐、佐久間、田中、木村、森田、伊藤、染谷、竹之内、石井、内田、山口が見られます。
 
(参考文献)
 千葉県東葛飾郡誌 千葉県東葛飾郡教育会 大正12年
 塚田村誌 塚田尋常小学校 船橋市史談会復刻 昭和46年
 (講義録)船橋の歴史 船橋市郷土資料館 昭和51年