13 後貝塚(旭町)

※ 初出:『資料館だより』第24号(昭和56年9月30日発行)
 
1. 後貝塚のおいたち
 下総国葛飾郡後貝塚村は、海老川に流入する長津川の奥地に位置する村で、北に上山新田、東に南金杉村、南に西夏見村、西に前貝塚村にかこまれています。後貝塚村の名は、字宮前に縄文時代の貝塚があることからつけられたと思われます。この村は、いつ頃開かれたかははっきりしませんが、本行寺が嘉吉2年(1442)に創建されたと伝えられているのでかなり古村であると思われます。後貝塚村の成立について高橋佐内の記録によると、草分け百姓は竹内勘兵衛という者で、相模国鎌倉在より移住し開墾していたところ、下総国銚子より高橋土佐守某という者がおとずれ、勘兵衛の隣地に居住し、互いに田畑を開墾し、次第に人々が住みつき人家が増えていったと記されています。後貝塚は安政3年(1856)の記録で41町1反6畝8歩、村高は73石2斗5升が公式のもので、江戸時代初めから幕末まで旗本遠山家(初代遠山安之丞景宗で小田原落城後徳川家康に仕え、慶長7年(1602)に代官になったという)の支配地でした。
 後貝塚村は、明治5年(1872)印旛県第1大区4小区に組みいれられ、明治9年(1876)千葉県第11大区12小区と編成替え、明治11年(1878)郡区町村編成で南金杉村と村連合を組織、明治17年(1884)戸長役場所轄区域設置のさいには、道野辺(現鎌ケ谷市)、藤原、行田、丸山、前貝塚、上山と連合、さらに明治22年(1889)に行田新田、前貝塚村と共に塚田村を組織し、塚田村後貝塚となりました。さらに塚田村は昭和12年(1937)に船橋町、葛飾町、八栄町、法典村と共に船橋市の母体となりました。同時にこの地は船橋市後貝塚となり、昭和15年(1940)の町名設定のさい船橋市旭町と名称変更して現在にいたっています。
 
2. 後貝塚の人口
 後貝塚の面積は、1.030km²で元禄(1688~1703)の頃、馬持百姓だけで22戸あったといわれ、安永年代(1772~1780)に30戸、安政2年(1855)40戸と記録されています。明治以後の人口は下表のとおりです。

 後貝塚の旧家は本行寺の南側に多く存在し、明治から昭和20年頃までは300~450人位で人口は自然増の傾向でした。昭和20年(1945)になると500人を超え、昭和37年(1962)頃より東武鉄道(令和2年時点では東武アーバンパークライン―郷土資料館補注)馬込沢駅に近い北側の畑地、山林が住宅化し次第に社会増の傾向を示し、昭和42年(1967)に1,000人を超え、畑や水田であったところも住宅や高等学校が建設され、現在では2,500人を超える人々がこの地に居住しています。
 
3. 後貝塚の寺社
 後貝塚の寺は日蓮宗で正法山本行寺といいます。柏井今嶋山唱行寺の末寺であったといわれ嘉吉2年(1442)日真上人の開山と伝え、現住職は46代にあたると伝えられています。本堂裏の墓地には正保、寛文、延宝といった江戸時代初期の年号をもつ墓石がみられます。また、この寺は昭和43年(1968)に改築されています。

本行寺 山門


本行寺裏 墓地

 後貝塚の鎮守は熱田社で、祭神は天照大神、須佐之男命、日本武尊ほか2柱で毎年10月9日に大祭が行われます。現在の社は昭和51年(1976)に改築されました。そのほか稲荷社(駒形稲荷)があり、これは安永4年(1775)に鎮座したと伝えています。

熱田社

4. 後貝塚の文化財
 後貝塚の遺跡は、熱田社の南側の台地字宮前に貝塚があったといわれていますが現在はよくわかりません。船橋市史前篇によると、縄文時代中期阿玉台式、加曽利E式、後期堀之内式の土器片のほか農家の庭から住居址と土師器が発見されたと記録されています。ここで発見された遺物の一部は本行寺に納められています。
 中世の遺跡、遺物は現在のところ明らかでありませんが、江戸時代になると旗本遠山氏が支配し、本行寺も遠山氏の菩提寺になったといわれています。遠山家9代目求馬景求は弘化2年(1845)に先祖の菩提をとむらうため宝篋印塔と塚を2代小右衛門景次の墓のとなりに造立したと伝え、ここを遠山塚と地元では呼んでいました。のちに共同墓地に移したと伝えていますが、現在はみあたりません。後貝塚で江戸時代の民間信仰にかかわる石碑は、元禄13年(1700)の庚申塔、明和4年(1767)の駒形稲荷碑、文化4年(1804)の牛頭天王、文政11年(1828)の帝釈天(庚申塔)、道六神、天保6年(1835)の妙正大明神、天保7年(1836)の岩屋弁財天などが主なもので、いずれも当村講中とか講中、あるいは名前が刻まれ後貝塚の人々によって建てられたことがわかります。

道六神(天保6年)

5. 後貝塚の旧家
 後貝塚村の草分けは竹内勘兵衛家と伝え、次いで高橋三左衛門家が移住し、次第に移住者が増加したり、分家が行われたりして、元禄頃(1688~1703)には30戸になっていたといわれます。
 ちなみに、現在の後貝塚の旧家の姓は高橋、竹之内、田中、秋山姓です。
 
(参考文献)
 千葉県東葛飾郡誌 千葉県東葛飾郡教育会 大正12年
 塚田村誌 塚田尋常小学校 船橋市史談会復刻 昭和46年
 船橋の歴史 船橋市郷土資料館 昭和51年