14 行田

※ 初出:『資料館だより』第25号(昭和57年3月1日発行)
 
1. 行田のおいたち
 下総国葛飾郡行田新田は、船橋市西部にあり、前貝塚、上山新田、古作、印内、船橋九日市新田にかこまれた0. 883km²の地域です。ここを行田新田とよぶのは、この地の開墾請負人となった行徳の田中武兵衛、田尻の福田茂左衛門の出身地である行徳の「行」、田尻の「田」をとって行田としたとも、行徳の行と田中と福田の田をとって行田としたとも伝えられています。行田新田は延宝7年(1679)当時の代官伊奈左門の検地をうけ村として独立し、面積は71町6反3畝か16歩、石高は358石9斗1合と記録され、江戸時代は代官支配地となっていました。
 行田新田は明治5年(1872)印旛県第1大区4小区に組み入れられ、明治9年(1876)千葉県第11大区12小区に編成替えとなり、明治11年(1878)前貝塚村と共に村連合を組織し、明治17年(1884)戸長役場設置にあたり、後貝塚、前貝塚、藤原新田、上山新田、丸山新田と連合しました。明治22年(1889)には後貝塚、前貝塚と共に千葉県東葛飾郡塚田村を組織しました。昭和12年(1937)船橋町・葛飾町・八栄村、法典村と合併し船橋市を組織するとここは船橋市行田となり、昭和15年(1940)町名変更で船橋市行田町となり現在にいたっています。
 
2. 行田新田の人口
 行田新田は、天保~安政(1830~1859)頃までは21戸あったと伝えられ、文久2年(1862)23戸とわずか2軒しか増えておらず、明治5年(1872)の調査でも23戸172人であったと記録されています。明治5年(1872)以後の人口の推移は表のとおりです。

 行田の戸数が大正5年(1916)に急激に増加するのは、この前年、船橋海軍無線電信所が竣工し、官舎に職員が移住したためです。また昭和12年(1937)以後も人口が次第に増加していますが、これは九日市新田(現在の山手)に軍需工場がつくられその規模が次第に多くなり、働く従業員が近くに移住してきたためで、船橋市内の旧村の人口の推移とは大きく異なっています。昭和20年(1945)以後も増加していますが、軍需工場が解体され日本建鉄、旭硝子を中心とする内陸工業地帯の発展にともない移住者の増加と、首都圏で、東武鉄道(令和2年時点では東武アーバンパークライン―郷土資料館補注)新船橋駅、塚田駅に近いため住宅地として発展したためです。また船橋特別無線送信所は昭和47年(1972)解体され、その跡地に日本住宅公団によって高層住宅団地が建設され、昭和51年(1976)より入居がはじまったため急激な人口増加となったものです。なお現在行田町には行田中学校をはじめ小学校が2校、税務大学校東京研修所、県立行田公園などが設置され十数年前の様子が一変し、近年の市内ではもっとも様変わりした地域といえます。

行田団地

3. 行田の寺社
 行田新田の鎮守は、字宮ノ後に諏訪神社・稲荷神社が合祀された社となっています。諏訪神社は行田新田の開墾当時に創建されたと伝えられ、稲荷神社は行田新田の草分け田中武兵衛の守護神で明和2年(1765)に奉遷されたと伝えられています。祭神は健御名方命で、毎年10月23日に大祭が行われています。

諏訪神社

 行田新田には寺や堂宇はありませんが、墓地は村内6ヶ所にあり現在は3ヶ所にまとまられています。また村人のなかで浄土宗の家は行徳徳願寺、浄閑寺、真言宗の家は旧寺内常楽寺、旧山野延命院、日蓮宗の家は前貝塚行伝寺、中山法華経寺などが檀那寺となっているということです。
 
4. 行田の文化財
 行田新田ではまだ古代遺跡は発見されておりません。また中世の遺跡・遺物も明確になっていません。
 江戸時代の民間信仰にかかわる石碑は、宝暦3年(1753)の庚申塔でこれは道標にもなっており「南行田みち、東舟ばしみち」と刻まれています。宝暦12年(1762)の痘疹(疱瘡)神、天明6年(1786)の青面金剛王、文化9年(1812)の道祖神、天保3年(1832)の廿三夜塔、天保15年(1844)の妙正大明神、明治31年(1898)の馬頭観音、年号はわかりませんが子安塔などが主なものです。
 その他に明治38年(1905)の明治37・38年日露戦役徴発馬記念碑、昭和7年(1932)の、正面に「船橋町ニ至ル」、右側側面に「印内ヲ経テ葛飾停留所ニ至ル」と刻まれた道標があります。
 
5. 行田の旧家
 行田新田の開墾請負人は、行徳の田中武兵衛家と田尻の福田茂左衛門家といわれていますが、船橋市史前篇によると、この両人はこの地には移住せず、その代理人として家守をおき、行徳・田尻・高谷・妙典などの人を移住させて開墾させたであろうと推察しています。また塚田村誌では最も早くこの地に移住したのは、飯塚家・永田家・加藤家・山口家の先祖で、ついで服部家・成瀬家・佐久間家・伊藤家の先祖がおとずれたと記しています。またこの村の名主は代々飯塚家であったが、後に山口家・服部家が勤めるようになったといわれます。行田新田はいわゆる散村で、村の中に別々に屋敷を設けて生活を営んでいたようです。
 ちなみに行田新田の旧家は、飯塚・永田・加藤・山口・服部・成瀬・佐久間・伊藤姓の家であるといわれています。
 
(参考文献)
 千葉県東葛飾郡誌 千葉県東葛飾郡教育会 大正12年
 塚田村誌 塚田尋常小学校 船橋市史談会復刻 昭和46年
 (講義録)船橋の歴史 船橋市郷土資料館 昭和51年