※ 「こめがさき」の「ケ」と「ヶ」は、引用部分を除き「ケ」で統一した。
1. 米ケ崎のおいたち
下総国葛飾郡米ケ崎村は、海老川の支流で、現在の河川名で言う飯山満川と宮前川にはさまれた舌状台地とその前面の沖積地を含めた地域一帯で、北は高根村、西は東夏見村、南は七熊村、下は飯山満村に囲まれています。米ケ崎の名は、東葛飾郡誌によると、昔意富比神社で行われる新嘗祭のさい、他の村に率先して新米を供えたので米が先といわれそれを村名としたが、後に米ヶ崎と改めたと記されています。また船橋市史前篇で高橋源一郎氏は米ケ崎という地名の意味はよくわからないが、「田野の間に突出た台地の尖端であるから生じた名であろう」と推察しています。
米ケ崎の名が文献に出てくるのは、船橋大神宮文書の応長元年(1311)の「船橋御厨六ヶ郷田数の事」の中にあり、これが現在発見されている最古のものです。米ケ崎村はいつごろ開かれた村かはっきりしませんが、かなりの古村であることは確かなようです。
米ケ崎村は、昭和32年(1957)の調査で面積は33町6反3畝10歩、江戸時代の村高は83石3斗3升3合と記録されています。寛文10年(1661)佐倉城主松平和泉守乗久の所領になりましたが、延宝6年(1678)には代官支配地に変わり、幕末まで幕府の直轄領でした。
米ケ崎村は、明治元年(1868)知県事佐々布貞之丞の管轄になり、明治5年(1872)廃藩置県で印旛県第1大区3小区に編入され、明治6年(1873)印旛県が廃止されると、千葉県第12大区3小区に改められました。また明治11年(1878)郡区改正で、千葉県東葛飾郡に編入され、東夏見村・西夏見村・七熊村と集合し戸長役場を東夏見村におきました。明治17年(1884)には船橋五日市村外4ヶ村と集合し、その後明治22年(1889)には、米ケ崎村・七熊村(現在の東町)・西夏見村・東夏見村・高根村・南金杉村(現在の金杉町)の6ヶ村と明治にはいって開墾された二和村・三咲村の2ヶ村の計8ヶ村で村制施行、八栄村米ケ崎となりました。
昭和12年(1937)この八栄村を含めた2町3村で船橋市を組織しますと、船橋市米ケ崎となり、昭和15年(1940)新町名設定のさい船橋市米ケ崎町となり現在にいたっています。
2. 米ケ崎の人口
米ケ崎の面積は、0. 392km²で、伝説では4戸しか家がなく、字古屋敷(現在この小字はないが城ノ内のことか?)に住んでいたが、次第に南側の低地に移ったといわれています。天保年中(1830~1843)・安政2年(1855)の記録では22戸、人口もせいぜい130~140人程度と考えられ、文久元年(1861)には23戸と記録されています。
明治以後の人口の推移は下表のとおりです。
米ケ崎は、江戸時代以来農業を中心とした地域で、現在でも多くの人が農業を営んでいます。住宅地は台地南側の水田に面する字西の辺田、細田・居下・神下と対岸の向田に集中しており、他の多くは水田と畑地になっており現在でも豊かな田園風景がみられます。米ケ崎は土地の面積が小さいため山林はほとんどなくすべてが水田や畑地に開発されています。しかし近年芝山団地と船橋駅を結ぶ都市計画道路や県道船橋取手線が新しく開かれました。
3. 米ケ崎の寺社
米ケ崎の寺は真言宗豊山派の田島山無量寺で、寺の開基ははっきり知ることはできません。これについて船橋市史前篇では、この地で最も「低窪の地で、飯山満谷より来る小流の畔にある。大雨の際には浸水する恐れもある」と述べています。そして、その起源等はわからないが、昔より小さな庵寺の様な姿であったのであろうと推察しています。江戸時代には船橋五日市西福寺の末社となっており、明治時代のはじめ頃第二十世の実正という僧がいたそうですが、以後無住となり、現在も西福寺(宮本1丁目)の兼務寺となっています。本尊は阿弥陀如来です。
米ケ崎の鎮守は意富比神社で、祭神は天照大神です。現在は船橋大神宮が兼務しています。毎年10月29・30日に例祭が行われます。この社の前には昔周囲9尺近くもある地を這うような老松があり、地元ではこれを大蛇松と呼んでいました。現在は切り倒されその一部が境内に残されています。
意富比神社
4. 米ケ崎の文化財
意富比神社の鎮座する台地(字城ノ内)で縄文時代早期茅山式土器と土師器が発見されたと伝えられ、米ケ崎遺跡と命名されていますが、昭和30年代に土採り工事が行われ湮滅しました。
中世の遺跡・遺物は現在のところ明らかでありませんが、ここが夏見御厨(伊勢神宮の荘園)の一部であったことは事実のようです。
江戸時代の民間信仰にかかわる石碑は、意富比神社と無量寺の境内にまとめられています。元禄6年(1693)の十九夜塔が最古のもので、享保3年(1718)の大日如来、享保17年(1732)の庚申塔、安永8年(1779)の子安塔、寛政10年(1798)の明照大明神、文化2年(1805)の道祖神、文化9年(1812)の熊野大明神、文政3年(1820)の地蔵尊像、文政4年(1821)の手洗石、文政10年(1827)の聖徳太子像、文政11年(1828)の八幡宮、文久3年(1863)、明治2年(1869)、明治33年(1900)、明治38年(1905)の馬頭観音、明治11年(1878)の三山講碑などが主なものです。また昭和2年(1927)に建立された子安講碑は祠に納められていますが、この碑の後に風化したものがあり、それを再建したということです。
また無量寺の境内には六地蔵の他、無縁の墓石が多数まとめられており、これら墓石群のなかには、寛永・寛文・元禄といった江戸時代初期のものから中期・後期の年号もみることができます。
5. 米ケ崎の旧家
意富比神社境内にある、大正13年(1924)に建立された三山講記念碑には、伊藤、永岡、森内、竹之内、小川姓が見えます。これらの姓をもつ家は米ケ崎に多く、これらの姓の家のいずれかがこの地の草分けであると考えられます。
(参考文献)
千葉県東葛飾郡誌 千葉県東葛飾郡教育会 大正12年
船橋市古代中世史料抄 船橋市史談会 昭和50年
(講義録)船橋の歴史 船橋市郷土資料館 昭和51年