16 七熊(東町)

※ 初出:『資料館だより』第27号(昭和58年2月1日発行)
 
1. 七熊のおいたち
 下総国葛飾郡七熊村は、海老川の支流で現在の河川名でいう飯山満川と前原川にはさまれた舌状台地と、その西側の沖積地を含めた地域一帯で、北は米ケ崎村、東は下飯山満村、南は五日市村、西は東夏見村にかこまれています。
 七熊の名の起こりについて、海老川の谷津が七本ありその最も東のすみにあたる部分なのでこの地名となったと伝えられています。また船橋市史前篇で高橋源一郎氏は、「七熊」という名は七隈で、「くま」は漢字では曲・阿とも書き、屈曲して入りこんだところや、奥まったところ、行き詰まりのところ、片隅などの意味で用いられること、「なな」は多数を示す語であることから、七熊は屈曲(隈)の多いところという意味であろうとのべています。
 現在までの古文献のなかで七熊とみえるのは江戸時代になってからですが、近隣の村のようすなどから考えますと、江戸時代以前に開かれた古村であることは確かなようです。
 七熊村は、昭和32年(1957)の調査で33町6畝16歩でした。江戸時代の村高は100石5升でしたが、幕末の安政2年(1855)の記録では128石6斗4升(右島清海日記)といくぶん増加しています。おそらく幕末近くに台地上の山林が開かれて畑地となったのでしょう。またこの地は江戸幕府開府から幕末まで代官支配地で幕府の直轄領でした。
 七熊は、明治元年(1868)知県事佐々布貞之丞の管轄になり、のち葛飾県に属しました。明治4年(1871)には印旛県になり、同5年(1872)に印旛県第1大区3小区に編入されました。明治6年(1873)印旛県が廃され千葉県第12大区13小区に改められました。明治11年(1878)の郡区改正で千葉県東葛飾郡に編入され、高根村、東夏見村、西夏見村、米ケ崎村と集合し戸長役場が東夏見村におかれました。明治17年(1884)には船橋五日市村、西夏見村、東夏見村、米ケ崎村と集合しましたが、明治22年(1889)には米ケ崎村、東夏見村、西夏見村、高根村、南金杉村、二和村、三咲村との8ヶ村が合併し八栄村を組織し、八栄村七熊となりました。
 昭和12年(1937)八栄村、船橋町、葛飾町、法典村、塚田村で船橋市を組織すると、この地は船橋市七熊となり、昭和15年(1940)新町名設定のさいに船橋市東町となり現在にいたっています。

東町を望む

2. 七熊の人口
 七熊の面積は、昭和45年(1970)の調査で0. 383km²で安政年代(1854~1859)の記録で32戸、文久元年(1861)の記録で36戸とされ、人口も200~250人程度と考えられます。
 明治以後の人口の推移が知れているのは下表のとおりです。

 江戸時代以来農業中心の地域で現在でも多くの人が農業を営んでいます。西側一帯には広い水田で、ゆるやかな傾斜をもつ台地には畑が広がっています。住宅は台地緑辺又は台地上の字西庭・南庭と東側の斜面を削った東野に比較的古い集落が点在し、五日市村の境界あたりの堤根には新興住宅地が増えてきてはいますが、現在でも豊かな田園風景がみられます。しかし昭和44年(1969)ごろからわずかずつ人口の増加がみられ、主に堤根・神下といった沖積地、西庭の台地上に住宅が見られるようになりました。
 
3. 七熊の寺社
 七熊の寺は、真言宗豊山派の如来山不動院東栄寺といいます。一般的には不動院とよばれ、本尊は不動明王です。船橋市史前篇によると「中央の道路に突きあたった小高いところにある。されども堂宇も小さく境内もせまい。今は住職も居らず、創立の年代もわからない。ただ古過去帳によれば、歴代住僧のなかで延宝8年(1680)に死去した良弁というのがあり、かなりの古寺であろう」と書かれています。現在の本堂は昭和49年(1974)に改築され、墓地も整備されています。住職はいませんが、現在も五日市西福寺(宮本1丁目)の兼務寺となっています。
 七熊の鎮守は意富比神社で祭神は天照大神で、いつのころか宮本の意富比神社(船橋大神宮)から分祀されたと伝えられていますが明らかでありません。また祭礼は毎年10月19日に行われています。またこの神社の宮司は宮本の船橋大神宮の宮司が兼務しています。
 
4. 七熊の文化財
 現在東町事業所にある台地(字西庭)は、弥生時代から奈良・平安時代にかけての遺跡で、ここから籾の圧痕のある弥生時代後期の土器が発見されています。この遺跡はまだ正式な発掘調査が行われたわけではありませんが、現在でも畑で土器片を採集することができ、東町遺跡と命名されています。
 中世にかかわる遺跡・遺物は現在までのところでは明らかでありませんが、ここが夏見御厨(伊勢神宮の荘園)の一部であったことは事実のようです。
 江戸時代の民間信仰にかかわる石碑は、不動院と意富比神社境内にほとんどまとめられていますが、そのなかで主なものは元禄6年(1693)の月待講碑、宝永6年(1709)の庚申塔、安永4年(1775)の十九夜塔、文政5年(1822)の大師講碑、文政7年(1824)の子安塔、安政5年(1858)の三山講碑などです。また下飯山満との村境近くの墓地には馬頭観音が10数個あり、このなかで江戸時代の年号のものは寛政元年(1789)、嘉永7年(1854)などの文字がみられます。また水田の真ん中には寛政4年(1792)の弁財天があり、文化4年(1807)の水神宮の石碑が社に納められています。

不動院 庚申塔

 飯山満と高根に行く分岐点(字前原)には明治27年(1894)に建立された大師講碑があり、この碑は道標にもなっており、周辺地域の地名やそこにいたるまでのおおよその距離まで書かれています。
 
5. 七熊の旧家
 七熊には、三橋・湯浅・渡辺姓の家が多く、小川、竹之内、森内、伊藤、吉田姓も旧家です。これらの家は字西庭・南庭・東野あたりに散在しており、主に台地上に住宅が建てられ、周辺の村のような台地端の低地に営まれているのにくらべ、少々おもむきを異にしています。ちなみに江戸時代に名主をつとめた家は、湯浅藤右衛門家だそうです。
 
(参考文献)
 千葉県東葛飾郡誌 千葉県東葛飾郡教育会 大正12年
 船橋市古代中世史料抄 船橋市史談会 昭和50年
 (講義録)船橋の歴史(2) 船橋市郷土資料館 昭和51年