17 東夏見

※ 初出:『資料館だより』第28号(昭和58年3月31日発行)
※ 4.「東夏見の文化財」の記述の一部を改めた。
 
 夏見は、東夏見・西夏見・田島の3つの集落で構成されていましたが、田島は古く東夏見に含まれ、明治にはいってから西夏見に含まれました。
 夏見の地名の起こりについて高橋源一郎氏は、船橋市史前篇で、夏見という名は何という意味かまだわからないと述べた後、宝暦5年(1755)の船橋大神宮の意富比神社御鎮座記の、日本武尊が東夷征伐にきて神鏡の船を最初に見たのが夏だったので夏見の里といった、磯菜を摘んで神に捧げたから菜摘の郷といい、のちに訛って夏見となったという説を紹介しています。また高橋氏は、夏見は上古からの古村であり、最初の人家は山裾で村を東西に貫く道路の上側にあったろうが、世が開けて人口が増加するにつれて道路の下側の水田を埋めて家を建てるようになったのであろう。この台地のうちでも最初の人家は台地の端、おそらく東方の長福寺あたりからできはじめたであろう。長福寺前の坂は井戸坂とよばれていた。かくして東夏見・西夏見・田島の3部落ができたのであろうとのべています。そのほか海岸に近いことから南津海が夏見に変わったともいわれています。
 
1. 東夏見のおいたち
 下総国葛飾郡東夏見村は、海老川の支流北谷津川と長津川にはさまれた南面する広大な舌状台地の東側とその前面の沖積地一帯で、北は南金杉村、東は米ケ崎・七熊両村、南は船橋五日市村、西は西夏見村にかこまれています。東夏見村の名が文献にあらわれるのは江戸時代になってからでありそれ以前は"なつみ"とよばれています。おそらく慶長検地のときに夏見を東と西に分けたものと思われます。
 東夏見村は、昭和32年の調査で面積は67町81畝23歩、江戸時代の村高は147石7斗5升で、江戸時代のはじめ旗本遠山安之丞景宗の所領となり、元和年間(1615~1624)に朝比奈儔之丞道半の所領が加わり、幕末まで遠山家と朝比奈家によって支配されていました。
 明治元年(1868)知県事佐々布貞之丞の管轄になり、明治5年(1872)廃藩置県で印旛県第1大区3小区に編入され、明治6年(1873)印旛県が廃され、千葉県第12大区13小区に改められました。明治11年(1878)郡区改正で千葉県東葛飾郡に編入され周辺7村と連合し戸長役場を東夏見村におきました。明治17年(1884)戸長役場所轄区域変更で周辺5村と集合し戸長役場を五日市に移しました。明治22年(1889)東夏見・西夏見・七熊・米ケ崎・高根・南金杉・二和・三咲の8ヶ村で村制施行、八栄村東夏見となりました。
 昭和12年に八栄村を含めた2町3村で船橋市が組織されますと、ここは船橋市東夏見となり、昭和15年新町名設定で船橋市夏見町2丁目となり、さらに昭和46年には新住居表示実施により、夏見町2丁目、夏見5・6・7丁目、夏見台1丁目(1部)となり現在にいたっています。しかし昭和46年の新住居表示は西夏見と東夏見の境界が変わり、昔の境界とは若干異なっています。
 
2. 東夏見の人口
 東夏見の面積は0. 87km²で、伝説では7戸が草分けで字稲荷後、西の内あたりに住みつき集落が次第にひろがったと伝えています。天保年中(1830~1844)に75戸(田島含)、安政2年(1855)68戸(田島含)で人口はおよそ500人程度と考えられます。
 明治以後の人口の推移は表のとおりですが、田島は明治中頃に西夏見に編入され、昭和15年東夏見は夏見町2丁目に名称変更、さらに昭和46年には夏見地区の新住居表示で夏見町1・2丁目、夏見台1丁目、夏見1~7丁目となり、占有地域も若干の変動がありますが、今回の人口統計は夏見町2丁目、夏見5~7丁目で数値を出しました。

 東夏見は古くから農業を中心とした地域で、現在でも旧家の多くは農業を営んでいます。しかし、国鉄(令和2年時点ではJR―郷土資料館補注)船橋駅に近いことから、昭和30年代にはいると宅地として注目されるようになりました。昭和43年夏見台団地、昭和48年コープ野村夏見、昭和50年夏見パレスハイツなどの団地やマンションの他、多くの社宅や寮が建てられ人口が急増しました。
 
3. 東夏見の寺社
 東夏見の寺は曹洞宗の夏見山長福寺で、円融天皇(969~984)の御代、得蓮という僧に開かれた天台宗の寺だったそうです。船橋市史前篇では、この寺は何時開かれたかは分からないが、縁起によれば円融天皇の御代、法橋定朝作の聖観世音菩薩を祀った堂を営んだ。その後、この堂は荒廃したが、永禄年中(1558~1570)夏見加賀守政芳が再興し、僧空山を開祖とした。長福寺というのは、夏見加賀守の法名を瑞興院殿長福道栄大居士といったためだという。縁起によると空山以後数代後の住僧通法は、栗原宝成寺の住僧能山鷹藝を乞うて始祖となし改めて寺を開き、以来宝成寺の末寺となり、宗派も曹洞派となったのであろうとのべています。長福寺は慶安2年(1649)以来観音堂領として幕府より5石の朱印をいただくようになりました。明治元年(1868)の船橋戦争で佐土原藩兵のために堂は焼失しましたが、その後復興し現在に至っています。
 東夏見の鎮守は稲荷神社で長福寺裏にあります。江戸時代は長福寺配下でしたが、明治になって村社となりました。祭神は宇賀之魂命で毎年10月18日から20日に例祭が行われています。
 
4. 東夏見の文化財
 夏見台地は全体が古代の遺跡であるといっても過言ではなく、すでに10回の発掘調査が行われ、先土器時代、縄文時代(茅山式・黒浜式・浮島式)弥生時代(久ヶ原式・弥生町式・長岡式)、古墳時代(和泉式・鬼高式)、奈良平安時代(真間式・国分式)の遺物や遺構が発見されて、今後も船橋の古代を知る貴重なデータを得ることができると考えられます。また、中世の遺構と思われる溝や土壙が発見され、長福寺裏には土塁の一部が残っていることから、ここが夏見城址であるといわれています。
 江戸時代の民間信仰にかかわる石仏は、貞享2年(1685)、元禄8年(1695)、元禄15年(1702)の十九夜塔、宝暦7年(1757)の庚申塔、天明5年(1785)の妙見像、寛政4年(1792)の結界石、文化2年(1805)の妙正大明神、文化3年(1806)の青面金剛王―庚申像―、文化9年(1812)の馬頭観音塔、文政11年(1828)の馬頭観音塔、文化10年(1827)の弁財天などが主なものです。
 (注)天明5年の妙見像の石仏は目下のところ市内で唯一のもので、寛政9年(1797)の結界石は、酒気をおびて寺にはいってはいけないと禁じた碑です。
 
5. 東夏見の旧家
 東夏見の旧家は、伊藤、中台、鈴木、神田姓の家が多く、竹ノ内、杉本、高橋姓の家もありますが、いずれもこの地の草分け的な存在です。
 江戸時代の名主は伊藤家、組頭は鈴木家が主につとめていたそうです。
 
(参考文献)
 千葉県東葛飾郡誌 千葉県東葛飾郡教育会 大正12年
 船橋市古代中世史料抄 船橋市史談会 昭和50年
 (講義録)船橋の歴史 船橋市郷土資料館 昭和51年
 船橋市史談会報 村上昭三「おちぼひろい」