19 金杉

※ 初出:『資料館だより』第30号(昭和59年1月30日発行)
 
1. 金杉のおいたち
 下総国葛飾郡南金杉村は、海老川の支流で現在市の河川名でいう北谷津川をはさむ両岸と、念田川を境とした北側一帯の台地と沖積地を含めた地域です。南は西夏見村・東夏見村、東は高根村、北は小金下野牧(三咲村・二和村)、西は上山新田の6ヶ村にかこまれています。
 金杉の地名の起こりについて、船橋市史前篇で高橋源一郎氏は、金杉は、金曾木とよばれており、曾木とは古語で「野のそぎ」「山のそぎ」といい野の果て山の果てという意味で、急傾斜地という意味と考えられるとのべています。金杉の地名は葛飾郡内にも他に2ヶ所あり、おそらく江戸時代の慶長検地のさい北金杉(埼玉県北葛飾郡松伏町)、中金杉(松戸市)、南金杉(船橋市)と命名されたと思われます。
 現在までで知られた最古の文献は、船橋大神宮文書の応長元年(1311)の「下総国船橋御厨六ケ郷田数之事」に「金曾木郷」とあらわれています。また近隣の村などの様子から考えても、かなりの古村であることは確かなようです。
 金杉村は、昭和32年(1957)の調査で183町4畝20歩でした。江戸時代の村高は幕末の頃190石1斗8升5合4勺で、江戸時代のはじめは、旗本秋山平左衛門昌秀の所領でしたが、元禄11年(1698)頃に、一色摂津守、稲垣富太郎、山高左太夫の旗本3氏に分割支配され、享保期の開墾により開かれた新田(幕府領)を加えて、幕末まで続きました。
 金杉村は、明治元年(1868)知県事佐々布貞之丞の管轄になり、のち葛飾県に属しました。明治4年(1871)には印旛県に属し、同5年(1872)印旛県第1大区3小区に編入されました。明治6年(1873)印旛県が廃され、千葉県第12大区13小区に改められ、明治11年(1878)の郡区改正で千葉県東葛飾郡に編入され後貝塚村と集合しました。明治17年(1884)には後貝塚村、前貝塚村、行田新田、藤原新田、上山新田、丸山新田と村連合を組織しましたが、明治22年(1889)米ケ崎村、東夏見村、西夏見村、高根村、七熊村、二和村、三咲村と合併し八栄村を組織し、八栄村金杉となりました。
 昭和12年(1937)八栄村・船橋町・葛飾町・法典村・塚田村で船橋市を組織すると船橋市金杉となり、昭和15年(1940)新町名設定で船橋市金杉町となりました。昭和45年(1970)一部住居表示がなされて金杉台1・2丁目、続いて昭和57年(1982)には金杉1~9丁目と一部住居表示未施行地の金杉町となり現在にいたっています。
 
2. 金杉の人口
 金杉の面積は、昭和45年(1970)の調査で2.216km²で、この地の草分けは6軒と伝えていますが、天保(1830~1843)の頃には52戸、人口は350人~400人程度と考えられます。
 明治以後で人口の推移を知れるのは下表のとおりです。

 江戸時代以来農業中心の地域でしたが、昭和23年(1948)北部地域に新京成電鉄が開通し、滝不動駅が開業、昭和32年(1957)には桜ケ丘分譲住宅が売り出され、字四畝割、滝前、木戸脇あたりが次第に住宅地になりました。また昭和46年(1971)には金杉台団地の入居がはじまり、人口の増加がいちじるしくなりました。人口の増加では、昭和34年(1959)に1000人突破、昭和46年(1971)に5000人突破、昭和48年(1973)に10000人突破し、市内でも人口の急増した地域に数えられています。しかし南部はまだまだ自然がのこり、昔の金杉の様子をよくのこしています。
 
3. 金杉の寺社
 金杉の寺は、真言宗豊山派の御滝山金蔵寺です。一般的には滝不動とよばれ、本尊は慈覚大師作と伝えられる不動明王です。この寺の創立は明らかではありませんが、かなりの古寺と思われます。天下井恵氏は「金杉の歴史」で、金杉金蔵寺と、御滝山金蔵寺の2つの寺があったが、天和3年(1682)寺社奉行から御滝山の管理を金杉金蔵寺にまかされ、明治22年(1889)頃寺ごと御滝山に移転し、御滝山金蔵寺を名のり、金杉金蔵寺は無住となったと伝えています。御滝山金蔵寺の縁起では、応永30年(1423)能勝阿闍梨が開基してから現住職で38代を数えるそうです。この他の寺は日蓮宗の叢林庵と祖師堂、中の堂(地蔵堂)がありましたが現在は堂がなく墓地だけのこっています。
 金杉の鎮守は神明社(豊受神社)ですが、この神社は、昭和40年(1965)に村内の神明社、天満宮、八坂神社、白幡神社などを合祀しました。祭神は豊受大神で、毎年1月7日におびしゃ、7月19・20日に天王祭り、10月18日に例祭などの行事が行われています。またこの神社の宮司は、船橋大神宮の宮司が兼務しています。
 
4. 金杉の文化財
 金杉で先土器時代・縄文時代・弥生時代の遺跡は現在のところ未確認ですが、古墳時代の遺跡は立場遺跡があり、この遺跡は古墳時代から奈良平安時代にかけての遺物が採集され、このころすでに集落があったと想像されます。中世の遺跡としては金杉城址があり、ここはもと平野七郎兵衛家の屋敷でしたが、明治30年代に火災にあって住居を移してここを畑にしたと伝えています。ここは内部が50m四方の方形で、西側は高15m程の崖となり、南側土塁下には腰郭と思われる平地となり、北側は(もと東側も)高4m程の土塁となっています。中世の遺物は文明7年(1475)、弥勒2年(1507か1532)の年号をもつ板碑が発見されています。近世の遺跡と思われるものは、字下井戸に「おーらんとー」(大卵塔)という墓地に塚10数基が群をなしていますが、いつの頃つくられたなど詳しいことはまだよくわかりません。
 近世の民間信仰にかかわる石碑は、宝永元年(1704)十九夜塔、享保3年(1718)庚申塔、享保14年(1729)地蔵像、元文3年(1738)牛頭天王、寛保元年(1741)天照大神宮、安永3年(1774)聖真子大権現、天明6年(1786)不動像(御滝山の銘あり)、嘉永5年(1852)常夜塔、万延元年(1860)回国塔などがあります。
 また金杉寺には、沢山の石碑があり、これらの石碑は、滝不動を信仰する講が組まれており、船橋市内はおろか、浦安市、東京、横浜などの講組で建立した石碑も見られます。これらの建立された年号を見ますと、明治・大正と刻まれたものが多くこの頃非常に盛んであったことがわかります。
 新四国八十八ヶ所巡りの弘法大師の石像も金剛寺の境内におかれています。海老川の水源の1つとなっている弁天池には祠があり弁財天がまつられています。
 
5. 金杉の旧家
 金杉家には、石井・横尾・大野・斉藤・米井・湯浅・平野・岡崎・大竹・鈴木・野瀬姓の家が旧家です。これらの家は、字南堀込・中村・自世開・宮前・東・外輪戸・高木・通山など中部から南部地域に屋敷をかまえて、集村的な様相を示しています。ちなみに江戸時代に名主をつとめた家は石井外記家であったそうです。
 
(参考文献)
 千葉県東葛飾郡誌 千葉県東葛飾郡教育会 大正12年
 (講義録)船橋の歴史 船橋市郷土資料館 昭和51年
 金杉の歴史 天下井恵 御滝中学校 昭和58年